【外伝 斉原楓】

「・・・あんたか」
 斉原楓の第一声はそれだった。無造作に伸ばしたぼさぼさ髪を一掻きし、ドアを後ろ手に閉める。
「初めての男に久しぶりに会って、最初の言葉が『あんた』か」
「久々にも程があるだろ! 何年経ったと思ってんだ」
 「御前」の執務室。楓に応接用の椅子を勧め、「御前」も机を挟んで向かい側に座る。沈み込む柔らかさと適度な弾力を持つ最高級の品だ。
「二十年振りか?」
「十六年だよ。あんときゃあたしが二十歳、今は三十六だからね」
 十六年前、楓は女子プロレス団体「ジーニアス」でトップを張っていた。強さと野性的な魅力を持った楓は、「ジーニアス」を支える唯一無二の柱だった。楓の試合を見た「御前」は楓の身体と大金を賭けて裏のリングで闘い、勝利して楓を抱いた。まさか処女だとは思わず、随分驚いたのを覚えている。
 現在、楓は「JJJ(トリプルジェイ)」というプロレス団体を立ち上げ、それなりの人気を得ている。自分で闘うことはなく、楓が元プロレスラーだったことを知らないファンも多い。
「で、儲け話ってのは?」
 楓の直線的な物言いに、変わらないなと「御前」が笑う。
「お前に、儂が主催するプロレス試合のレフェリーをして貰おうと思ってな」
「ふぅん、あたしにレフェリーをねぇ」
 確かに楓は経費節減のため、社長とレフェリーを兼務している。一回の興行で必ず一試合以上はレフェリーをしているので、レフェリング自体にも不安はない。
「儲け話っていうなら、それなりの手当てをくれるんだよな?」
「ああ、それなりのな」
 「御前」が笑みを含んた頷きを返す。
「五十万」
「五万しか出さんぞ」
 いきなり吹っかけてきた楓に、「御前」も冷たく返す。
「四十万は出せよ」
 それで折れる楓でもなく、新たな条件を提示する。
「十万でどうだ?」
 「御前」の言葉に、やれやれとばかりに楓が肩を竦めて見せる。
「三十万! これ以上はまからないよ。あたしもプロだからね」
「十五万だな」
 それでも金額の開きは大きい。
「むぅぅ・・・二十万!」
「ま、よかろう」
 「御前」も微笑して承諾する。
「当然一試合につき、だよな?」
「やれやれ、がめつくなったの」
 微笑を苦笑に変え、それでも「御前」は受け入れる。なぜ楓が金に執着するのか、その理由をわかっているからだ。

 「ジーニアス」は資金難で解散となった。楓が負傷で長期離脱したため観客動員数が激減し、チケット収入も半分以下になったためだ。当時の社長は夜逃げ同然に姿を消し、無理に早期退院した楓は他団体に闘いの場を移した。しかし怪我のために満足な活躍もできず、引退を余儀なくされた。「御前」がもっと早く気づいていれば、「ジーニアス」が潰れることも、楓の早過ぎる引退もなかったかもしれない。例え血みどろの暗闘で余裕がなかったとはいえ、「御前」には後悔が残った。
 引退した楓は新しい才能を発掘し、自分が活躍した舞台で輝かせることを誓ったのだろう。そして、自分と同じ目に遭わせないために金を欲するのだろう。

「話はそれだけかい?」
 楓の問い掛けに、回想から引き戻される。
「うむ・・・まあ、な」
 「御前」は楓を見つめ、視線を逸らさない。
「お前は変わらんな・・・否、あのときより美しくなった」
「やめてくれよ、最近じゃ小皺もできたんだぜ」
 ひらひらと手を振る楓の目元には確かに小皺もできているが、それすら名工が手を入れた彫刻のように魅力的なものに感じてしまう。
「謙遜とはお前らしくないな。あのときの挑むような啖呵はどうした?」

『あたしを抱くって? あたしの魅力がよくわかってるじゃないか。でも、簡単に抱けると思うなよ! 腕の一本は覚悟しな!』
 十六年前の楓は、自信と生命力に溢れていた。そんな楓に「御前」は惹かれ、抱いてみたいと思ったのだ。

「あんたみたいな大物がお世辞を言うわけないか・・・でもそこまで言うなら、あのときみたいに抱いてみるかい?」
 楓が微かに前屈みになる。その分、二人の顔が近づく。
「・・・否、やめておこう。なにを請求されるかわからん」
 「御前」がわざとらしい苦笑を浮かべ、椅子に深くもたれる。
「ちぇっ、ばれたか。思い切りふんだくってやろうと思ったのに」
 楓は勢いをつけて立ち上がり、ドアへと向かう。
「もう帰るのか?」
「ああ、社長業ってのも忙しいんだよ。あんたも忙しい中時間作ってくれたんだろ?」
「ま、それはどうでもいい。そろそろ秘書が契約書を持って来る筈だ。帰るなら、それにサインしてからだ」
「へいへい」
 楓が再び腰を下ろすと同時にドアが開く。
「『御前』、契約書をお持ちしました」
「ああ。洋子、こちらに」
 楓と洋子の視線が絡まり、弾ける。楓は洋子からボールペンを受け取り、サインしてから机の上に投げ出す。
「それじゃ、今度こそ帰るよ」
「ああ。見送りはせんぞ」
「いいよ、しなくて。どうせ試合会場で会うんだろ?」
「ああ」
「ふふっ。それじゃね」
 最後に笑顔を残し、楓は執務室を後にした。監視を兼ねて見送りに出た洋子の背がドアの向こうに消えたのを確認し、「御前」は目を閉じた。
(安い感傷だ)
 それがわかっていながら楓を呼び寄せた自分が、酷く小さく感じる。
(否、それだけではないわ)
 奥底からの感情の問い掛けを否定し、かっと目を開く。
「『JJJ』、魅力的なおなごが何人かおったの」
 <地下闘艶場>に呼び寄せても遜色ない美貌と強さの持ち主。金さえ積めば、楓も否と言うまい。
「プロで活躍している者を<地下闘艶場>に上げるのもいいだろう。客も喜ぶ」
 自分自身に言い聞かせるように呟き、「御前」は低く笑った。


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