【A&A 其の三】   投稿者:小師様  推敲手伝い:事務員


 一人の少女が歩いている。その足元はふらついているが、前へ進むという意思は感じられる。

  「はぁ、はぁ・・・く・・・」

 吐く息は荒く、左手で重たげに鞄を持ち、右手で腹を押さえている。
 制服姿の少女の名は真里谷(まりがやつ)暁子(あきこ)。霧生家に居候する高校生。といってもただの居候ではなく、霧生家の一人娘である霧生(きりゅう)綾乃(あやの)の側付家政婦と呼ぶほうが近い。
 しかし、先程の学校帰りに二人の女性黒服、鬼島(きじま)洋子(ようこ)とナスターシャ・ウォレンスキーに完敗し、綾乃は暁子を守る為に自らを差出した。

 (痛い・・・)

 右頬が朱く腫れ上がり、鈍痛を与えてくる。
 洋子から受けた凄まじい威力の掌底が原因だった。一瞬とはいえ意識を飛ばすほど、しっかりと貰ってしまったのだ。そこからは相手のペースに持っていかれ、一撃すら入れることができなかった。

 (私より強い人はたくさんいる・・・もっと強くならないと・・・)

 家のドアを開け、中に入る。

 (お嬢様が・・・)

 靴を脱いでリビングのドアを開ける。

 (義姉さんが・・・)

 その瞬間、暁子の意識は暗転した。




 (ここは・・・?)

 昔懐かしい映像。見たことが有る風景。初めて霧生家に来た時と同じだ。一家の主とその長女の前に、テーブルをはさんだ位置で座っていた。

 (夢、かな・・・?)

 おぼろげに浮かんだ疑問も、すぐに消えた。



 そう言えば、今でこそ仲の良い私とお嬢様も、初めての顔合わせは今とは真逆の冷え切ったものだった。



 「真里谷、暁子です」

 初めて訪れた家で、そこの主と一人娘に挨拶をする。養父からの紹介状を渡し、椅子に座る。

 「・・・そうか、師範は逝去されたか」
 「はい。霧生の家を頼れ、と言い残しまして」
 「そうか・・・。今日からここは君の家でもある。自由に過ごしていいからね」
 「はい、『社長』。よろしくお願いいたします」
 「そんなに堅苦しくなくていいよ。私を父と思ってくれ」
 「はい・・・『お養父さん』・・・」
 「・・・なんだか照れくさいね。あ、綾乃も自己紹介しなさい」
 「・・・」

 綾乃、と呼ばれた少女は明らかに不機嫌だった。こちらを見る目が冷たい。

 「あ、あの・・・『綾乃さん』、何か」
 「・・・気安く喋りかけないでくれる?」
 「綾乃! その言い方は何だ!」

 まるで親子喧嘩が始まりそうなほど空気が張り詰める。しかし喧嘩が起こる前に綾乃は何も言わず、部屋を出て行ってしまった。

 「すまないね、うちの娘があんなこと言って」
 「いえ、気にしていませんので」
 「・・・さて、うちには母親がいない。これから話すのは、君にお願いしたい事だ」
 「はい・・・」


 霧生社長は若いころから血気盛んなやり手社長として、一部の方面では名が知れていた。時にヤクザ者顔負けの、かなり強引な手法で土地を買い上げたりすることなどからの悪名であったが。強引なやり口から襲撃されることもあったが、本人の持つ柔道と空手の腕をもってことごとく撃退していた。
 そんな社長も結婚すると性格が丸くなり、人への優しさを持てる社長として一皮向けることになる。
 しかし、結婚して妻になった女性が自己の命と引き換えに愛娘を産み落としてからは甘さが見えるようになり、それに呼応するかのように会社の業績が頭打ちから右肩下がりになり始めた。それでも昔の恨みを晴らすべく極稀にとはいえ襲われることもあった。それらはすべて討ち掃ってきたが、愛娘に危害を加えられるのは拙いと思い、護身術として柔道を習わせたり、腕の立つ者を家政婦として雇って娘の身辺を固めた。知り合いの道場主の紹介で同い年の暁子を引き取ったのも、綾乃の身を守るという側面もあった。
 綾乃は写真に写る母親に似て美少女であり、またそのような社長の娘であるため、時に矛先や欲望を向けられることもあった。しかし小学校卒業まではそれまで勤めていた家政婦が、綾乃に仇なす全てを掃ってきた。


 「これからは、君が綾乃を守る役目を担って欲しい。同い年の君なら、綾乃を自然に身近で守ることができるだろう」
 「あの、家政婦の方は、今は」
 「・・・出て行ったよ」

 そう告げたときの社長は、心の痛みを堪えていたようだった。薄っすらとながら、社長が裏切られたのだと感じた。

 「わかりました。綾乃さんは私がお守り致します」

 それで養父の心配や苦しみが少しでも軽くなるのなら。私の宣言に、社長が柔らかな笑みを浮かべた。



 しかしその日から、私の憂鬱な日々が始まった。私が腕を振るった料理は食べてはもらえず、話しかけても沈黙だけが帰ってくる。家の中でも、学校でも、まるで居ないかのように振舞われる。それでも養父に頼まれた以上は綾乃の傍へ寄り添い続けるしかない。

 (どうしたら受け入れてもらえるのか・・・)

 考えても考えても、名案は浮かばない。何せ取り付く島もないのだ。

 (・・・どうすれば・・・)

 今夜も悩みながらの就寝となった。



 「あ、お早うございます、社長。今ご帰宅ですか?」

 朝帰りの社長に、私は深々と一礼をした。

 「ああ、ただいま。・・・その堅苦しい物言いは何とかならないのか?」
 「・・・お嬢様のためにはこのほうが宜しいかと思いまして」
 「何?」
 「お嬢様は、綾乃様は激しい人間不信に陥ってるようです。私が霧生の家を乗っ取ろうとしてると思い込んでいるようで」
 「はぁ? 里子だからってそんなこと・・・君には本当に苦労をかけるね」
 「お気になさらないでください。ただ、私も『お養父さん』とは呼びませんが宜しいでしょうか?」
 「それが最善だと言うなら好きにしてかまわないが・・・」

 それ以降、お養父さんと呼ぶ事は一度もなくなった。



 朝、登校しようとしている綾乃に出くわした。今回も無視されるだろうが、朝の挨拶を行う。

 「お早うございます。お嬢様。・・・お嬢様?」

 綾乃の様子が少しおかしかった。

 「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・」

 綾乃の目に力がない。息は荒く、体が重そうだった。少なくとも私はそう思った。

 「お待ちください、お嬢様。体調不良は看過できません」
 「うるさい、離せ!」

 綾乃は掴んだ手を振りほどこうとしたが、体調不良の身体では不可能だった。

 「お部屋にお戻りください。その体調では登校中に倒れてしまいます。今日はゆっくりお休みになってください」
 「・・・そうやって私までダメにして、霧生家を乗っ取るつもり? 金目当てでこの家に入ってきた人間の言うことなんて」
 「・・・いけませんか? 生きていく上で、お金は必要ですよ?」

 私の考えを、想いを、初めてぶつけた。その答えに綾乃は面食らったようだった。

 「ご安心ください。私は中学を出ましたら霧生家の籍から外れるつもりですから。・・・ああ、だいぶ熱がありますね。今日は二人でゆっくりしましょう」
 「・・・」

 無言ではあったが、彼女は部屋に戻っていった。



 私が作ったおかゆは綾乃に食べてもらえるだろうか。梅干を一つ乗せただけの簡単なものだ。

 「はい、どうぞ。お口に合いますかどうか・・・」

 綾乃が身体を起こそうとするが、よほど体調が悪いのか上半身を起こすことすらままならないようだった。

 「少々お待ちください・・・。さ、私に寄りかかって下さいな」
 「私は・・・そんなこと」
 「はいはい、病人はおとなしく甘えてください」
 「・・・うん」

 今までとは打って変わって素直に甘えてくる。それがたとえ体調不良のせいだとしても、私を頼ってくれたのが嬉しかった。
 寄りかかる綾乃の口にゆっくりとスプーンを運ぶ。

 「お味はいかがですか?」
 「・・・おいしいよ」
 「・・・そうですか。ありがとうございます」

 その一言が私の緊張の糸を切ってしまった。ありふれた一言なのに、涙が溢れて止まらなかった。




 (暁子・・・暁子・・・!)

 早く暁子に会いたい。暁子の顔が見たい。<地下闘艶場>で嬲られ尽くした私は、心身共に衰弱しきっていた。私を守ってきてくれた暁子、昨日も私を守って傷ついてしまった暁子と早く話がしたい。
 行きと同じ車の中で、私はただ服の右胸元を掴み続けていた。

 家に帰りついたのは、闘いの翌朝だった。

 「さ、着きましたよ、お降りください。それと、これは今回のファイトマネーです」

 洋子に促されるまま私は大金の入った封筒を鞄に入れ、車を降りた。リングで男の欲望の餌食となったせいか、体が怠く、力が入らない。それでも何とか気を張りつつ、家に入る。

 「暁子、ただいま」

 暁子を呼ぶ声が震えてしまった。

 「暁子・・・暁子?」

 再度暁子を呼ぶが、返事が返ってこない。おかしい、こんなことは今までなかった。胸が騒ぐままリビングを覗くと、その光景に思考が止まった。

 「暁子・・・!?」

 暁子が倒れている。
 今までこんな事は一度としてなかった。鞄を放り投げ、暁子に走り寄る。

 「暁子! 大丈夫!? 立てる!?」

 呼吸はしているが反応はない。身体の怠さなど気にならなかった。私は暁子を背負って部屋まで連れて行き、ポニーテールを解いて布団に寝かせた。衣服を剥ぎ取るように脱がせ、着替えさせる。暁子の朱く腫れた頬に氷嚢をあてると、すぐにキッチンへ向かった。二人分のおかゆを作り、暁子のもとへ向かう。
 ドアを開けて中へ入ると、ちょうど暁子が瞼を開いた。

 「ん・・・あ・・・お嬢様・・・」
 「あっ・・・気が付いた? 死んじゃったのかと思ったよ」
 「私は・・・お嬢様より、早くは・・・死にません・・・」
 「・・・これ、作ったから。起きれる?」
 「私の・・・取り柄の一つに・・・頑丈さが・・・ありますから・・・」

 暁子はそう言って起きようとするが、立つことはおろか上半身を起こすことすらできなかった。昨日の闘いのダメージが残っているのだろう。
 鍋を傍に置き、暁子を自分に寄りかからせるようにして上半身を立たせた。

 「そのような・・・自分で・・・何とかいたしますから・・・」
 「うるさい、怪我人は素直に甘えなさい」
 「わかり・・・ました。お言葉に・・・甘えさせて・・・いただきます・・・」

 そう言うなり、もたれ掛ってくる。綺麗な栗色の髪の感触が気持ちいい。

 (前にもこんなことがあったな・・・)




 暁子と初めて会ったのは、中学校に入る直前だった。彼女を一言で表すなら、傾国の美、だ。

 暁子は危険だ。幅広く深い知識をもち、強く、そして綺麗だ。何よりも父を「お養父さん」と呼び、また父もそれが嬉しそうだったことが気に食わない。あいつが作ったご飯は食べないし、口も利いてやらない。
 私は徹底して無視を決め込み、家の中だろうが学校だろうがすれ違っても敢えて目線を逸らすなど、早く家から追い出そうと必死だった。早く追い出さなければ、霧生家は暁子に乗っ取られてしまう。

 (どうせあいつも、金目当てなんだ)

 今はもう居ない継母は父が稼いだお金を湯水が如く使い、私を守ってくれていた筈の家政婦も最後は金庫の大金に目がくらんで持ち逃げした。クラスメートもその親も、父が社長だから媚び諂う。今度の養女もきっとそうだ。何とかしなければ、大好きな父親がまた騙されてしまう。

 (父さんを助けるのは、私)

 そう、今度は私が父を助け、守るのだ。



 「『お嬢様』、ご飯の支度が」
 「気安くお嬢様なんて呼ばないでよ!」
 「しかし、栄養を取らないとお身体が壊れてしまいますよ」
 「・・・」

 それ以上は何も答えない。毎日これの繰り返しだ。いつになったらこいつは諦めるんだろう。



 ある朝、家を出ようとしたとき暁子と出くわした。

 「おはようございます、お嬢様。・・・お嬢様?」
 「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・」

 荒い息が収まらない。体がだるく、力が入らない。

 「お待ちください、お嬢様。体調不良は看過できません」
 「うるさい、離せ!」

 掴んだ手を振りほどこうとしたが、もともと私よりも強く、さらにコツまで知っているこいつの手を振りほどく事はできなかった。

 「お部屋にお戻りください。その体調では登校中に倒れてしまいます。今日はゆっくりお休みになってください」
 「・・・そうやって私までダメにして、霧生家を乗っ取るつもり? 金目当てでこの家に来た人間の言う事なんて」
 「・・・いけませんか? 生きていく上で、お金は必要ですよ?」

 なんだこいつは。今まで誰もが否定してきた「金目当て」をあっさりと認めた。ありえない。何か裏があるのか。

 「でも、ご安心ください。私は中学を出ましたら霧生家の籍から外れるつもりですから。・・・ああ。だいぶ熱がありますね。今日は二人でゆっくりしましょう」
 「・・・」

 無言を貫いたものの、なぜか私は素直に部屋に戻っていた。



 暁子がおかゆを作って入ってきた。梅干が一つ浮いているだけの単純なものだ。

 「はい、どうぞ。お口に合いますかどうか・・・」

 身体を起こそうとするが、世界が回りフラフラする。

 「少々お待ちください。・・・さ、私に寄りかかって下さいな」
 「私は・・・そんなこと」
 「はいはい、病人はおとなしく甘えてください」
 「・・・うん」

 母親というのは、こういう風に世話をしてくれるのかもしれない。その安堵感に包まれて、なんとなく暁子にもたれ掛った。
 暁子がおかゆをスプーンに一口掬い、私の口まで運んでくる。

 「お味はいかがですか?」

 物凄く美味しかった。薄めの塩味以外の何か隠し味が、特に素晴らしく感じられた。

 「・・・おいしいよ」
 「・・・そうですか。ありがとうございます。」

 目を瞑って一言呟いた暁子の目から突然涙が溢れる。それを見て、なぜか私も胸がいっぱいになった。





 思い出したくない記憶。でも忘れたくない思い出。

 「・・・さ・・・・お・・・・・様・・・お嬢様?」

 よりかかっていたはずの暁子が、膝立ちになって私を呼んでいるのが聞こえた。

 「あとは、私がやっておきますので・・・」
 「あ、ごめんね。思ったより薄味だったけど、その・・・美味しかった?」
 「はい、とても。ゆっくり休んで、美味しいおかゆを食べたので動けるようになりましたし。さ、お嬢様はお休みになって下さい。お疲れでしょう?」

 何も言わなくても、すべてわかっているようだった。私の事は全てお見通しなのだろう。

 「じゃ、私はここでもう一眠りするね。お休み〜」
 「こ、ここで寝るんですか?」
 「・・・」
 「・・・もう」
 
 パタン、とドアを閉じる音がした。その音を聞いて、私は夢の世界へと旅立った。





 (あれ、これって・・・)

 いつの間にか私は教室で居眠りをしていた。席を立ち、外を見る。つい最近までお世話になっていた母校の教室の風景だ。

 (この服、この景色・・・中学校なんて懐かしいなぁ・・・うわ、こんな時間。暁子が怒る前に帰らないと)

 一人で家路につこうとすると、体育館の裏へ向かう男子生徒たちと暁子が見えた。なんとなく気になり、近くの物陰に隠れて耳をそばだてる。
 少し小柄だが女子の間では人気の高いイケメン、細身ながら長身で目つきの悪い男、長身だがでっぷりと肉の付いた巨漢の三人が、暁子を取り囲んでいる。

 「なぁ暁子ちゃん、キミ、綾乃ちゃんといっしょに住んでるんだって?」
 「それが何か?」

 男子はここの中学校内でも遊び人として有名な不良生徒三人組だった。何度か直接遊びに誘われた事もある。しつこく話しかけてきたが、毎回にべもなく断っていた。
 三人組の内、小柄なイケメンが体育館の壁を背負う暁子に近づき、無表情な彼女の頭の横に左手をつき、至近距離で話しかける。

 「綾乃ちゃんとデートしたいんだけど、間を取り持ってくれないかなぁ?」

 こんなところに触手を伸ばすとは。暁子には散々嫌がらせをしてきてしまった過去がある。その腹いせに協力されてしまうならば自業自得、と半ば諦めていた。しかし答えは意外だった。

 「お断りします」
 「そんな事言わずにさぁ、頼むよ。礼はするからさぁ」

 イケメンが壁についていた左手を暁子の肩をまわすように抱き、反対の手でスカートからすらりと伸びる白い太ももを指で撫でる。拒否をすれば力ずくで従わせる、と言わんばかりだった。
 暁子は一瞬だけ嫌悪感を表に出したが、すぐに表情を元に戻し右手をするりと外す。

 「触らないでください。下手な事をすると警察が来ますよ?」
 「そんな怖いこと言うなよ。君も楽しませてあげるから」

 今度は肩を抱いていた左手が暁子の左胸を掴み、揉み回す。長身の二人も近づき、もう片方の胸を揉み、脚を撫でる。細身の男子は暁子にご執心の様で、とにかく暁子の美貌を蕩けさせようと殊更奮闘している様だった。

 「へー、君もなかなかいいものを持ってるね。じゃぁ先に暁子ちゃんから遊びに」
 「触らないで!」

 今度は暁子も不快感を隠そうともしなかった。後から近づいてきた二人に肘と掌を叩き込み、胸を掴む最初の男子の左手を掴んで背中側で極め、ゆっくりねじり上げる。

 「痛てててて!」
 「君も、とは、こんな事を彼女にもするつもりだったんですか?」

 背中を思い切り突き飛ばし、男子の手を離す。

 「てめぇ、痛ぇじゃねえか! もう許さねぇぞ!」

 三人組が暁子を取り囲み、折りたたみ式のナイフを取り出し威嚇するが、暁子は怖がるどころか呆れ顔だった。

 「はぁ・・・そんな鈍らなナイフで私が怯えるとでも?」
 「はん、強がったってもう遅えぞ。その体に刃物の痛みを教えてやるよ。服くらい脱いでくれたら考えるけどな」
 「・・・わかりました。ならば私は」

 そういうと暁子は右腕を振り始めた。次の瞬間、どこから取り出したのか手には紫黒の鉄扇を持っていた。その鉄扇を片手で開き、口元を隠し微笑む。艶やかな微笑みに三人とも魅了される。

 「刃物の怖さをお教えします」

 そう呟いた時にはもう横の二人を鉄扇で突き、張り倒していた。痛みに悶絶し転げまわる姿が滑稽にすら思えた。

 「嘘だろ、こんな・・・」

 馬鹿な、と言い切る前に手をはたかれ、ナイフを落とす。

 「こんな鈍らナイフを振るうとは・・・我が身を抓って人の痛みを知るべきです」

 冷たい声とともに暁子が落ちていたナイフを拾って一薙ぎすると、立っていた男子の右頬に赤い線ができ、見る間に溢れた血が流れ出す。暁子は更に寝ている二人の眉間と顎を切りつける。痛みに頬を押さえて呻き、のた打ち回って奇声を上げる不良共に、綾乃にとって忘れられない一言が放たれた。



 「義姉さんには指一本触れさせません」



 尚も痛みに叫ぶ三人組を締め落とした暁子は鞄を拾って歩き出したが、二、三歩進んだところで急に止まった。

 「さっさと帰らないと夕食の支度が間に合わないですね。お嬢様、早く行きましょう?」

 いつから気づいていたのだろう。もしかして最初からだろうか。

 「・・・うん」
 「どうしましたか? 元気がなさそうですね?」
 「・・・」
 「え、なんですか?」
 「なんでもないよ! さっさと帰ろ!」

 こんなにいい気分である理由はわからないが、最高の笑顔を作って暁子の腕に抱きついた。




 <地下闘艶場>の闘いの後、意外にも霧生家は平和だった。社長の安否は未だわからないが、借金取りが来ることもなく黒服たちが来ることもなかった。
 しかし、二人はいつ「お迎え」が来てもいいように、さらに厳しいトレーニングを自分に課していた。綾乃は二度と屈辱を味わわないために、暁子は二度と不覚を取らないために。

 それからしばらくして、また黒服の女性二人が現れた。前回のように二人の下校中にブラックフィルムを張った車が前を塞ぎ、暁子もまた前回と同様に綾乃を隠すように前に立つ。

 「久しぶりね、霧生綾乃さんと真里谷暁子さん」

 軽い感じで洋子が二人の名前を呼んでくる。ナスターシャはどこか不機嫌に二人を睨む。

 「・・・お嬢様には指一本触れさせません。お引取りください」
 「見当違いも甚だしい。今回は真里谷暁子、お前の出番だ」
 「―――!?」

 いつか来るとは思っていた。しかし、まさかこの件で呼ばれるとは思っていなかった。
 綾乃を一人にするのは社長と交わした約束を破ることになるのではないか。私の居ない間に何かあったら・・・

 「今更説明するまでもないが、お前を呼んだのは霧生社長だ、わかってるな?」
 「前回と同じように、前回と同じ理由で拉致をする、ということですか」
 「拉致とはご挨拶だな。お迎えだと・・・お前には言ってなかったか? ま、今回はお前と闘いたがってるヤツがいるんでね。相手して差し上げろ」

 ナスターシャの言葉に引っかかるものがあった。言葉は丁寧な感じだが、今までにない軽蔑のようなもの。ひとつだけわかっているのは、それを向けているのは暁子たちに対してではないということだった。

 「・・・おイタが過ぎる悪童がいるみたいですね。ですが条件があります」

 暁子の要求に、洋子が微笑を浮かべる。しかし、その目は逆に細められている。

 「条件を出せるような立場にあると思っているの?」
 「でしたら、お願いがあります」
 「・・・聞くだけ聞こうかしら」
 「お嬢様を守ってください。私が居ない間だけ」
 「それは私たちの仕事ではないわね」
 「ではお嬢様を控え室に入れてください。それならば問題ないでしょう?」
 「・・・全く、交渉上手だこと。聞いてみるから待ってなさい」

 洋子が連絡を取り始めると、ナスターシャが口を開いた。

 「綾乃はお前が仕える主、だったな」
 「そうですが、それが何か?」
 「先に言っておくが、私は綾乃を連れて行くことはお勧めしない。・・・もう遅いがな」

 何故、と問う前に洋子が戻ってきた。

 「別に構わないわ。なんだったらセコンドとしてリング下まで行ってもいいそうよ。さ、時間がないから早く乗って」




 「あれ、運転手は前回の人と違うんですか?」
 「なぜそう思う?」
 「なんとなく、曲がる回数が多いような気がするんです。酔いそうですよ」
 「これだけ静かな運転で、か? どれだけひ弱なお嬢様なんだ」

 軽口を叩く綾乃は微かに震えていた。恐らく前回の記憶が蘇ったのだろう。その声色から察したのか、綾乃の震える手を暁子が握った。

 「大丈夫ですよ、私がお守りしますから。そんなに心配しないでください」

 暁子が囁く。綺麗な、相手をホッとさせる声。それでも。

 「ありがと。でも自分の身は自分で守るからね」

 そう言って、綾乃は暁子の手を握り返した。



 綾乃は前回と同じく、暁子は初めて、二人は目隠しをされたまま控室に案内された。洋子の許しで目隠しを取ると、やけに室内灯が眩しく感じられる。ナスターシャの姿は見えない。

 「では早速、契約書の確認を。ただし、綾乃さんは口出し厳禁です。宜しいですね?」
 「・・・はい」

 綾乃は何か言いたげだったが、結局は頷くだけだった。
 暁子は洋子の差し出した契約書をパラパラと流し読みをし、1秒経つか経たないかで机に置く。そんな暁子に綾乃が怪訝そうな顔をした。

 「ちょっと暁子、ちゃんと読まないと」
 「洋子さん、まずは何故ダウンしている相手への攻撃が反則なのか説明していただけますか?」

 暁子の披露した速読術に、洋子の表情が(僅かに)変わる。

 (こんな能力まで身につけているとは・・・ますます部下に欲しくなるわね)

 洋子の内心の呟きは、暁子には届かない。

 そこから延々とやりあったが、結局ダウンしている相手への攻撃が反則、という点のみしか削除できなかった。隣の綾乃が目で何かを訴えてくるが、先程洋子に釘を刺されたために発言はしない。

 「では、納得して頂けましたね?」
 「・・・はい」

 不承不承ではあったが、暁子は頷きを返す。

 (所詮は高校生ね)

 洋子は内心の嘲笑を外には出さず、笑顔で告げる。

 「釘を刺すようですが、今回は連戦になりますので一試合目終了時にリングを去らないようにお願い致します」
 「わかってます」
 「では、衣装に着替えてください。時間もあまりありませんので」

 衣装の入った紙袋を手渡し、洋子は部屋を出ていった。

 「んもう、私のアイコンタクトに気づかないんだから」

 律儀に沈黙を通した綾乃は、憮然とした表情で暁子を睨む。

 「あっはっは、申し訳ありません、鈍感なもので」

 軽く受け流し、衣装を取り出す。

 「これはまた・・・お嬢様、見てください。こんな衣装をいただきましたよ。カッコイイですね、貰って帰ろうかな」
 「ふざけてないで、アップの時間も無くなっちゃうよ?」

 綾乃は、暁子が異常なほどハイテンションであることに危機感を覚えていた。

 (さっきから、何かヘンだよ暁子。どうしたんだろう)

 そんなことを考えていた綾乃だったが、衣装に着替えた暁子を見て、綾乃は見とれてしまった。すごく美しい。

 「・・・どうしましたか? 私の顔に何かついていますか?」
 「え!? い、いや、何もないよ?」

 今の冷たい声を聴いてやっと分かった。暁子は激怒している。恐らく、洋子を論破できなかった自分に。

 「そうそう、今日は武器は使えないそうなので、これを持っていてください。お守りにはなりますよ、きっと」

 そう言って暁子が手渡したのはいつも持ち歩いている鉄扇だった。

 「え? 何言ってるの、これはあなたの」
 「私が間に合わなかったら、それを使ってください。それ、意外と痛いんですよ。お嬢様は選手じゃないですから、恐らく持ってても大丈夫でしょう」
 「・・・うん、わかった。私がしっかり預かっておくね」

 綾乃は鉄扇を受け取り、それを袖に隠した。そのまま暁子につられたように柔軟体操を始める。それを横目で見ながら、暁子は入念に体をほぐす。

 (絶対に、絶対に勝つんだ。社長のためにも、お嬢様のためにも)

 そして暁子は改めて気合を入れ、柔軟体操を終えてアップを始めた。


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