【外伝 琴音&冬香 其の一】

「これでいいか?」
 夫が差し出した離婚届を、琴音は感慨と憤懣を噛みしめながら受け取った。

***

 沢宮琴音の夫は中堅どころの音楽会社社長であり、その会社は不景気のあおりで倒産寸前の状態に陥っていた。琴音は夫から頼みこまれ、<地下闘艶場>と呼ばれる裏のリングに上がった。しかしそこは、美しい女性を嬲り者にするための生贄の場だった。
 夫は琴音を<地下闘艶場>に差し出すことで、主催者から融資を得ることができた。琴音の屈辱と引き換えに。
 それだけならまだ我慢することができた。会社を潰したくないという夫の気持ちもわかったし、「頼れるのはお前しかいないんだ」という言葉には真実味があった。ただ、その日から夫婦の営みは絶えた。
 琴音が離婚を決意したのは、夫が実の妹である冬香をも<地下闘艶場>に堕としたことを知ったからだった。琴音とは血が繋がっていないが、まるで本当の姉妹のような間柄になっていた。その冬香も自分と同じような目にあったことを想像すると、いても立ってもいられなかった。
 琴音は夫に離婚を切り出した。夫は考えさせてくれとだけ言った。

 夫からの返答は、凄まじい形で現された。

 琴音のもとに<地下闘艶場>から連絡が入り、再度の参戦を要求してきたのだ。勿論断ろうとした琴音だが、琴音が断れば<地下闘艶場>で嬲られる冬香の画像を全国にばらまく、と言われては断ることができなかった。
 そして上がった二度目のリング。そこには複数の男性選手と、守るべき相手もいた。
 琴音は冬香を守るため、冬香は琴音を守るためにリングに上がった。冬香も<地下闘艶場>に同じ条件を提示されていたのだ。お互いがお互いを守ろうとする気持ちを利用されてリングに上げられた二人は、男達に延々と嬲られ続けた。

 試合後、琴音は夫との離婚を成立させようとしたが、冬香のことを考えると<地下闘艶場>のことを公にすることができないため、離婚調停は中々進まなかった。夫ものらりくらりと言い逃れを図り、琴音は離婚を諦めかけていた。

 しかし、突然掌を返したかのように夫は離婚に同意した。
「冬香に感謝するんだな」
 その一言が、薄々事情を悟らせた。

***

「それじゃあ」
 離婚届を封筒に入れ、腰を浮かしかけた琴音の右腕を夫が掴む。
「・・・なにかしら?」
「もうこれで最後なんだろ? なら記念に一発・・・」
 自分が頬を張ったと気づいたのは、夫の驚いた顔と左手に小さな痛みを感じてからだった。

 出会ったときには笑顔が素敵な男性だった。
 我が侭なところはあったが、会話も上手く、いつも琴音をリードしてくれた。時には冬香も混じって三人でデートし、兄妹喧嘩を執り成したこともある。
 そして夫からのプロポーズ。琴音が和太鼓奏者を続けることを条件に出したが、あっさりとOKしてくれた。結婚してからは新居に冬香もよく遊びに来て、女性二人でお茶しながらお喋りを楽しんだものだ。

 夫の頬を叩いた左手を見たとき、自分がまだ結婚指輪をしていたことに気づいた。薬指から結婚指輪を抜き取り、そっとテーブルの上に置く。
「サヨナラ」
 固い声で別れを告げ、改めて踵を返す。その途端夫の携帯電話が鳴り出した。
「ああ、どうしたんだい?」
 親しげな口調。
「ああ、そうだ、やっと片がついてね。これから来ないか? いいじゃないか、ああ、風呂はこっちで入ればいいし・・・」
 最後まで聞かず、琴音は応接室のドアを閉めた。一年半の結婚生活は、こうして本当に終わりを告げた。

***

「義姉さん、これはどこに置けばいいの?」
「ああ、その服はこっちに持ってきて」
 冬香は琴音の引越しを手伝っていた。琴音は離婚調停を始めたときから既に夫と別居していたが、離婚が成立した今、夫の住まいとはかなり離れた場所に居を移した。六階建てのマンションの最上階。
 今は引越し業者も引き上げ、冬香は琴音と二人細々したものをダンボールから出して仕舞っている。

「後は、取り敢えずこれね」
 片付けも一段落し、琴音が何かを持って廊下に向かう。
「なになに?」
 琴音のつっかけを借り、冬香も一緒に通路へ出る。
「これをここに入れて、と」
 琴音が部屋番号の下のネームプレートに、手に持っていた「潮寺」と印刷された厚紙を挿す。
「あ・・・」
(そっか。もう、沢宮琴音はいなくなったんだ)
 自分とは違う苗字に、冬香は想像以上に衝撃を受けていた。琴音が兄と離婚すればこうなるかも、という思いは漠然とあったが、実際に目にしたとき、胸の中には寂寥感と孤独感が広がった。
「ねえ冬香ちゃん、手伝ってくれてありがとう。お茶でも飲んでいって」
「・・・うん!」
 自分でも無理しているとわかる声だった。

「それじゃ、帰るね」
 上がり口に腰を下ろしてブーツを履き、靴紐を締める。なぜか結び目が上手くできず、何度も結び直す。四苦八苦して漸く結び終わり、立ち上がる。振り返ると、少し高い位置に琴音の顔があった。
「もう会うこともないね」
 無理に笑顔を作り、琴音に背を向ける。面と向かって別れの挨拶をする勇気はなかった。兄がしたことを許してくれるとは思えない。その兄の妹である自分を見るたび、琴音は辛い思いを呼び起こすだろう。自分はもう琴音に会ってはいけないのだ。
「義姉さん・・・」
 そこまで言って言葉に詰まる。もう二度と会えない、その思いが胸を塞ぐ。
「・・・・・・」
 最後の一言は、中々口から出てくれなかった。
「―――さよなら」
 やっと絞り出した言葉と共に、涙が一筋頬を伝った。

***

 半年後。
 琴音はキッチンで朝食の用意をしていた。ふと時計を見てため息をつく。
「まったく・・・」
 手を止めて廊下を歩き、部屋のドアをノックする。
「起きなさい」
 ノックに応えがないので、ドアを開ける。すぐにベッドの上で布団に包まった姿が目に入る。
「早く起きて、もう時間よ」
 声が届いたのか、もぞもぞと布団が動く。
「もう・・・いいかげんにしなさい!」
 琴音が布団を剥ぎ取る。その下には、ショートカットにされた栗色の髪と寝ぼけ顔があった。
「今日から新学期でしょ? 早く起きなきゃいけないな、って昨日言ってたのは誰?」
「え・・・あーっ! 義姉さん、い、今何時!?」
「七時半」
「やっば!」
 冬香はベッドから飛び出し、パジャマを脱ぎ捨てる。小さな熊がたくさんプリントされた下着の上下が琴音の目に映った。
「着替えたらちゃんと朝ご飯食べなさい」
 動物のぬいぐるみだらけの部屋から出ながら、琴音が釘を刺す。
「わかった!」
 冬香は慌しく服を着ながら琴音に頷いた。

***

「―――さよなら」
 やっと絞り出した言葉と共に、涙が一筋頬を伝った。
「・・・ねえ冬香ちゃん」
 琴音の呼びかけに、びくりと肩を震わす。
「このマンションどう思う?」
「え・・・?」
 突然の脈絡ない質問に混乱する。琴音はなにが言いたいのだろう。
「綺麗で落ち着いた雰囲気だし、お気に入りなんだけど、私一人だと広すぎる気がするの」
 なんだろう。琴音の言葉は耳に入るが、心にまで届いてくれない。
「今は女の独り暮らしも物騒だし、もし冬香ちゃんがよかったら」
 私? 私がよかったらなんだというんだろう。心臓の音がうるさい。
「一緒に住まない?」
 今義姉は、いや、潮寺琴音はなんと言った? 頭の芯が痺れて理解が追いつかない。
「勿論ちゃんと家賃は貰うわよ? 家事も手伝って貰うし、買い物も頼んだりするから」
 だから遠慮しないで、その言葉が胸に届く。
「でも・・・でも、バカ兄貴があんな酷いことしたのに・・・」
「あの人は大人よ。冬香ちゃんももう大人。ただ血が繋がってるからって、他の大人がしたことに冬香ちゃんが責任取る必要なんてないわ」
 琴音が優しく宥めてくれる。その優しさが胸に響いた。
「・・・義姉さん!」
 冬香は琴音に抱きつき、その胸で泣きじゃくった。冬香の背を琴音がそっと撫でてくれる。
「私、私・・・!」
「うん」
「本当は義姉さんと離れたくなかった! 義姉さんが本当のお姉さんみたいで、とっても嬉しくて、大好きで、だから・・・」
 しゃくり泣きを必死に止め、琴音の顔を見上げる。
「一緒に、住みたい」
「うん。これからも宜しくね、冬香ちゃん」
 琴音の目にも、涙が光っていた。

***

「うわー、ぐっすり寝すぎた!」
 外出着に着替えた冬香は顔を洗い、寝癖を直して椅子に座る。
「まったく、私は来週からツアーなのよ。私がいない間ちゃんと一人で起きられるか、心配になるわ」
 冬香は琴音が小言と一緒に用意してくれた朝ご飯をかき込み、歯を磨き、超特急でメイクをしてカバンを引っ掴む。
「義姉さん、いってきまーす!」
 最初は「琴音さん」と呼んでいた冬香だったが、いつの間にか呼び慣れた「義姉さん」に戻っていた。琴音も別にそれを直そうとはせず、今も「義姉さん」と呼び続けている。
「行ってらっしゃい。気をつけてね!」
 勢いよく閉められたドア、その横のネームプレートには「潮寺」と印刷された紙が挿されている。「潮寺」の下には、控え目に「& 沢宮」と書き込まれていた。


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