【獣児の目覚め】

 少年は父親から、否、薄暗い照明の下に横たわる、父親だった死骸から目が離せなかった。武術家として数々の果し合いを乗り越え、数多の武人の命を奪ってきた父親の死骸から。
 今夜の死合は、父親の死で決着がついた。母屋と隣接した道場の床の上、うつ伏せに倒れ、口から血を吐いている死骸の目にはもう光が宿っていなかった。父親が相手に強いてきた運命が、自らの上に落ちた結果だった。
 父親は少年に、今日も自分と男との死合を見届けるよう命じていた。自らが負けるかもしれないという弱気など一つも無く、自分が人を殺す場面を少年の脳裏にまで刻み込んでやろう、という思惑からだった。
 少年は無意識のうちに頬の傷を撫でていた。父親は少年から恐怖を奪うため、自ら刃物を握り、少年の体のあちこちに傷を入れていた。体だけには留まらず、少年の頬にも何本も刃傷が入れられ、適当に縫い合わされたために傷口が引き攣れ、異相となっている。
 少年から恐怖を奪うために傷を刻んだ父親が、今、死骸となって横たわっている。父親を倒した男は、黒い道衣を着込み、髪に白い物が混じり出した壮年だった。その身に纏う血臭を嗅いだように少年は思った。
 その男の顔が、ゆっくりと少年を向いた。
「儂が憎かろう」
 その問いかけに、少年は首を捻った。目の前の男は父親より強かった。ただそれだけではないのだろうか。想いを上手く口にできず、沈黙を通す。
「面白い小僧だ」
 少年の目に憎しみがないことがわかったのか、男は苦笑していた。つい先程まで命の遣り取りをしていたとは思えないほど柔らかな笑みだった。
「これからどうする」
 男の問いに、少年はまたも首を捻った。これまで少年は、父親から武術しか教えられてこなかった。その父親が死んだ今、どうすればいいのか、どうしたいのか、我がことながら実感できない。
「ふむ・・・」
 男が顎を撫でる。
「お前も、武の鍛錬を積んでいるのか」
 これには少年も大きく頷いた。初めての肯定に、男の視線が鋭くなる。
「お前が望むなら、儂がお前を強くしてやろう」
 途端に少年の目が輝いた。いつか父親よりも強くなりたい、それが少年の目標だった。その父親よりも強い男が、少年を強くしてくれると言う。目の前の男より強くなれば、父親を越えたということではないか。少年は何度も頷き、拳を握り締めた。
「ならば、かかってこい。お前の才を見極める。武の才能がなければ、ここで死ね」
 男の目が鋭さを増す。視線が少年を縛り、足を竦ませる。
「どうした? 強くなる前に死にたいということか?」
 男の眼光が、物理的な圧力を伴って少年を抑え込んでくる。抗うどころか、もがくことすらできない。
「父親と同じ運命を辿るか」
 血を吐き、光を失った瞳。自分もああなるのだ。
「死」。
 未来に口を開けた血路を知覚したとき、少年の口から咆哮が放たれた。少年の名の通り、獣の咆哮だった。床板を大きく軋ませた突進は、男の金的目掛けて放たれた突きとなった。
 いきなり宙を舞った。そうと感じる前に床板に叩き落されていた。少年の突進の勢いが乗せられた投げは、口から鮮血を吐かせた。
 ぎしり、と背骨が軋む。衝撃を堪えて跳ね起き、飛び蹴りで鳩尾を狙う。鳩尾に食い込んだ筈の蹴りは上空に向き、またも背中から叩き落されていた。
 たった二度の投げで、もう体が動かなかった。これしきの痛みなのに、口は血を吐くことしかせず、咽喉は咳き込むことしかしない。
 歯を食いしばる。溢れる涙は、父親の敵を討てなかったことではなく、自分の弱さへの憤慨だった。唸り声を上げながら、横たわったまま何度も床板を叩く。
「うむ」
 声がした方へと目をやると、男が少年を見下ろしていた。覚悟していたとどめは来ず、男はただ命じただけだった。
「立て」
 男の声は、どんなに辛くても立たなければならないときがある、と教えていた。歯が軋むほどに噛み締め、震える体に活を入れ、ゆっくりとではあるが立ち上がる。
「よし!」
 男が頷く。それだけで少年の胸に誇らしさが沸く。父親に与えられなかったものを、男は与えてくれた。少年を認めてくれた。
「名は」
 男の問いに、掠れ声で答える。
「・・・虎丸。古池、虎丸」
「虎丸か。明日から儂が直々に鍛えてやる。死ぬほうがましだと思えるほどの責め苦をくれてやる。その果てに、『虎』の名に恥じぬ力を手に入れよ」
 男の命に、少年は大きく頷いた。口元の血を拭い、決意に口を結ぶ。
 これが、虎丸と「御前」との邂逅だった。


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