【外伝 天現寺久遠 其の一】  イラスト:PAPA様

 天現寺久遠は、十五歳の春に家を出た。
 正しくは十五歳で家を捨てた。

***

 天現寺家は、由緒正しき天王寺家の分家だった。
 天王寺家は現在、天王寺財閥と呼ばれる巨大グループを形成している。天現寺家出身の中にはその中枢を担う者が多くいた。なぜなら天現寺家に生まれた子供は、同年代の天王寺家の者に仕える慣習があったからだ。
 連綿と続く両家の関係は、変わることなく現在に至った。

 天現寺家に生を受けた久遠も、幼い頃から天王寺家に仕える運命を繰り返し教えられてきた。
 父親は天現寺家の次男に生まれ、天王寺家に仕えることに何の疑問も持っていなかった。
 母親は結婚前から天王寺家に家政婦として雇われており、天王寺家に仕えることが当たり前の日常だった。
「お前は、天王寺のお嬢さんにお仕えするんだよ」
 四つ年上の主がいる。何かにつけてそう言われるたび、久遠の中で少しずつ反発が大きくなっていった。
 なぜ顔を見たこともない相手に仕えなければいけないのか。
 そもそも、なぜ天現寺の家に生まれたというだけで、自分の人生が決められなければならないのか。
 心の中に浮かぶ疑問が口から出ることはなかった。子供心に、言ってはいけないことだとわかっていた。
(でも、あたしはそんなのいや)
 久遠は、自分のための人生を送ることに決めた。

***

 小学四年生から早朝の新聞配達を始め、独立資金を溜めていった。両親は、久遠が既に働く意識を持っていると無邪気に喜んだ。うしろめたさは強引に捻じ伏せ、雨の日も雪の日も新聞を配り続けた。

***

 中学校の卒業式が終わった夜、久遠は両親に別れを告げた。両親は驚き、悲しんだ。それでも、自由を望む久遠の気持ちはまるで理解してくれなかった。
 久遠はナップザック、ボストンバッグ、そしてギターケースを肩に掛け、両親の制止の声を背に生まれ育った家を後にした。涙を見せなかったのは、せめてもの意地だった。

 バイト先は案外簡単に見つかったが、住むところは難しかった。しかし、最後は天現寺の名前が、否、天現寺が仕える天王寺の名前が決め手になった。天王寺の名前を出さなけれはならないのは悔しかったが、背に腹は替えられなかった。
 天王寺の名前を出した途端、不動産業者の態度は一変した。警察に電話しかねない扱いだったのが、お茶は出る、お菓子は出る、おまけに心の篭らない謝罪と軽薄な美辞麗句の嵐だった。部屋を決めて敷金を叩きつけ、久遠は早速新しい住居へ、初めて得た自由の居へと案内させた。

 その日から、バイトと家事に追われる日々が始まった。今まで洗濯機に放り込んでいれば洗濯され、干され、畳まれて戻ってきていた洗濯物ができる過程を、全て自分でしなくてはならなくなった。料理の練習はしていたが、毎日ともなるとレパートリーに困った。綺麗好きの久遠は掃除にも時間を取られた。
 それでも、大好きだった音楽に没頭できる。それだけで日々の辛さを忘れることができた。

***

 風の噂に、自分が仕える筈だった天王寺家の娘が、こともあろうにプロレスラーになったことを知った。
(・・・あたしには関係ないさ)
 そう呟いたものの、その日一日はなぜか胸がもやもやしていた。

***

 今日は少し早めにストリートライブへと向かう久遠の目に、「天王寺」という文字が入った。過剰な反応だとは思ったが、改めて目で追ってみる。その先にはプロレス団体のポスターがあった。
「・・・やっぱり」
 そこに書かれていた名前は「天王寺 操」。久遠が家を出なければ、主と仰ぐべき女性だった。

 久遠の足は、プロレス会場に向いていた。来るつもりもなかったのに、なぜか会場である総合体育館の前にいる。まだ開場前らしく、多くのファンが列をなしている。
「おぉそこの姉ちゃん、いい席ある、よ・・・」
 ギターケースを肩にかけたまま久遠が振り向くと、ダフ屋と思しき派手なスーツを着たパンチパーマの男が顔を引き攣らせる。
「ああ、あんたか」
 二週間ほど前、ストリートライブ帰りの久遠に絡んできたので軽く伸してやった相手だった。
「いい席あるのかい?」
「あ、いや、気にしないでくれ、それじゃ」
 こそこそと消えようとした男の襟首を掴む。
「ちょい待ち、一枚くれよ」
 何度も瞬きしていた男の顔が、急に営業スマイルを浮かべる。
「そうかい? なら安くしとくよ、俺とあんたの仲だもんな、この席なんかは」
 男が取り出したチケットを、最後まで言わせずもぎ取る。
「毎度! お代は・・・」
「ん? あたしから金取るつもり?」
 久遠に絡んだことに加え、基本的にダフ屋は不法行為だ。しかも腕力でも負けているとなれば、男は強く出られなかった。苦虫を噛み潰したような表情で黙り込む。
「冗談だよ、タダで貰うなんてことはしないよ」
 胸ポケットから無造作に千円札を出し、男の手に握らせる。
「あたしとあんたの仲だ、これくらいはしなきゃね」
 呆けた顔に、ニッと笑って背を向ける。
「・・・地獄へ堕ちやがれ、畜生!」
 男の罵声を気にも留めず、久遠は列の最後尾についた。

 試合会場内は、独特の熱気に包まれていた。初めて間近で見るリング、選手の名前が書かれた垂れ幕、興奮した声で話す人々、なにより、観客たちの目が輝いている。
 久遠は席番号を確かめながら進み、前から二列目の椅子に座る。この席なら値が張ったのではないか、その連想で男の呆けた顔を思い出し、一人苦笑した。

 何戦かの後、「天王寺のお嬢さん」がリングに上がった。黒い艶やかな長髪、ぱっちりとした鮮やかな瞳、桃色の唇。久遠とは違う、気品のある美貌。しかし表情は引き締まり、闘う者の顔となっている。
 そのプロらしい表情に、久遠は少しだけ目を奪われた。
 試合が始まるまでは。



(なんだよ、あれ)
 天王寺操の動きは、素人に毛が生えた程度だった。操より年下であろう対戦相手の赤毛も、そこまで強いようには見えない。しかも操のほうが上背がある。それなのに操は殴られ、蹴り飛ばされ、一方的にやられていた。
(あんなのでプロか、適当なもんだね)
 操への嘲りに似た感情は、自分の境遇への裏返しだったのかもしれない。
 操がまた、キチンシンクでリングに這いつくばった。腹部を押さえ、口も押さえているのは吐き気を堪えているのか。それでも、操は立ち上がった。立ち上がった途端にブレーンバスターでリングに叩きつけられる。
 髪を掴んで立たされ、顔面にエルボーを入れられて再びリングに倒れ込む。しかし、今度は自分で立ち上がった。

 その後も、操は何度もリングに這い蹲った。しかし、倒されても、倒されてもまた立ち上がる。
(・・・もういいだろ!)
 久遠が心の中で叫んでも、操は闘いをやめようとはしなかった。

 操が一瞬の隙を衝き、赤毛をバックドロップで投げる。
「っし!」
 久遠は自分がガッツポーズしたことに気づき、小さく舌打ちして腕を組む。そのとき、空席だった自分の前の席に中年の男女が座った。上品な香水の匂いが仄かに香る。
(なんで今頃?)
 そんな疑問は、会場の歓声ですぐに消えた。
 操のしぶとさに苛立った様子の赤毛が、タックルからマウントポジションを取り、指貫のグローブをつけた拳で操の顔面を殴りつける。何度も拳を落としたところでレフェリーに制止され、赤毛が渋々マウントポジションを解き、操もロープを掴んでやっと立ち上がる。その顔は自分の血で赤く染まり、瞼も腫れて右目が塞がっている。前の席の女性が息を飲んだ。
(なんで、なんでそこまでして・・・)
 久遠の呻きを余所に、リングでは赤毛が三度攻撃する間に操がやっと一発返していた。右目が利かずに距離感も狂い、操の打撃は何度も空を切る。
 最後はラリアートをまともに喰らい、操はフォールされた。レフェリーが三度リングを叩く音が無常に響く。

<カンカンカン!>

 試合終了のゴングが鳴らされ、リングに横たわったままの操は担架に乗せられて花道を退場していった。
 久遠は拳を強く握り締め、その姿をじっと見つめていた。操を乗せた担架が見えなくなると、居たたまれなくなって席を立った。

(プロレス、か)
 プロレス会場から出て、道路沿いの階段に腰を下ろす。操を見舞おうかとも思ったが、お互い面識がないことに気づいて止めた。
(あんなにボロボロになっても、勝負を諦めなかったな)
 ただの気まぐれでやっていたのではないことが、観ていてはっきりとわかった。ふと、操も自分で人生を決めたくなったのではないか、との考えが浮かんだ。
(お嬢さんってのも、いいものじゃないのかな)
 そう思ったことで、操との距離が近づいたように感じる。
 丁度そのとき、上品な服を着、それに見合った気品を纏った中年の男女が会場から出てくる。女性はハンカチで口元を押さえ、男性から抱えられるようにして歩いている。プロレス会場には似つかわしくない装いに目が行くが、なぜか、中年の女性は操を連想させた。二人が久遠の横を通ったとき、上品な香水の香りが鼻をくすぐった。
「ま、あたしには関係ないさ」
 勢いよく立ち上がり、お尻をはたく。
「っしゃ、行くか!」
 肩のギターケースを軽く感じながら、久遠はいつもストリートライブを行っている商店街へと向かった。

 ストリートライブから戻った久遠は、自宅の郵便受けに入っていた封筒に気づいた。
「なんだこれ?」
 差出人は<地下闘艶場>となっていた。無造作に封を開け、目を通す。文面には久遠の強さを見込み、闘いの場を用意すると書かれていた。
「・・・ふぅん、プロレスルールでねぇ」
 脳裏に、操の闘っている姿が浮かぶ。その姿に負けたくはなかった。

 天現寺久遠、十七歳の転機だった。


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