【A&A 其の五】   投稿者:小師様  推敲手伝い:事務員

 鬼島洋子と長身の男が暁子の背中を押して部屋を出ていく。笑みを浮かべた暁子の表情は、それなのにどこか悲しげだった。暁子が無理して笑っていたのは、私がまた、心配をかけてしまうような顔をしていたからだ。

 「暁子・・・っ」

 今はもう自分がどんな顔をしているのかすらわからない。
 突然ドアがノックされたとき、私は備え付けのベッドに座って右胸の辺りを握りしめ、涙を流していた。急な音に驚くが、それでも平静を装うために目元を拭く。

 「・・・はい」
 「失礼します」

 入室してきたのは、先程出て行ったはずの洋子だった。

 「主の命により家までお送り致します」
 「暁子が戻るまで待たせてください」
 「それはできかねます。相当長い話になりますので」

 私の要望はあっさりと一蹴された。

 「構いません。私は暁子が戻ってくるまで」
 「綾乃さん、聞き入れてください。清掃等もありますので、あなたがこちらに留まることはできません」
 「義妹が連れて行かれて一人で帰る義姉はいません。何と言われようとここからは動きません!」

 思わず立ち上がり、強い口調と共に洋子を睨みつけるが、相手は暁子を叩きのめした女だ。少し腕が震えてしまった。
 すると、洋子の浮かべた冷笑が私を見据える。

 「物わかりが悪いお嬢さんね」
 「・・・えっ?」

 突然口調まで変わった。そのことに少なからず気圧される。

 「あなたの父親のことで暁子さんは主に会っているの。話し合いはかなりの時間になるわ。その間ここに居られると迷惑なのよ。清掃の問題だけじゃない、あなたの身を守るためのガード役、セキュリティのための人員、かなりの必要な人間と費用が発生する。それをあなた個人で支払える?」
 「それは・・・でも・・・!」

 畳み掛けるような言葉の洪水に、私は溺れかける。それでも口を挟もうとするが、更に濃くなった冷笑に射すくめられる。

 「そう。ここに残って、使用料を払ってくれるのね」

 使用料と称した金額がどれだけの値になるのか、想像もつかない。唇を噛んだ私に追い討ちがきた。

 「あなたが望むのなら、今すぐに試合を組んでもよいのだけど。選手が控え室を使うのは当然のことだものね」

 試合、という響きに身が竦む。

 「黙っているのは試合の承諾、と受け取ってよいのかしら?」

 暁子ほどではないにしても、先程まで散々嬲られたのだ。私は反射的に首を振り、拒絶していた。

 「そう。なら、自宅まで送るわ。安心して、暁子さんが戻るまでは私が身辺警護をするから」
 「・・・わかり、ました」

 敗北宣言にも等しい返答に、洋子は笑顔でドアを開けてくれた。あの冷めたい笑みを浮かべたままで。

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 「もう目隠しを取っていいわ。家に着いたから」

 目隠しを取ると、見知った場所が視界に飛び込む。夜ではあったが、家の近くであることが認識できる。

 「さ、部屋に入れて。客ではないから持て成しはいらないけど」

 洋子の言葉は聞き流し、家の中に入る。

 「思ったより綺麗ね。暁子さんのお手並みね?」
 「・・・義妹を甘く見すぎじゃないですか?」
 「所詮は高校生レベルだと思っていたけど、家事もここまでのレベルだとはね。驚かされたわ」

 そう言いながらも、洋子は間取りを頭に叩き込む様に部屋という部屋を見て回る。

 「・・・緑茶でいいですか?」

 客扱いしなくていいとは言われたが、そのまま受け入れるのも癪だ。しかし洋子からは何の反応もなかった。聞こえていないのか、無視されたのか。

 (とりあえず熱めのお茶だよね・・・茶菓子はあったかなぁ)

 暁子の整理は行き届いており、お菓子が入っている棚には「お菓子類」と書かれたシールが貼ってある。しかしこういう日に限ってお菓子を切らしてしまっているようだ。仕方なく緑茶だけお盆に乗せて運ぶ。

 「綾乃さん、持て成しはいらないと言ったはずだけど?」

 いつの間にか戻ってきた洋子が、そう言いながらも椅子に座ってお茶を飲む。

 「・・・その、美味しいですか?」
 「ええ、ごちそうさま。さ、綾乃さんはお休みになった方がいいわ。疲れたでしょう?」
 「でも暁子が」
 「もうしばらく戻ってこないわ。戻ってきたら元気な姿を見せてあげないといけないでしょう?」

 上手く言い包められたとは思うが、それでも部屋に向かおうとした時、外からタイヤの急ブレーキ音が幾つも響く。

 「・・・綾乃さん、ちょっと睡眠はお預けね。二階の部屋に居て」

 洋子は緊張も見せずに玄関の方へ向かっていく。私は言われた通りに二階に行き、自分の部屋に入った。



 「霧生! いねえのかぁ!?」
 「そろそろ返してもらわねえとこっちも仕事にならねえんだわ!」

 玄関の方から聞こえる怒声は、いかにもガラが悪い。少し怖くなるが、それでもそっと窓の外を確認すると、こちらもガラの悪い三人が陣取っている。
 玄関が開き、洋子が姿を見せる。その後ろから別の男が二人ついてくる。全部で五人の男に周囲を囲まれているというのに、洋子は顔色一つ変えていない。玄関横に付けられたトーチライトに浮かび上がる美貌は闇夜でも輝いている。

 「お姉ちゃん、ここの家の者かぁ?」

 問いかけにも知性が欠けている。洋子の返答は普段のままだ。

 「答える義務はないけど、一応お仕事で来てるのよ。あなたたちは借金取りかしら?」
 「そうだけどよ、ここの主人が金返さねえんだよ。期限も過ぎてるし、そういうことされると困るんだよなぁ」
 「それについては同意するけど、大声で怒鳴られると近所迷惑なのよ」
 「・・・近くに家なんぞ見当たらんぜ、バカにしてんのか?」

 霧生家は住宅街を抜けた山の麓に一軒だけポツンとある。敷地も家の大きさも一般の家と大差はないが、土地の買い手がつかない為か隣の家からは距離があった。

 「ふうん、それに気づくくらいには理解力があるのね」

 洋子の挑発に、男たちの眉間が険しくなる。

 「それより、取り立ては暫く猶予を作っているはずよ?」
 「何も聞いてないぜ? 嘘はいけないんじゃないのか?」
 「だったらあなたの上司に聞いてみなさい。先に手を出したら大変よ?」

 洋子の言葉が強がりだと思ったか、男たちが含み笑いをする。

 「災難だったな、こんなところでお仕事なんてよ」
 「あんたも綺麗だなぁ。お仕事切り上げて俺らと遊ばない?」

 洋子はため息を一つつくだけで、それ以上の反応はしない。

 「なんだよ、無視しなくてもいいだろ?」

 男が肩に伸ばした手から、僅かな動きで身を避ける。

 「私は貴方達が手を付けていいほど安くないのよ」
 「お高く止まりやがって。ま、力づくってのも嫌いじゃないけどよ」

 男たちの顔に欲望の色が浮かぶ。

 「そう・・・やれるものならやってみなさい」
 「そうかよ。じゃ、後悔するな!」

 言葉と共に五人が構え、襲い掛かる。暴力を振るうことに慣れた無造作ぶりだった。

 「シッ!」

 しかし洋子の動きはそれを遥かに上回った。掌底で、投げで、瞬く間に五人全てを地に這わせていた。

 「少しお疲れのようね。動きが鈍かったわよ」
 「ぐ、このくそアマ・・・」

 その内の一人が立ち上がり、右手にナイフを構える。

 「へへ、これで立場が逆転ってか?」
 「ふぅ・・・誰かも言ってたわね、『よくみのほどをしれ』ってね」
 「何を・・・!」

 (危ない!)

 怒りに任せ、ナイフを構えた男が正面から突っ込んで行く。私は思わず手近に遭った硬球を投げ込んでいた。

 「ぐぁ・・・!!」

 ボールは見事に命中し、男は右の手首を押さえ呻く。恐らく骨折しているだろう。
 思わず握り拳を作った私を、下から洋子が見上げていた。その視線はとても冷たく。余計なことをしたと理解した私は、そっと顔を引っ込めた。

 「てめぇら! なにしてやがる!」

 突然の怒号に、思わず身を竦める。それは私だけではなく、洋子にやられて呻いていた男たちもだ。洋子だけが平静な顔をしている。
 怒号を放ったのは、薄いサングラスを掛けた風格のある男だった。背後にはもう一人の部下が付き従っている。

 「誰がこんな荒っぽいやり方しろって言ったぁ! アアッ!?」

 サングラスの男は、部下である筈の男たちを容赦なく蹴り飛ばしていく。鈍い打撃音が二階まで届く。

 「申し訳ないことをしたな、お姉さん。あんたが『御前』の関係者だとは知らなかったとはいえ、ちと性急に過ぎた。こいつらにもよく言い聞かせておくから、この場はこれで収めてくれ」
 「どうしたものかしらね。さっきも言ったけど、ここの家の取り立ては猶予中のはずよ?」
 「うちへの連絡が遅くなっててな、末端の人間は辛いのさ。その分の詫びは今したんだ、理解して欲しいとこだ」

 洋子の冷静な追及にも、男は人を食った返答を返す。

 「オジキ、この女やっちまいましょうよ。今はこいつ一人だ、ここの評判の娘と一緒に拉致って・・・」

 立ち上がった一人がサングラスの男に上目遣いで話しかける。しかし次の瞬間、再び地面に倒れ込み、失神していた。

 「空気の読めない野郎だな、馬鹿が」

 右拳を振ったサングラスの男は、洋子に向かって視線を向けた。

 「これで、もうこっちに何かしようって気がないのはわかってもらえたよな?」
 「私は仕事をしただけよ。貴方も仕事をしようとした。それでいいんじゃないかしら?」
 「よし、わかった。俺らは帰る。『御前』にも宜しく伝えておいてくれ」

 男はサングラスの位置をなおし、微かに笑みを浮かべた。

 「あんた、いい腕だな。上の嬢ちゃんもいいコントロールだ」

 やはり綾乃の行動が見られていた。男は部下たちをけしかけておきながら、自分は車の中からじっと観察していたのだろう。

 「今度、野球しようぜって伝えといてくれ」

 それだけ言うと、サングラスの男は身を翻し、車へと歩いていった。洋子に叩きのめされた男たちも威嚇の視線を投げながら、気を失った仲間を連れて車に戻り去って行った。
 それをじっと見送っていた洋子が、二階の私の部屋を向く。

 「綾乃さん、ちょっといいかしら」
 「はい・・・」

 洋子に呼ばれた私は、玄関へと移動した。

 「部屋で待ってろと言った筈だけど。聞こえなかったのかしら?」
 「でも私も」
 「貴女の姿を見られることが拙いと言ってるのよ。家に乗り込んでくる口実を与えることになるわ。覚えておきなさい」
 「・・・」
 「暁子さんほどの人間を従える主ならば、どっしり構えなさい。従者にとっての自慢の主になりなさい」
 「・・・はい」
 「さ、お話はここまで。さっさと寝なさい。私は居間にいるから」

 再び自室へと追い立てられ、私は渋々ベッドへと入った。
 眠れる筈もないと思っていたのに、瞼が自然と閉じていた。

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 翌日、日も高くなり蒸し暑さが増してきたころ、黒塗りの高級車から暁子が降り、我が家へと向かって歩いてきた。中からそれを確認した綾乃は、矢も盾もたまらず玄関から飛び出していった。

 「暁子!」

 何十年かぶりの再会をしたかのように暁子に飛びついた。

 「お嬢様・・・ただ今戻りました」
 「暁子・・・無事に帰ってきてよかった・・・」

 暁子が帰ってきてほっとしたのか、綾乃は暁子の胸の中で泣き出してしまった。

 「ご心配おかけして申し訳ありません。・・・洋子さん、昨晩はありがとうございました」
 「別に、仕事だからお礼なんていらないわ。それじゃあね」

 そう言うなり暁子と入れ替えに車に乗り込み、去っていった。

 「暁子・・・何か・・・また綺麗になったね」
 「へ!? 何を仰るんですか、急に。私はそんな趣味は」
 「疲れたでしょ? 中入ろうよ」

 そう言って綾乃は先に家に入ってしまった。

 (びっくりした・・・)

 心臓の鼓動が早い。何となくもやもやした感じを残しながら暁子も家に入っていった。

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 シャワーを浴びて居間に戻ると、綾乃がお茶の用意をしてくれていた。急いで服を着替え、お茶をいただく。
 綾乃はこちらの顔をじっと見てにこにこし、何も話しかけてこない。その静けさに耐え切れなくなり、口を開く。

 「申し訳ありません、話が長引いてしまいまして・・・」
 「うん、それはいいの。暁子がちゃんと帰って来てくれたから」
 「ご心配ばかりかけて・・・色々聞いているうちに夜が明けてしまいまして」
 「そう・・・ねぇ、父さんは生きてるの?」

 空気が重くなる。本当はすぐにでも聞きたかったことだろう。

 「・・・はい。ただ、直接会ったわけではありませんが」
 「そう、わかった。それで・・・何を言われたの?」
 「・・・私が勝ちきれなかったせいで、再試合ということになりました。申し訳」
 「言わないでよ。私が勝てれば何もなかったんだから・・・」
 「・・・社長とお嬢様の身の安全と借金の天引きは飲んでいただきました。なので、次私が勝てば社長に帰って来ていただけます」
 「ふうん、それだけの条件を引っ張り出したんだ・・・すごいね暁子、何を払ったの?」
 「え?」
 「それだけの条件、タダじゃないでしょ! なにされたの!?」
 「何もございませんよ?」

 途端に綾乃の目が細められる。

 「暁子!」
 「は、はい、どうしましたか?」
 「・・・私より嘘をつくのが下手だよね。また頬をかいてるよ」

 癖を見抜くのは投手としての職業病かもしれないが、私が羨む才能の一つだ。

 「・・・敵いませんね」
 「で、何を払ったのよ? お仕事を手伝わされるわけ?」
 「・・・その・・・を」
 「なんですって?」
 「・・・夜伽をしてきました。それが、再試合の条件でしたので」

 できるだけ軽い口調で言ったつもりだったのだが、綾乃にはかなりの衝撃だったのか、口を押さえて俯いてしまった。

 「・・・暁子、お願いがあるの」

 綾乃が口を開く。私を見る目に哀しみが混ざっている。

 「何でしょうか?」
 「私が言える義理じゃないけど、お願いだからもっと自分を大切にして。一生に一回しかないことを」
 「この家に来た時に決めてたんです。お嬢様の為に必要なことは全部する、と」
 「だからって・・・」
 「今のお嬢様にはお父様が必要です。ですから、後悔はしていません」
 「父さんも私も、厳密に言えば暁子とは血のつながりのない、赤の他人なんだよ?」
 「・・・私は、この家に呼んでいただいて本当に助かったと思っています。それだけでも充分恩返しの理由になります。ですから、それくらいはしないと。さて、そろそろ私は一旦お休みをいただきますね。何しろ疲れてしまって」

 いたたまれなくなった私は無理やり話を切り上げると、逃げるように自分の部屋に戻って布団に入った。すぐに襲ってきた睡魔が、懐かしくも悲しい夢へと叩き落した。

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 真里谷家はとある家の分家であり、武術の道場主である一方で本家の跡継ぎの武術指南役の役目も担う名門の家柄だった。今では先代にあたる暁子の養父は真里谷本家の一人息子であったが、女性と縁を持てずに過ごしてしまった。結果として跡継ぎを作ることができず、真里谷家の分家の男児を養子にして、道場及び嫡流を譲り渡すことになるはずだった。
 しかしたまたま指南を請われて行った孤児院で、底の見えないほど暗い目をしてはいたが、武術の才能を確信させる女の子がいた。栗色の髪をし、普段は誰とも話すこともないが、道着を着ると人一倍熱心に体を動かしていた。自分の従弟の男児どもとの違いにため息をつきたくなるほどに。

 「こんにちは」
 「・・・」

 話しかけても目を向けるだけ。このくらいは想定の・・・。

 「・・・こんにちは」

 予想外。挨拶はできるのか。

 「どうしたの、こんなところで。みんなと遊ぶのも楽しいんじゃないの?」
 「いいの。わらわはあくまのこなんだって。ひとのちかくにいるとふこうになるんだって」
 「・・・おいおい、誰がそんなひどい事言ったんだ?」
 「おかあさん。わらわのせいでいえがめちゃくちゃになったんだって」

 言われている事は、年齢を考慮しなくても相当酷なことだ。まして相手は幼児だ。

 「自分でもそう思ってるのかい?」
 「うん。まいにちのようにこわいおじさんたちはきたし、おとうさんのかいしゃもつぶれちゃったんだって。わらわがうまれてからそうなったんだって」

 ・・・聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。少しだけ女の子の表情が曇ったような気がした。

 「・・・ところで、おじさんが教えてる武術は楽しいかい?」
 「ぶじゅつ?」
 「さっきも竹刀振ったでしょ。竹刀ってわかるかな? この棒だけど」
 「わかるよ、すっごいたのしいよ!」

 今までとはエライ違いだ。目が爛々と輝いている。その目を見た瞬間、つい口から出た言葉があった。

 「もし、君さえよければ・・・」

 それが師範と女の子の出会いだった。

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 女の子はその後、その男性に引き取られ真里谷家の養子となった。最初は女の子だということもあり、特に誰も表だって反発することはなかったが、日を追うにつれて他の門下生を追い越す実力をつけ始めると、分家の人間が二人にすり寄ってくるようになった。誰とて権力は欲しいものだが、真里谷の本家の養子が音に聞こえた美少女とくれば尚更だろう。

 「暁子、今日来た二人は僕の弟にあたる人とその息子だ。覚えておいてくれ」
 「・・・はい」
 「どうした? 何か嫌なことでもあるのか?」
 「その、息子さんが・・・」
 「ああ、彼がどうかしたかい?」
 「目が・・・その」
 「あー・・・まぁ、その、年頃の男の子だからね。気にするなとは言わないが、あんまり考えすぎても仕方ないぞ」
 「・・・はい・・・」

 これで何度目だろうか、従弟やら兄弟やら本家の方やら・・・。初めて会った大人たちは暁子の美少女ぶりに驚いていた。その息子たちと言えば、彼女より少し年上になると明らかに男女を意識している雰囲気があった。そのほんの少しとはいえ欲望の混じった目が暁子は嫌いだった。何とも言えない気持ち悪さを感じるのだ。特に今日来た目の下に痣がある男の子は何かよからぬことを考えていそうだ。

 (何故・・・こんな目に・・・)

 普通の生活ではないかもしれないが、この道場で学ぶことは全て興味深いし学んでいて楽しい。しかし人間、特に養父と同じ血を引いた男どもの目はすべて消してしまいたくなるほどだった。それらを忘れようと尚一層の修練に励んだ。しかしそうすると、師範から決まってあることを言われた。

 「暁子、最近お前から強い殺気を感じるぞ」

 人を殺すために武術を教えているわけではない、と窘める。

 「いいか、いつでもどこでもお前は熱くなりすぎる。特に僕の親族が来た時は激しいぞ。気持ちはわかるが常に冷静でなければ、女のお前では勝てるものも勝てないぞ」

 耳にタコができても尚聞こえるくらい、何千万回と言われた(ような気がしている)ことだ。

 「常に冷静であれ。周りの風景が常に見えているようでなければ一人前とは言えないぞ。いいな?」
 「・・・はい」
 「あーあー、そんなにむくれるな。僕もあんまり好きじゃないから気持ちはわかるよ。おいで」

 師範、ではなく養父が頭を撫でてくれる。それがたまらなく嬉しかった。

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 小学校の高学年になったころ、それまで会ったこともなかった本家の嫡子が道場にやってきたことがあった。

 「ただ今戻りました・・・」

 玄関扉を開けると養父と知らない少年が私を見ていた。顔立ちが整っており、素直に格好いいと思えた少年だった。気が付くと私は養父の後ろに隠れていた。

 「暁子、挨拶しなさい」

 師範の背中から顔だけ出して挨拶をする。その様子に師範は苦笑いだった。

 「しかし、本家の嫡男が直々にいらっしゃるとは、物好きなことで」
 「親に連れられて近くまで来たのですが、散歩がてら久しぶりに道場に、と思いまして。大人同士の話し合いは何言ってるかわかりませんから」

 年のころは私とそう変わらないだろうが、聡明そうな少年だ。
 普段は師範が本家まで足を運んでいるのだそうだが、今日は何故かこの道場に立ち寄ったのだった。

 「・・・本家の若様だ。暁子、お茶を淹れなさい」
 「・・・はい」
 「お構いなく。これから道場に行きますから」

 そういうと中に入り、家の中を通り抜けて道場に向かっていった。

 「暁子、君の話はきっと彼も知っているだろうが、努めて冷静にな」
 「はい」


 部屋で着替え道場に行くと、既にその若様は竹刀を振っていた。
 私に気付いたのか、きりのいいところできりあげると、そのままこちらに近づいてくる。

 「君が、師匠が養子にしたっていう女の子かい?」
 「は、はい・・・」

 吸い込まれそうな深い黒に染まった瞳。だがその目は輝いて見えた。

 「名前を聞いてもいいかな?」
 「暁子です。はじめまして」
 「暁子、か。いい名前だね。あ、僕は―――っていうんだ」
 「強そうな名前ですね。目標は上洛ですか?」
 「・・・そんなことを言われたのは初めてだけど・・・」

 そういいつつ笑っているが、明らかに困惑している。その空気をごまかそうとしてか、突拍子もない事を言い出した。

 「そうだ、一本勝負しようよ」
 「え?」
 「そうだな・・・剣術かな。君の実力が見たいんだ」

 今度はこちらが困惑する。そんなことを言われたのは初めてだった。

 「そうだな、いい機会だから立ち会ってみたらいいんじゃないか?」

 そう言うのはいつの間にか後ろに立っていた師範だった。

 「は、はぁ・・・」
 「若、暁子が立ち会うといった以上は殺すつもりで打ち込んでください。そうしないと大変ですよ?」

 師範はどこか楽しそうだ。その言葉に戸惑いながらも若様は防具をつけていく。

 「始め!」

 師範の声と共に若様が構える。

 「・・・?」
 「・・・」

 若様が何か言っているが、耳にまでは届かない。構える姿は凛としているが、しかしどことなく隙だらけだ。どこから打ち込んでやろうか。

 「フッ!」

 一気に距離を詰め、逆袈裟に切りかかる。

 「甘いよ!!」

 その太刀を受けようと自分の竹刀を出す。

 「なっ!?」

 バシッと乾いた音がする。私の竹刀は若様の竹刀を叩き落とし、そのまま肩口へと叩き付けられた。

 「若、一回死亡、と」

 師範は愉快そうだ。

 「油断しました。女の子だと侮っていましたが、さすが師匠が認めた養子ですね」
 「そうでしょう? まだまだ荒削りですけどね。若様よりは修練を積んでいますよ」
 「そうですか。もう一本お願いします」

 意外にも低姿勢でお願いされてしまった。

 「私でよければ喜んでお受けいたします」

 その後、他の門下生が来るまでの間ずっと、二人で立会稽古を続けていた。

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 初めての出会いから数週間か経った日、その日は学校が休みであり、師範が若様の所へ出向く日でもあった。私は志願して本家に連れていってもらった。
 今でも覚えている。霧生家よりもたいそう立派で、映画やドラマ、漫画などでしか見られない立派で広大な武家屋敷のような造りだ。

 「はぁぁ・・・!」
 「暁子、目が輝きすぎだぞ」

 呆れる養父など気にもせずに眺め続ける。歴女の一人として、お城やら神社仏閣など、歴史ある建物を見ると感動する。目の前に広がる本家も何百年も前から使っているらしい。

 「それくらいにしないと僕が怒られる、中に入るよ」
 「あ、はい」

 その声に我に返り、師範に続く。入ったのは母屋ではなく道場だった。そのとてつもなく広い道場は隅から隅まで綺麗に磨き上げられていた。どれだけの思い入れを込めて道場を使っているかが目に見えるようだ。
 その中で、座禅をしている少年がいた。若様だ。

 「若」

 師範が声をかける。

 「師匠、この間は突然お邪魔して申し訳ありませんでした」

 私と歳は離れていない筈だが、礼儀作法や言葉使いは叩き込まれているようだ。

 「いやいや、こちらもちゃんとしたお持て成しもできずに失礼いたしました」

 師範も深々とお辞儀をする。なんだかおかしな雰囲気だ。

 「さて、今日はおまけが付いてきたので、しっかりした修行ができるかどうかわかりませんが、集中してくださいね」
 「おまけだなんて。暁子さんも相当な実力者です。負けないようにしないとね」

 少しだけとはいえ褒められ、何も返せずに赤くなって俯いてしまう。

 「馬鹿者、お世辞だ」

 師範からの忠告。いつも以上に厳しい視線で見据えられると、もう目を合わせられなかった。

 「常に冷静であれ。そんなに浮ついていては敵を制するなんてできないぞ」
 「は、はい・・・」
 「それでは始めましょうか」

 その日の修行は普段よりも数倍辛く感じられた。


 修行が一段落したころで、敷地内の井戸で顔を洗い、道場に戻ると若様が座禅を組んでいた。なんとなく、その隣で真似して座禅を組んでみる。

 「脚、組めるのかい?」

 目をつぶったままの若様が聞いてくる。

 「そんなに短くはありません。失礼です」
 「そうじゃなくて、・・・あ、やっぱりまちがってるよ」

 そういいつつ、脚を直してくれる。

 「あ、ありがとうございます」

 そのまま二人で、師範が戻ってくるまで座禅を続けていた。


 「よし、今日はここまでです。お疲れ様でした」

 立会稽古も終わり、師範が修行の終わりを告げる。また圧勝してしまった。若様は怒ってないだろうか。

 「「ありがとうございました」」

 声がそろってしまって、少し照れくさい。

 「では、本日はこれで帰ります。次の機会まで修行を怠らぬようにお願いします」
 「はい!」

 凛とした声。この声が好きだった。

 「では暁子、帰ろうか」
 「はい。本日はお世話になりました」
 「また来てね。今度は負けないよ」

 やっぱり気にしている様だった。それでもわざと負けようとは思わない。

 「はい、楽しみにしています」

 そういって本家とは別れを告げる。しかしこれが今生の別れになってしまった。

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 その年は前年末頃からのインフルエンザが大流行した。国内で猛威を振るったウイルスは真里谷家でも暴れ回り、親族はこぞってインフルエンザにかかっていた。
 暫くは真里谷本家では何ともなかったのだが、年始から体がだるいと言い始めた師範は次の日には高い熱を出して寝込んでしまった。真里谷家がかかりつけの医者を呼び、様子を見てもらっていた。

 「容体は・・・?」
 「現在流行中のインフルエンザではないかもしれません。大きな病院で様子を見た方がいいかと」
 「わかりました。救急車を・・・」

 病院に搬送され、診察を受ける。そこで医者に言われたのは、到底受け入れたくない事実だった。

 「悪性リンパ腫ですね。まだ早期発見の部類に入るかと思いますが・・・」
 「・・・」

 言葉にならない。本当に言葉にならなかった。

 (なんで、師範が・・・)

 そのあと医者が説明してくれたことは全く聞こえなかった。


 即日の入院が決まり、病室に連れていかれる。師範がベッドに横になり、私も隣の椅子に座って一息ついていると、急に師範の親族共が押し寄せてきた。

 「入院と聞きましたが!?」

 挨拶もそこそこに病状を聞くなんて、この人たちは師範を何だと思っているのだろうか。

 「しばらく静養が必要らしい。ちょうどいいからすべて忘れて休ませてもらうよ」
 「そうですか・・・よかったですね」

 そんな楽観的なことは言われていない。しかし師範は言葉を続けた。

 「もう時間だから、君たちももう帰った方がいい。あとは暁子がいるからね」
 「はい、では私たちはこれで」

 皆一様に一仕事終えたといった雰囲気で帰っていった。

 「暁子、君も帰っていいぞ。まだ学校があるだろう」
 「何を仰いますか。私がいないと服も畳めないじゃないですか」
 「バカにするな、君が来るまでは一人でやってたんだ。これでも一人暮らしは長かったんだからな」
 「自慢になりませんよ、そんなこと・・・一つ約束してくださいますか」
 「なんだい?」
 「・・・私の卒業式には来ていただけますか」
 「任せておけ。子の晴れ姿、見たいじゃないか」
 「・・・わかりました。本日はこれで帰ります、師範」

 家に帰るような気分ではないが、できることもないし時間面会時間も過ぎてしまったので渋々帰ることにした。


 次の日から、道場の修行は師範抜きで行われた。私も一門下生として参加していたが、やはり師範がいるときと師範代のみの時では皆の気合の入り方は違うようだった。内容はいつもと変わらない厳しい修行のはずなのだが、どことなく緩い雰囲気が漂っている。

 (こんなの・・・道場で修行する意味あるの?)

 強い疑問が胸中を渦巻く。師範代である私の養父の弟は、すでに自分の道場になったかのように振る舞っているが、あまり門下生からは良く思われていないようだ。実力は確かなのだが。

 (大丈夫かな・・・)

 しかし心配をよそに、怪我や事故もなく、意外なほど平和に月日が経って行った。


 それからひと月後だったろうか、早朝に鳴った電話は。病院からの連絡は、突然師範が喀血し明日をも知れない容体に急変したという。私は取るものも取りあえず病院に駆け込んだ。

 「真里谷暁子さんですか?」
 「はい」

 看護師の方に声をかけられた。途端に嫌な予感がした。

 「今朝方、容体が急変しまして・・・ただ今治療を施しています」

 考えるよりも早く、体が動いていた。病室に向かって一目散に駆け出した。

 「師範! 師範!!!」
 「入らないで、ただ今主治医が治療中です」

 その後、主治医の懸命な治療の甲斐あって一命を取り留めた師範だったが、抵抗力の弱まった体での相部屋は危ないと判断したために、師範を乗せたベッドは病室ではなく隔離病棟に移された。誰も入ることができない場所に移されたので私には何もできることがない。医者に促されるまま私は一旦家に帰ることにした。


 次の日も病院を訪れる。元の病室にいくと、名前が無かった。

 「ああ、あの方なら個室に移ったよ。角を曲がって突き当りの部屋だね」

 ナースステーションで教えてくれた個室に行くと、師範がいた。峠は越えて、今はまだ眠っている様だった。荷物を置き、窓をあける。すると、師範が目をうっすらとあけた。

 「おはようございます、師範。いい天気ですよ」
 「ん・・・」

 大量に喀血したせいか、まだ意識がはっきりとしていないようだ。近くの椅子に腰をおろし、師範の手を私の頭の上に乗せる。

 「ああ・・・暁子か・・・」

 だんだん覚醒してきたのだろうか。乗せられた手で頭を撫でてくれる。

 「暁子・・・渡しておくものがある・・・」

 掠れた声で言う。師範が指をさした先には大きくて細長い桐の箱があった。持ってみると見た目の何倍も重い。鉄の塊でも入っているのだろうか。

 「申し訳ないが・・・僕はもうそんなに長くはなさそうだ。君は・・・よく頑張ってくれた。ついつい君が女の子であることを忘れて跡を継がせたくなるほどにね」
 「何を仰いますか。私は・・・何も・・・」
 「養子として引き取った、にも拘らず君には、父親らしいことを・・・してやれなかった」
 「そんなことはどうだっていいです。私は毎日楽しいですよ」
 「ふ・・・子供にまで気を遣わせて・・・私もまだまだだな。まぁいい、開けてみなさい」

 桐の箱の中には、紫黒の扇子が入っていた。しかしただの扇子ではなかった。紙には孫子の一文が書かれており、また骨が全て鉄でできていた。

 「その鉄扇は・・・君だけのものだ。君が扱いやすいようにできている。・・・重さや太さはもちろんだが柄も握りやすくしてある。・・・それに、君には木刀よりもこっちが合っているような気がするよ」
 「このような高価な物・・・私は」
 「初めてのプレゼントだ、折角作ってもらったんだし、もったいないだろう? ああ、詳しい事は中に注意事項を書いた紙が入ってるからね」
 「師範・・・」
 「それと、その上の封筒だ」

 渡されたのは封筒だった。

 「さっきも言ったけど、僕はもうそんなに長くはないようだ。・・・だから勝手ながら里親を探させてもらったんだ。運よく、僕の悪友がきみを引き取ってくれることになったんだ」
 「何を言ってるんですか、師範! 私は・・・!」
 「黙って聞きなさい。そこに書いてあるが、霧生っていってね、気の荒いやつだけど・・・面倒見はいい。同い年の女の子もいるし、君もそこで過ごすんだ」
 「・・・いい加減にしてください。長くないとか、里親だとか。私には関係のない事です。私は真里谷の」
 「先日、若様が亡くなったのを知っているか?」

 固まってしまった。何かの聞き間違いだろう。若様が死んだ?

 「インフルエンザで亡くなったそうだ。しかし本家に巣食う悪いやつらは、最近養子に来た真里谷の魔女のせいだ、と吹聴しているらしい」
 「・・・」

 本家にまで魔女だとの噂が流れているのか。人の噂はすぐに広まる。怖いものだ。

 「それでもここに留まるというのなら、本家からは疎まれ、真里谷では権力闘争の道具として使われるだろう。君がそんな目に遭うのに、僕は耐えられない。頼むから受け入れてくれ」

 また別れが来てしまう。悲しかったが、それでも小さく頷いた。

 「暁子」

 手を引き、私を抱き寄せる。

 「ごめんな、また別離の苦しみを味わわせることになってしまって・・・」

 そのとき、師範の涙が私の頬を濡らした。その暖かさに、私も泣き出してしまった。


 それから数日後、師範は天に召された。親族のおかげで滞りなく葬儀も終了した。

 「暁子さん」

 師範の弟から呼び止められた。

 「例の件、考えてくれたかい?」

 養子である暁子を息子と結婚させて後継者とし、師範の弟である自分は院政を敷く。完璧な計画だ。

 「はい」
 「聞かせてくれ」
 「謹んで――」

 初めてこの話を聞いたのは師範が入院した頃だった。恐らくその時から師範が長くない事に気付いていたのだろう。
 当時は返答に困って保留していた。しかし生きているうちから跡目を奪う事に躍起になっているなんて癪だ。だったらいっそのこと・・・

 「お断り申し上げます」

 抗ってしまおう。そう思ってしまった。そうでなくとも遺言は弁護士のもとで製作されている(と師範が言っていた)。あとで発表があるだろう。

 「私ももう真里谷の人間ではなくなりますので。それに――」
 「だから私の元でまた真里谷の人間にならないか? 君が居てくれればこの道場は安泰だ」
 「・・・私は師範のいない道場の管理に携わる気にはなれません」

 それだけ言うと、自分の部屋に戻り、静かに荷物の整理を始めた。


 葬儀の慌ただしさも一段落がついた頃、弁護士がやってきて遺言を発表した。親族はもちろん本家の見届け人も来ていた。その中で、道場は弟の息子へ、その他の財産等は弟たちで均一に分割することなどが明言された。しかし全員が驚いたのは暁子には苗字を名乗らせること、そしてその他の特別な財産は何も分け与えない、と明記されていたことだった。

 「何故わざわざそんなことを書いたのだ?」
 「結局養子だということだろうな」

 などなど、無責任な憶測が飛び交っていた。誰も私が里子として他の家に出されるとは思っていないようだ。しかし誰かが空気を読まずに言う必要のない事を言った。

 「魔女には分け与えない方が良いよ。何されるかわからない」

 その言葉に部屋中が凍りつく。そこまでは私も、まだ耐えることができた。

 「我らの嫡子の命まで奪った罰よな。はっはっはっ、いい気味だ」

 明らかに酔っぱらっているのはわかっていた。しかし、『魔女よばわり』よりも『若様殺し』などと囀られては、耐えられなかった。そいつの所に行き、すぐ横に座って顔をこちらに向かせ、鼻に掌底を突き刺した。

 「ぶふっ!?」

 漫画のように鼻血が吹き出し、男が転げ回る。

 「妾が何ぞ?」

 痛みに答えるどころではないその男に馬乗りになり、掌底で鼻を叩く。弁護士も含め、一同が呆気にとられている。

 「ぶあっ! ぶぇっ!」
 「妾が何ぞ!? 答えよ!!」

 怒りに任せて叩き続ける。そのうちに何人かが我に返り、私を取り押さえにかかった。

 「放しや! 妾に触れるな!」
 「馬鹿たれ! その方は本家の方だぞ!!」
 「それがどうした! この薄汚い魍魎どもめが!!!」

 一旦は振り払い、先と同じように顔を叩き続ける。しかしもう意識は無いようだった。

 「もうやめてくれ! 暁子を部屋に連れていけ!」
 「放せ! あの男、殺してやる! 妾が八つ裂きにしてくれるわ!!!」

 そのまま私は自分の部屋へ連れていかれ、頭が冷えるまで閉じ込められた。そのあと救急車のサイレンを聞いた気がした。見届け人はそのあと酒をやめて、暗い人間になってしまったらしい。


 結局これが真里谷本家とのお別れとなり、卒業式が済んだ後、その足で私は引っ越し業者と共に霧生家へ向かった。山の麓にある普通の家だが、小奇麗で威圧感がある。
 そこまで来て、私は現実に引き戻された。

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 暁子の部屋のドアを開ける。布団で暁子が寝息を立てている。よほど激しく責められたのだろうか。
 居間のテーブルの上にメモを置き、出かける。行先は・・・

 「あ、いらっしゃいませ。ちょっと混み合ってるんですよ〜。お待ちになりますか?」
 「はい。どうしても今日お願いしたいので」
 「了解しました〜。今日はどうなさいます?」
 「あの人を指名したいんですけど今日大丈夫ですか?」
 「ちょっとお待ちくださいね〜」

 受付の人が、指名した人の所へ走っていく。何かを話し、こちらに戻ってくる。

 「お待たせしました、大丈夫との事ですので、もう少々お待ちくださいね」
 「ありがとうございます。今日はカットだけで大丈夫です」
 「は〜い、伝えておきますね〜」

 行先は美容院だった。何か用事があるときは、必ずここの美容院で整えてもらう。昔からの習慣とでもいうべきか。

 「お待たせしました。綾乃ちゃん、久しぶりね。今度何かあるの?」
 「はい、まほろさん。それはもう大事な用事なんです」

 長髪をダークブラウンに染めて結い上げ、切れ長の目と細眉が特徴的な人。この美容院で一番と言われるほどの美貌の美容師をいつもお願いしているのは、女性ということもあるが、必要な時に必要なだけ喋ってくれる上に話しやすい人だからだ。もちろん言うまでもなく、ウデも一流だが。

 「何よ〜、お見合いでもするの?」

 まほろさんは私の親が社長だということは知っている。だからこんなことを聞くのだろう。

 「えーと・・・そんなところです」
 「・・・おねーさんに嘘つくとはいい度胸ね?」

 暁子にも言われたが、私は嘘がつけないらしい。だからといって、明日裏のリングで闘うなんて言ったところで頭がおかしいと思われるのがオチだが。

 「そろそろテストがあるんですよ」

 こんなところで大丈夫だろうか。

 「ふうん・・・ま、いいわ。で、また5センチくらい切っとく?」
 「いえ、ショートカットにしてください。暑くて溶けそうですよ」
 「・・・え? ショートカット?」
 「はい」

 昔からずっと、今くらいの長さを保ってきた。意外と言われればその通りだと思う。

 「・・・本当にいいの?」
 「私に未練が出始める前にバッサリお願いします。可愛くしてくださいね?」
 「わかりました。お客様のお望み通りにしましょう」

 手際よく、勢いよく私の髪が落ちていく。

 (さよなら、今までの私)


 カットが終わるころには、ショートカットの新しい霧生綾乃が目の前にいた。

 (これが、これからの私。よろしくね、頑張ろうね)

 鏡に向かって笑顔を向ける。しかし鏡に映る綾乃は何故か泣きそうだった。

 「・・・大丈夫? 何か悩んでるの?」

 こればかりはまほろさんを頼れない。もちろん他の悩みでも頼ることはできないが。

 「私にだって人並みに悩みはあるんですよ」

 何となく気恥ずかしくて、ふくれっ面をしてみる。

 「・・・なーに背伸びした事言ってんのよ!」
 「いひゃいいひゃい!」

 頬を派手に引っ張られる。それでもなんとなく気分が晴れやかになっていった。

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 「・・・ん」

 ここはどこだろう。どこか見慣れた場所だ。

 (・・・私の・・・部屋?)

 見慣れた布団、着慣れた寝間着。間違いなく霧生家の私の部屋だ。

 (そっか、帰ってきたんだ)

 昨晩は夜通し抱かれ続けた。私が女であることを嫌というほど教えられた。そして、女としての快楽も身体に刻み込まれた。屈辱と甘美にすぎる絶頂は、今も胸で燻ぶっている。

 (私は・・・)

 まだ下腹部に異物があるような違和感が消えてくれない。しかしだからと言って休んでばかりもいられない。

 (とりあえず・・・夕飯を・・・)

 居間に行くとメモが置いてあった。明らかに綾乃の字だ。

 『美容院に行ってきます。しっかり寝てるように!』

 優しさにあふれる字が眠気を誘う。私は部屋に戻り、もう一眠りしてしまった。

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 「ただいま〜・・・」

 家についたのは暗くなってからだった。しかし外灯もついていなかった。

 (まだ寝てるの・・・?)

 普段なら絶対にありえない。この時間は夕飯づくりで大忙しの時間だ。
 暁子の部屋の扉を開ける。中からは小さな寝息が聞こえていた。

 (今日くらいはゆっくり休んでね、暁子・・・)

 扉を閉めてキッチンに行くと、綾乃はゆっくりと夕食の支度を始めた。


 「暁子〜、起きろ〜!」

 フライパンをおたまで叩くような勢いで暁子の部屋のドアをノックしながら叫ぶ。

 「ん・・・」
 「夕飯作ったよ、食べない?」
 「あ・・・もうそんな・・・」
 「居間で待ってるからね、早くおいでよ?」
 「はい・・・ただいま・・・」

 起きたのを確認して私は居間に戻った。



 まだ意識が半分眠っている。布団から上半身を起こしたが立ち上がる気にならない。下腹部には何かがあるような違和感が未だに消えない。

 (お嬢様が夕飯を・・・)

 先ほど物凄いハイテンションで起こしに来たのは覚えている。それからどれくらい時間がたったのだろうか。

 (夕飯・・・冷めちゃう・・・)

 ふらふらしながら居間にいくと、見慣れない女の人が食べる用意をしていた。

 (・・・?)

 目をこすって凝視すると。

 「起きた? 早く食べようよ。今日は暁子の大好きなカレーだよ」
 「――――!!!」

 今まで眠っていた意識が一気に覚醒した。髪の短いお嬢様がいたのだ。

 「おっ、お嬢様!?」
 「なに?」
 「か、か、髪・・・!!」

 女の命などと言いながら大切にしてきた黒髪が短くなっている。

 「暑いから切っちゃったよ。それがどうしたの?」
 「あ、あ・・・」

 嘘だ。間違いなく、あれは決意の証。綺麗な黒髪まで、私はお嬢様から失わせてしまった。
 動揺が収まらない。何と話しかければ、何をどうすればいいのかわからない。

 「暁子」

 お嬢様が私に話しかける。強い意志をもった、鋭い目をしていた。

 「はい・・・」
 「これは、私の意思で切ったの。もう過去の自分とはお別れして、新しく生まれ変わったんだよ」

 やはり、この人は強い。あれだけのことをされて、まだ親の為に戦うと言う。同じ環境だったら私は同じことを言えるだろうか。

 「だから、自分を責めないで。私の為に切ったんだから」

 従者の大失態をかばっているのだろうか。とてもとても優しい声色。

 「そうだ・・・暁子、忘れてたよ」

 この期に及んで何を忘れていたんだろう。思い当たる節は無い。

 「初めまして、暁子さん。霧生綾乃です」

 私も丁寧にあいさつを返したが、私は初めてこの家に来たことを後悔した。

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 それからというもの、私はもちろんお嬢様も死にもの狂いで修行をした。絶対勝って、社長をお救いする。それが共有している思いだった。


 またしばらくした学校からの帰り道。銀髪の黒服、ナスターシャ・ウォレンスキーが現れた。しかし今日は私一人しかいなかった。お嬢様は今日は買出しに行くと言って先に帰ってしまっていた。

 「久しぶりだな、真里谷暁子。元気にしていたか?」
 「ええ。そちらも残念ながらお変わりなく」
 「ふん、皮肉のつもりか? まぁいい、乗れ。試合が組まれた」

 ついにこの日が来た。泣いても笑っても今回が最後だ。皆で笑って楽しく過ごすか、一生奴隷としての生を送るか。その最後の分岐点だ。
 霧生の家に来てからの五年間を思い出す。辛いことも悲しいことも楽しいこともいっぱいあった。すべての思い出が一瞬のうちに自分の目の前を通り過ぎていく。

 「聞こえないのか? 早く乗れ」
 「あ、失礼しました」

 車に乗り込み、目隠しをする。自分でも驚くほど、今は冷静だ。まるでここ最近が夢の世界の出来事みたいに感じられる。

 「いやに落ち着いているな、つまらん」

 目隠しの向こうでナスターシャが不機嫌そうな顔をしているのが感じられる。このような役目をしていれば、少し緊張感がある方が楽しいのかもしれない。

 「そうですね、自分でも驚いています」

 その一言でナスターシャの雰囲気が変わった。何かに驚いているようだ。そしてそれ以降、話しかけてくることはなかった。

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 話は少し前に遡る。

 髪を切って帰ってきた翌日の夕方。暁子が夕飯の材料を買出しに行った頃、手紙が届いた。少し前に届いた、宛名だけの封筒だ。見た瞬間にどこからきたのかがわかる。

 『○月×日、中央公園に一人でお越しください。16時ごろにお待ちしております』

 手紙はすぐに自分の机にしまう。父を救う最後のチャンス。ここを逃したら一家離散だけじゃすまないかもしれない。

 (時間が足りない・・・)

 <地下闘艶場>で辱められてからというもの、死にもの狂いで特訓してきたつもりだ。しかしそれでもまだまだ全然足りない、と直感が告げる。

 (今度は絶対に暁子に迷惑はかけない!)

 覚悟も新たにジャージに着替え、居間にメモを置いた私はジムへと出かけた。


 当日、私は学校を早く出ることにした。私と暁子が一緒にいると、暁子がまた大変な目に合うかもしれない。そうはならないかもしれないが、たとえ万に一つだとしても暁子が傷つくところを見たくなかった。
 時間の五分前。公園についたが、子供たちが遊んでいるだけだ。入口で待っていると、一人の子供がこちらに近づいてきた。

 「はい、これ」
 「? どうしたの、これ」
 「きれいなおねーさんがこれをわたしてって」
 「・・・そう、ありがとうね」

 子供の頭を撫でてあげると、嬉しそうにして去って行った。早速メモを見ると、細かい場所移動の指示が書いてあった。指示の通りにその場所へ行くと、いつか見た黒い車が止まっていた。車に近づいていくと、中から黒髪の女性黒服、鬼島洋子が出てきた。

 「久しぶりね、元気にしてたかしら?」
 「ええ、まぁ。この間はありがとうございました」
 「お仕事だから気にしないでって言った筈よ。ほら、さっさと乗って頂戴」

 促されるままに車に乗り目隠しをする。これでもう、あとは勝って帰るか負けて死ぬかの二択しかない。

 「随分頑張ったようね。前とはまるで雰囲気が違うわ」
 「ええ、頑張らせてくれる人がいるんですよ」
 「・・・大切にすることね、そんな人に巡り合うことなんてまずないわよ」
 「はい、もちろんです。もうこれ以上は業も十字架も背負わせたくないので」

 綾乃の決意を聞き、洋子はそれ以上何も言わなかった。

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 「綾乃さん、もう目隠しを外してもいいわよ」

 前回と同じように真っ白の控室で目隠しを外す。蛍光灯が眩しく輝いており、目の奥が痛くなる。

 「さ、座って。これが今回の契約書よ」

 パラパラと読み進めていくが、前回の内容とほぼ同じだった。

 「洋子さん、今回は三連戦なんですね」
 「ええ、そうよ。シングル戦二試合にタッグ戦一試合。それが何か?」
 「もう一人は誰なんですか?」
 「それは聞く必要があるのかしら? 霧生家において父親以外でもう一人関わりのある人がいる筈だけど?」

 関わりのある人と言えば自責の念を募らせているあの子しかいない。

 「勘の鋭い綾乃さんならわかっていたのでは?」
 「・・・」

 もう一度試合を組むと約束していたのに何故私なのか。あの手紙が来た時からなんとなくは気が付いていた。もう重荷を背負わせたくはないのに・・・

 「他に質問は?」
 「・・・ボディチェックは」
 「貴女が武器を隠し持たないという保証はどこにあるのかしら?」
 「・・・」

 あの男に触られたくない。しかし受け入れなければ父はどうなるか分からない。結局答えは一つしかなかった。

 「質問が無ければ衣装に着替えてちょうだい。時間がなくなってしまうわよ」

 そういうと、洋子は部屋の外へ出て行った。

 (やれることはやったはず・・・なのに)

 右腕の震えが止まらない。知らず知らずのうちにブラウスの第一ボタンあたりを握りしめてしまう。

 (でも・・・やらなければ何も変わらない)

 失ったのは自分だけではない。彼女はもっと大切な物を贄にしたのだ。

 (勝ちたい。いや、絶対勝つ!!!)

 思い切り頬を両手で叩く。パン、と乾いた音が響く。目に輝きが戻った綾乃は衣装に着替えはじめた。

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 「着いたぞ、真里谷暁子。目隠しを取れ」

 言われた通りに目隠しを取ると、前回同様真っ白の控室だった。暗調光のせいか、始めは何も見えなかったが。

 「さて、契約書だ。しっかりと読めよ?」

 薄笑いを浮かべるナスターシャをよそに、手に取ってパラパラとめくり始めてから一秒かかるかかからないかで元に戻す。それを見たナスターシャの眉間に皺がよる。

 「・・・あまりそういう態度は感心しないぞ?」
 「三試合とは荷が重いですが・・・勝てばいいんですからね」

 ナスターシャの動きが一瞬止まる。

 「ふふっ・・・」
 「何か?」
 「アハハッ、おかしなやつだ。なるほど、洋子が気にかけるのも頷ける」

 ナスターシャから見れば取るに足らないおぼこ娘だと思っていた少女。それなのに洋子は何とか手に入れたいと考えているのが見え隠れしていたし、「御前」は夜伽を命じたのだ。何故この少女がそこまで興味を引くのかが今まで理解できなかった。

 (この女の努力は恐らくそこいらの一般人には理解できまい。目の事も考えれば尚更だ)

 資料には、右目は見えず色もわからないとあった。それを隠して普通の少女として高校に通っているのだ。家に帰れば家政婦として働く。一般人よりも何歩も後ろにいるという大きな大きな障害を持っているにもかかわらず、一般人よりもずっと優れた能力を有しているのだ。

 (確かにこの女、興味深いな)

 そんなことを考えているナスターシャに、唐突に暁子が声をかける。

 「今回の契約書は前回と文章がほとんど同じですね」
 「雛型があるからじゃないか? その手のクレームは事務員に言え」
 「そんなものですか」
 「そんなものだ」

 ナスターシャは内心驚いていた。何か月も前の契約書の文章を一字一句漏らさず覚えているのか、と。

 (すごいな、私も手元に置いておきたくなった)

 そんなことはおくびにも出さず、仕事を進める。

 「さて、何か質問はあるか?」
 「いえ、今更何も。ダウン中の攻撃の条文は入っていないはずなので」
 「二回目だからあいつも気を使ったんだろう」
 「それ以外は特に今更聞くことはないかと。『御前』から変えられない部分は聞いてますので」
 「そうか、ならば衣装に着替えろ。残された時間は少ないぞ」

 にやつきながらのナスターシャの言葉は黙殺し、クローゼットを開ける。

 「またこんな・・・」
 「燕尾服はないぞ。残念だったな」
 「そんなことを言うと思いますか?」

 呆れ顔の暁子に背を向けてナスターシャは部屋を出て行った。

 (しかし、着替えるのも大変ね・・・)

 そんなことを考えつつもテキパキと着替えていく。

 (ちょっと胸がきつい・・・)

 どこか場違いな感想を持ちながらも着替えを終わらせ、姿見で確認する。

 (これで大丈夫かしら?)

 前回もそうだったが、こういう衣装の誂えの良さには驚かされる。

 (でもそんなことはどうでもいい。兎にも角にも、今日は勝つ)

 勝たなければ社長とお嬢様まで地獄行きだ。そんなことはさせられない。また三人で元の生活に戻ること、それが暁子自身に課した義務だ。

 (絶対勝つ。私ならば、勝てる)

 自分に暗示を掛けながら、暁子はゆっくりと柔軟体操を始めるのだった。


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