【外伝 伊柄克彦 其の二】

「なんだ、それは」
 伊柄克彦のネクタイに目を留めた御坂竜司が眉を顰める。
「これじゃ駄目かぃのぉ」
 生まれて初めて締めたネクタイは、悲しいほど歪んでいた。
「これからは自分できちんと締めろよ」
 ため息を吐いた竜司がネクタイを締めなおしてくれる。
「嫁さんにして貰うみたいじゃふっ!」
 軽口は腹部への衝撃で止められた。
「俺はお前の嫁さんじゃないし、ホモでもない。そういう冗談も好きじゃない。次は本気で入れるぞ」
「す、すまん・・・」
 充分以上にきつい一撃だったが、竜司にしてみればかなり加減した一撃だったらしい。
(冗談の種類も考えんといかんのぉ)
 そっと腹を撫で、心の中だけでぼやく。
「軽口も終わりにしろ。これからお会いする方に聞かれて、処刑されたくなければな」
 そこに込められた厳粛なものに、伊柄の胸に疑問が沸く。
「もしかして竜司さん、そん人ぁあんたより強ぃんか?」
「俺なんか足元にも及ばないよ」
 竜司の目には畏怖と尊敬があった。
「竜司さんよりも・・・」
 自分をまるで寄せつけなかった竜司を実力で従える男。想像の中のその男は、山のような存在感と圧迫感を伴っていた。

「ここだ。いいか、いつもの調子だと殺されてもおかしくない。それを頭の隅の隅にまで叩き込んでおけ」
 竜司の視線は厳しかった。初めて見せる竜司の恐さに、伊柄も息を呑んで頷いた。
「失礼します。新入りを連れて参りました」
 ノックの後、静かにドアを開けた竜司が深々と頭を下げる。
「失礼しま・・・す・・・」
 頭を下げることも忘れ、伊柄は部屋の中に居た人物から目が離せなかった。それだけの吸引力を男は有していた。
(・・・どれだけのことをすれば、ここまでなれるんじゃぁ)
 伊柄とて幾つもの修羅場を潜り、返り血を浴びてきた。しかし、目の前の男は血を浴びるどころではなかった。数え切れぬほどの死線を潜り抜け、敵対する相手の命を奪い、奪うだけでなく喰らって糧としてきた恐さと巨大さがあった。
「克彦」
 竜司の低い、しかし厳しい叱咤に、慌てて頭を下げる。緊張が全身を縛る伊柄に、静かな声が掛けられた。
「名は」
「い、伊柄克彦、です!」
 静かな、しかし重い声での問いに、伊柄は更に深く頭を下げた。
「顔を上げよ」
 一度唾を飲み、直立不動の姿勢を取る。
「ふむ」
 男の視線が、伊柄の全身を貫いていく。伊柄はただ立ち尽くすしかできなかった。
「良かろう。励めよ」
「は、はいっ!」
 思い切り頭を下げていた。それが当然だった。
「それでは『御前』、これで失礼致します」
「うむ」
「し、失礼します!」
 頭を下げたままで叫ぶ。竜司に軽く肩を叩かれるまで、伊柄はその姿勢を取り続けた。

 部屋を出、扉を閉めた途端、どっと汗が吹き出る。それに合わせたかのように膝が笑い出す。
(なんちゅう、お人じゃぁ)
 短くも濃密な対面に、伊柄の背の一面を汗が覆っていた。額にも浮いている汗を拭い、竜司を見遣る。
「・・・あれが、あんたの頭か」
「違うよ」
 竜司の否定に、伊柄の片眉が上がる。
「俺たちの、頭だ」
「わしの・・・」
 あの男ならば。あの修羅の人生を送ってきた「御前」ならば、「狂犬」と呼ばれた自らの人生を賭けるに相応しい。
「・・・竜司さん」
「うん?」
「わしは、あの人について行く。それが例え地獄の底でも、わしは『御前』にとことんついて行くでぇ」
 伊柄の宣言に、竜司は優しい表情で軽く背を叩いた。
「それじゃあ、次は先輩方への挨拶だ。喧嘩を売ってもいいが、勝てる奴は居ないだろうな」
「酷いのぉ。わしが一番弱いんかぃ」
「今のところは、な。大丈夫、お前ならすぐに強くなれるさ」
 竜司のフォローに、伊柄の眼に力が入る。
(上等じゃぁ。どこまででも強くなったるでぇ。竜司さんよりも強ぉなって、「御前」の強さに少しでも追いつくんじゃぁ!)
 伊柄の顔に、「狂犬」と蔑まされた頃の笑みが戻っていた。


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