【外伝 稲角瑞希】

「な・・・」
 瑞希は荷物を取り落としたことにも気づかず、背広姿の相手を指差した。
「なんでキミがここにいるんだーーーっ!」
 その相手は瑞希を認めるとにこりと笑い、手を上げた。
「やあマドモアゼル瑞希、お邪魔しているよ」
 金髪に彫りの深い顔。アシュタルト・デフォーだった。

***

 稲角瑞希は毎週二回ジークンドー道場へ通っている。その道場は15kmも離れているが、自転車を飛ばせば三十分もかからない。丁度いいトレーニングだと思えばそれも楽しい。今日も道場で汗を流してから帰ってきた。
 時刻はもう夜九時を過ぎており、お腹の虫も不服を訴えている。
「ただいまーっ」
 元気よく玄関の引き戸を開けると、見慣れない靴があるのに気づく。
(父さんのお客さんかな?)
 それなら一応挨拶をしておこうと思い、居間に通じる襖を開ける。
 そこには、瑞希の知っている男の顔があった。
「なんでキミがここにいるんだーーーっ!」
 その相手・アシュタルトは瑞希を認めるとにこりと笑い、手を上げた。
「やあマドモアゼル瑞希、お邪魔しているよ」
「お邪魔してるじゃない! なにしに来たんだっ!」
「まあまあ汗臭いわよ、瑞希ちゃん。シャワー浴びてらっしゃい」
 頭に血を上らせた瑞希に、母親がのんびりとした口調で注意する。
「うぐっ・・・わかった、ご飯用意しといて」
 のんびり屋のくせに頑固なところがある母親は、瑞希がシャワーを浴びない限り晩ご飯を出してくれないだろう。お腹の虫の訴えには勝てず、瑞希はすごすごと浴室へ向かった。

 シャワーを浴びた瑞希が居間に戻ると、アシュタルトと父親が時代劇の話で盛り上がっていた。アシュタルトの前にもおかずとビールが並んでいる。
「やっぱり黒澤監督の右に出るものはおらんぞ」
「それには僕も同感ですが、キタノ監督の『座頭市』もよかったですよ。エンディングでのタップダンスなんか格好よかったし」
「でも時代劇にタップダンスってのは・・・」
「ああ、それだけじゃないですよ。殺陣もチャンバラじゃなくて斬り合い、ってのが出てるのがよかったです」
「そうだな、そこは私も認める」
 お互いにビールを注ぎながら、時代劇の話題に花を咲かせる。やれやれと首を振り、まずは空腹を満たそうと箸を取った瑞希に、父親が爆弾を投げる。
「瑞希、こんなイケメンとどこで知り合ったんだ?」
「え? どこって、その・・・」
 両親に<地下闘艶場>のことは伝えていない。自分がどんなことをされたかなどと恥ずかしくて言えなかったし、非合法のリングに上がったことを知られれば、両親は卒倒しかねない。
「そ、それはだね・・・」
「僕の一目惚れだったんです。街中で見かけて、声を掛けて、何度もしつこくアタックして、今日は直接アタックしに来ました」
 アシュタルトの言葉に、母親の目が輝く。
「まあまあ本当? こんながさつな娘でがっがりしませんでした? 顔には消えない傷がついてるし」
「ちょっと母さん!」
「そこがいいんですよ。傷すらマドモアゼル瑞希の魅力を引き出しています」
 さらりと気障な科白を吐くアシュタルトに母親はうっとりとし、父親は憮然としてビールを飲む。
「君の気持ちはわかったがね、アシュタルトくん。君は外国人だろう? 瑞希は日本人だ、日本を出るつもりはないと思うよ。それにまだ学生だし」
 父親の敵意剥き出しの言葉にも、アシュタルトはにこりと笑って見せる。
「確かに僕はフランス人です。でもフランス語の講師として働いていますし、ずっと日本で暮らすつもりです。それに僕は次男ですし、日本が大好きだから入り婿でも構いません」
「まあまあ本当? お父さん、入り婿ですって!」
「ああ、それなら家族がもう一人増えるってことか。いや、何年かしたらまだ増えるな!」
「まあまあお父さんったら、気が早いわよ」
 アシュタルトの「入り婿」の一言で、両親は舞い上がっていた。入り婿なら一人娘の瑞希が家を出ることはない、ずっと手元に置いておけるという考えが父親を安心させ、金髪の義理の息子ができるというのが母親の心をくすぐったのだろう。
「ボクは結婚する気なんかないよ! 特にこいつとは!」
「まあまあ瑞希ちゃん、フィアンセをこいつ呼ばわりしちゃ駄目よ」
「アシュタルトくん、いや、アシュタルト、こんなじゃじゃ馬娘だが、よろしく頼むよ」
 もう結婚が決まったかのような両親の態度に、瑞希がキレた。
「ふたりとも、いいかげんに・・・!!」

(ぐぅぅぅぅぅっ)

 盛大なお腹の虫の反乱に、瑞希の動きが止まった。
「まあまあごめんなさい、瑞希ちゃんお腹空いてたのね。どうぞ、食べていいわよ。話は決まったし」
「あ・・・う・・・」
 最早言葉もなく、瑞希は黙々と箸を動かした。恥ずかしさに顔を上げることができなかった。

 瑞希を除く三人は話に花を咲かせ、ビールがなくなったときには既に十時半を回っていた。
「あらあら、もうこんな時間なのね。ごめんなさいねアシュタルトさん、遅くまで引き留めちゃって」
「瑞希、送っていきなさい。未来の旦那様になにかあったらどうする」
「普通は逆だよ! なんでボクが送るのさ!」
 いつもながら女扱いされず、瑞希がむくれる。
「お父さん、お母さん、今日はありがとうございました。料理も美味しかったです」
「まあまあお母さんだって。嬉しい、また来てねアシュタルトさん」
「そうだぞ、もうここは自分の家だと思って、遠慮しなくいいからな」
「ちょっと二人とも、なに言ってんの! ここはこいつの家じゃないだろ!」
 瑞希の非難にも三人は取り合わない。
「それじゃあ、今日はこれで失礼します」
 きちんと礼をし、アシュタルトは玄関を出る。瑞希は両親に促され、渋々玄関を出た。

 両親は玄関口からアシュタルトに手を振っており、見送りなどばっくれようとした瑞希は当てが外れた。
「さ、ご両親の許可も出たことだし、行こうかマドモアゼル瑞希」
「・・・一人で帰れるだろ、子供じゃないんだから」
「おや、お父さんの言いつけを破るのかい? 君はそんな冷たい子じゃないだろう?」
 大通りまででいいからと言われ、それくらいならと瑞希も後ろについて歩く。
 アシュタルトの後ろ姿に、<地下闘艶場>で嬲られた記憶が蘇る。腰の後ろの差していたヌンチャクに自然と手が伸びていた。
「マドモアゼル瑞希、公園に行こうか」
 振り返りもせず、アシュタルトが公園に入っていく。夜の公園には誰もおらず、虫が静かに鳴いている。
「この間は君の勝ちだったんだから、もう勝負しなくていいんじゃないかな」
 微妙に距離を取り、アシュタルトが肩を竦める。
「・・・ボクは、この前散々恥ずかしいことされたんだよ。乙女の身体を弄んだこと、簡単に許せるわけないだろ!」
 ヌンチャクを構える瑞希。アシュタルトはため息を吐くと、背中から二本の棒を引き抜き、素早く組み合わせて杖にする。
「・・・なんでそんなもの持ってんのさ」
「ああ、漫画に載っててね、真似してみたんだ。金髪だって理由だけで絡んでくる人もいるからね」
 気負いもなく笑顔を見せるアシュタルトに、瑞希の体温が上がる。怒りのためか、他の理由なのか、自分でもわからない。
「ほぅあっ!」
 気合と共にヌンチャクを振る。アシュタルトの杖が音高く跳ね返すが、瑞希は手首の返しですぐに手元に戻す。
(強いね、やっぱり)
 瑞希は、微笑を浮かべていた。

 瑞希の振るヌンチャクはアシュタルトに届かないが、アシュタルトの杖も瑞希に向かってこなかった。アシュタルトから仕掛けてくることはなく、ただ防御に徹しているように見えた。
 またアシュタルトにヌンチャクの一撃を跳ね返される。もう何度目になるかわからない。瑞希は右手でヌンチャクを握り締め、アシュタルトを睨みつける。
「なんで・・・なんで手加減するんだ!」
「なんで、と言われても・・・」
 続けようとした言葉は、瑞希の目に浮かんだ光るものに遮られた。
「ボクを馬鹿にするのもいいかげんにしろ! 手加減してもらって喜ぶような女じゃないんだ!」
 ヌンチャクを握った手が震えているのは怒りだけではなかった。
「僕だって、好きな子を全力で倒しに行くなんてできないよ」
 こんなことをさらりと言うアシュタルトに、形容しがたい感情が湧く。
「・・・うわぁぁぁっ!」
 無茶苦茶にヌンチャクを振り回し、ヌンチャクを跳ね飛ばされると拳と脚で襲いかかる。最後には杖で足を掬われ、大地に転がる。
「僕の勝ちだ」
 喉元に杖を突きつけられ、静かに告げられる。
「・・・くそぉっ!」
 急に視界がぼやける。両腕で目を覆い、アシュタルトから隠す。
「マドモアゼル瑞希・・・」
「見るな!」
 目を隠したまま叫ぶ。
「こんな姿見られたくない。キミだけじゃない、誰にだって見られたくないんだ・・・」
 声を震わす瑞希の横に、アシュタルトが腰を下ろす。
「ごめんね、マドモアゼル瑞希」
 突然の謝罪に瑞希の肩が震える。
「いきなり自宅に押しかけて、迷惑だったね。でも、街中で君と話をしようとしても、絶対に話を聞いてくれないだろう?」
 それはそうだろう。自分に恥ずかしいことをした男に声を掛けられても、まともに応じたとは思えない。
「だから、君の両親から仲良くなろうと思って。『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』って言うだろ?」
「・・・今時の日本人は言わないよ、そんな難しいこと」
「そうかい?」
「そうだよ。・・・でも、よく母さんが家に上げたね」
 顔を隠したまま、瑞希が訊ねる。
「それなんだけどね、僕がマドモアゼル瑞希の知り合いだっていったら、お母さんは拍子抜けするくらい簡単に家に上げてくれたよ」
 その後父親が帰宅し、不審に思われる前にアシュタルトが居間にあった時代劇DVDのことを口にすると、嬉しそうに話に乗ってきたのだと言う。
「『案ずるより生むが易し』ってことかな」
「わかんないよ・・・」
 どうせボクは頭が悪いから、と口の中で呟く。
「頭の良し悪しなんて関係ないよ。僕は君の魅力的なところを一杯知ってるんだから」
 気障な科白に頬が熱を持つ。
「僕は君の魅力的なところを知ってるけど、君は僕のことをほとんど知らない。ねえマドモアゼル瑞希。少しずつでいいんだ、僕を知ってくれないか?」
 両目から腕を外し、ちらりと目をやる。アシュタルトは屈み込み、瑞希に右手を差し出していた。
「・・・少しずつなら、いいよ」
 アシュタルトの顔は見ずに差し出された右手を掴み、体を起こす。立ち上がった瑞希にアシュタルトがヌンチャクを手渡し、白い歯を見せて微笑む。
「嬉しいなあ。今日はご両親にも会えたし、こうしてマドモアゼル瑞希とお話もできた。さっきは可愛いお腹の音も聞けたし・・・」
 アシュタルトの不用意な一言に、瑞希の両方の眉が跳ね上がる。
「うわぁーーーっ!」
 真っ赤になった瑞希のヌンチャクの一撃はアシュタルトの腹部にめり込み、悶絶させた。
「ま、まどもあぜる瑞希、食べたばかりのお腹はやめて・・・」
「うるさい! 黙れ! ボクは、キミが、大っっっ嫌いだっ!」

 これから始まる二人の長い月日の初日は、喧嘩で締め括られた。それも瑞希らしかった。


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