【第七十七話 藤森霧華:レスリング】

 犠牲者の名は「藤森(ふじもり)霧華(きりか)」。17歳。身長162cm、B85(Cカップ)・W66・H92。艶のある黒髪を肩の高さでばさりと切り落とし、太く長い眉の下には鋭すぎる眼が光る。整った顔立ちであるのに、他人に与える印象は安らぎや憧れではなく「冷たさ」だった。
 高校女子レスリングの新世代エースで、「栗原美緒の後継者」と呼ばれることもある。ピュアフォックスと対戦したこともあり、レスリングルールで圧勝、プロレスルールでは惜敗を喫した。
 底知れない実力を秘めた霧華に対し、<地下闘艶場>の手が伸びたのは当然かもしれない。


(あいつ、本当にこんなところで闘ったのか)
 花道を進む霧華に、観客からの卑猥な野次や指笛が飛ぶ。
 ピュアフォックスこと来狐遥が上がったという裏のリング。そこで遥が活躍していると聞かされ、霧華の胸に形容しがたい感情が生まれた。<地下闘艶場>は霧華の心がそう動くことを読んでいたのかも知れない。
 スポットライトの下で歩を進め、リングを鋭い視線で見遣る。そこには縦縞模様のシャツを着、蝶ネクタイを締めたレフェリーらしき男と、中背ながら筋肉が膨らんだ男が待っていた。
 それでも歩調を変えず、霧華はロープを潜ってリングへと足を踏み入れた。

「赤コーナー、『マッスルバレル』、チャベス・マッコイ!」
 霧華の対戦相手はチャベスだった。全身を覆う筋肉は常人男性の比ではない。その足元には老け顔の小男がちょろちょろとしている。
「青コーナー、『氷の女帝』、藤森霧華!」
 自分の名前がコールされ、霧華は教わったとおりにガウンを脱いだ。その下には、アイスブルーのレオタードがあった。
 現役のレスリングインターハイチャンプの体は、まさしく肉体美の三文字が良く似合った。力の放出と固定を目的とした筋肉が全身を纏い、見事な逆三角形を形作っている。鍛え上げられた胸板の上には女性の膨らみがあり、猛る肉体にアンバランスなエロスを与えている。普段は厭らしい視線を飛ばす観客たちも、思わず霧華の肉体美に見入っていた。

 チャベスのボディチェックを終えたレフェリーが、おずおずと霧華に近づく。
「・・・なにか?」
「いや、その、ボディチェックを・・・」
 霧華の肉体美と視線に圧倒されたのか、レフェリーはもごもごと呟く。
「見ればわかるでしょう。何も隠したりしてはいない」
 レオタードは霧華の身体に張りつき、筋肉の割れ目まで浮かび上がらせている。
「わ、わかった」
 頷いたレフェリーは、すぐに試合開始の合図を出した。

<カーン!>

 ゴングを合図に両者がリング中央に歩み寄る。どちらからともなく両手を伸ばし、相手の肩に手を絡ませる。
 ロックアップの体勢。誰もがチャベスが霧華を捻じ伏せる光景を思い浮かべたが、現実はまるで違った。自分の体ごとチャベスを揺するようにしながら、霧華がチャベスを捻じ伏せていったのだ。
「おいおい、マジか・・・」
 信じられないのはレフェリーだけではなかった。会場中がその光景から目が離せない。
 それでもチャベスが咆哮し、力で押し返そうとする。その機を捉えた霧華がするりと身をかわした。そのまま素早くバックを取った霧華は、既に胴をクラッチしていた。
「フンッ!」
 一瞬の気合いでチャベスが宙に舞い、即座にリングに叩きつけられた。動きの止まったチャベスを横四方固めでフォールし、霧華はレフェリーを見上げる。
「嘘だろ、チャベスの奴がこんな簡単に・・・」
「レフェリー、フォールしたけど」
 霧華の冷たい視線に、レフェリーも渋々カウントを始める。
「ワン・・・ツー・・・」
 キャンパスを二度ゆっくり叩いても、チャベスはぴくりとも動かない。
「ちっ・・・スリーッ!」

<カンカンカン!>

 ゴングが鳴った瞬間、いつの間にリングに上がったのか、小男が霧華に飛び掛っていた。しかし霧華の腕の一振りで、すぐにリング下へと放り投げられる。
「セコンドに手を出すんじゃない!」
 突然のレフェリーの大声に驚きながらも、霧華も反論しようとする。
「・・・今のは、向こうが先に」
「言い訳をするんじゃない! 罰として、もう一試合してもらうぞ!」
 思わず唖然となった霧華を見向きもせず、レフェリーはすぐにリング下の黒服を呼び、何かを素早く告げた。

 数分後、すぐに花道に人影が現れる。そこに現れたのは先程のチャベスとは違い、脂肪で体が内側から膨らんだメタボ男だった。
 リングに上がった男は、花道を歩くだけで疲れたのか、もう顔に汗を掻いていた。
(これだけ汗を掻いて、スタミナは大丈夫なのか?)
 競技者としては当然の疑問だっただろうが、会場の中では霧華だけが持った疑問だった。

「赤コーナー、『ミスターメタボ』、グレッグ"ジャンク"カッパー!」
 コールを受けたグレッグは、へちゃり、と右手を上げた。
「青コーナー、『氷の女帝』、藤森霧華!」
 対する霧華は何の反応も見せず、レフェリーは今回もボディチェックを行わずにゴングを要請した。

<カーン!>

「うぇへへぇ、いくぞぉぉ」
 汗を滴らせながら、グレッグがどすどすと距離を詰める。
(もういい。手早く終わらせる)
 グレッグの腕を掴もうとした瞬間、うなぎのように腕が逃げていく。
「!?」
「うぇへへ、こんだけごつくても、ちゃんとおっぱいは柔らけぇぞぉ」
 しかもグレッグは霧華のバストを掴んでいた。
「どこを触って!?」
 再び掴もうとしたグレッグの腕はやはり滑り、霧華は自分から距離を取った。
「っ!」
 グレッグの腕だけではなく、何故か足元まで滑る。なんとか体勢を整え、グレッグを睨む。
(ならば!)
 慎重に足場を見極め、爆発的な速度で前に出る。霧華の代名詞とも言うべき神速タックルだった。
「何っ!?」
 グレッグの膝を刈った筈のタックルは、滑って力が分散し、ただ脚を抱え込むだけになっていた。

 グレッグの汗は、極端に摩擦係数を減らす成分を含んでいる。そのため掴むのはおろか、打撃までも通じにくい。「滑る」ことが、霧華のスピードとパワーを殺していた。

「速くて驚いたけど、俺には通じねぇぞぉ」
 グレッグは霧華の胴を上から抱え込むと、肩に軽々と担ぎ上げる。上向きに抱えた霧華の胸に手を置き、そのまま揉む。
「離せっ!」
 摩擦の減った体を回転させることでグレッグの手を弾き、グレッグの肩から落ちる。完璧な受身を取り、グレッグの追い討ちを転がって避ける。
(ただ滑るというだけで、ここまで技が通じないものなのか)
 投げ技だけでなく、タックルまでも通じない。レスリングしか知らない霧華にとって、攻撃手段がなくなったということだった。
「諦めたようだなぁ。おとなしくおっぱい揉ませろぉ」
 両手を広げたグレッグが余裕の表情で歩いてくる。奥歯を噛み締めた霧華の脳裏に、ある人物の顔が浮かぶ。
(美緒先輩!)
 幼い頃から通うレスリング道場の先輩で、インターハイチャンプに輝いた憧れの女性だった。だからこそ、「栗原美緒の後継者」と呼ばれることが重荷であり、微かにくすぐったさを伴っている。
「・・・うぉぉぉおぉおっ!」
 弱気を払う咆哮が、霧華の口から放たれた。驚いたグレッグが動きを止めた一瞬、霧華は胴タックルでグレッグを腹回りを抱え込んでいた。
「俺を投げようっていうのかぁ? そんなもん無理に決まってるぞぉ」
 へらへらと笑うグレッグは、霧華のヒップに手を這わせる。
(できる。私なら、美緒先輩の後継者の私なら、できる!)
 霧華の両腕に力がこもり、目覚めた筋肉が膨張する。
(滑ることがなんだ!)
 胴に巻きつけた腕を、両手首を無理やり握ることでロックする。
「くっ、ううっ・・・!」
 グレッグの胴を締め上げながら、滑らないように手首に爪を立てる。霧華の手首から血が滲み、グレッグの汗と共にリングに落ちていく。
「ぐうぇへへ、無駄なことはやめろぉ」
 霧華のヒップをぺちゃりぺちゃりと叩き、グレッグが笑う。その顔が笑顔のまま凍りついた。
「むんっ!」
 なんと、グレッグの足が宙に浮いた。ばたつくグレッグだったが、抵抗を腕力で押さえ込んだ霧華はグレッグの巨体を持ち上げ、後方へと投げ落とす。
 リングの上で見事なアーチが描かれていた。霧華の美しいブリッジは、思わず観客が見惚れてしまうほどだった。
 霧華がクラッチを解くと、グレッグの体が仰向けに崩れ落ちた。おっかなびっくりで近寄ったレフェリーが意識を確認するが、すぐに両手をバツ印にする。

<カンカンカン!>

「・・・ふう」
 不快感に太い眉を寄せ、ため息を吐いた霧華はすっとリングを降りた。グレッグの汗で肢体を光らせた「氷の女帝」に、いつしか観客席から拍手が起こっていた。


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