【外伝 八岳琉璃】 〜琉璃の初恋〜

 八岳琉璃は、「選ばれた者」だった。
 生を受けたのは、八岳家。巨大な八岳グループを運営する一族として有名な八岳家だった。
 琉璃の才能は全ての面において発揮された。勉強であろうと、運動であろうと、琉璃に敵うものはいなかった。その美貌は幼い頃から輝き、辺りを照らした。
 そんな琉璃に抗おうとする者は皆無だった。巨大な山を持ち上げようとする者など居ないように、隔絶した実力差には最初から兜を脱ぐしかなかったのだ。
 それを琉璃も当然の如く感じて育った。しかし、心の隅に小さな寂しさがあることも事実だった。それが人の上に立つ者の悲哀だ、と教えてくれたのは祖父だった。
「太陽と蝋燭の灯りが釣り合うか? 儂ら才ある者は、遙かな高みを知る者は、孤独に耐えねばならん。それも儂らに与えられた試練よ」
 祖父ほど偉大で巨大な人間を琉璃は知らなかった。祖父の言葉は、長い風雪を耐え、荒野を切り開いてきた人間の重みがあった。
 自分も祖父のように孤独を耐えねばならない人間なのだ。そう思うと、寂しさも少しは紛れた。

 才を磨くうちに歳月は過ぎ、琉璃は高校生となっていた。高校などどこに行っても一緒だと、普通の公立高校(それでも県下ではトップの高校だったが)に入学した。高校生レベルでは琉璃に敵う者など居らず、琉璃が女帝として高校に君臨するようになったのも当然の帰結だった。
 高校生活も学校での勉強も、琉璃にとってはままごとレベルの延長でしかなかった。

***

 高校生活も三年目となった或る日、琉璃は取り巻きの一人に熱心に誘われ、ラーメン店に入った。大衆食堂らしい店の佇まいで、中も奇麗だとは言えない。それでも席のほとんどが埋まり、ようやく端のほうに座ることができた。
(ま、これも経験ですわ)
 自分が庶民の生活に疎いことはわかっている。その庶民の生活の中に、時折思いも寄らない楽しみがあることを知ったのは高校に入ってからだ。祖父も若いときにはよく大衆食堂で食事をしたという。
(あら、あれは・・・)
 琉璃の視界に、厨房で働く者の姿が入る。同じクラスの男子だった。確か、名前は数藤海斗。普段とは違ったきびきびとした動きで麺の湯切りをし、スープの入った器に落とす。
「お待ちどぉ」
 その海斗がラーメンを二つ、琉璃と取り巻きの前に置く。
「いただきます」
 きちんと手を合わせてから、まずはスープをすする。
(まあ・・・)
 たかがラーメンだと思ってたいした期待はしていなかったが、醤油ベースのスープはあっさりとしており、しつこくないのにコクがある。更に麺が絶品だった。適度なコシがあり、喉を通るときにくすぐるような感覚すらある。チャーシューも自家製とおぼしく、安っぽさは欠片もない。
 一流料亭では決して味わえないラーメンに、琉璃は満足した。
「どうですか琉璃さま、美味しいでしょう? ここ、評判なんですよ」
「ええ、期待以上でしたわ」
 琉璃が肯定すると、取り巻きの女の子は頬を染めてラーメンを啜った。
 ラーメンの味とともに、海斗の顔も琉璃の脳裏に刻まれた。

***

 昼休み、琉璃は一人で屋上へ来ていた。取り巻きたちに囲まれているのも飽き飽きしていたし、気分転換のつもりだった。貯水タンクの取り付けられたスペースに上がるための梯子を見つけ、素早く登る。
 そこに先客が居た。目を閉じて寝転んでいるのは、ラーメン店にいた海斗だった。
「貴方、いつも寝てますのね」
 自分の望んでいた場所を取られ、琉璃は少し感情的になって言った。
「・・・八岳か。店の仕込みやなんやで睡眠時間が少ないんだよ。休み時間くらい寝かせろ」
 そう言って、海斗は一度開けた目をまた閉じた。

 実は、海斗の起きている姿を見るほうが珍しかった。授業中は勿論のこと、例えテスト中でもそうだった。テスト開始から10分ほど答案用紙を埋め、その後何かを計算していたかと思うと、机に突っ伏してしまう。暫くして、穏やかな寝息が琉璃の耳に届くのがいつものことだった。そのときには既に琉璃は答案を埋め、教師に断ってから応用力学の理論書を読んでいたりするのだが。
 海斗のテスト態度は万事この調子ながら、赤点を取ったことはない。おそらく、どこまで答案を埋めれば赤点にならないかきちんと計算しているのだろう。琉璃が見たところ、海斗は授業の内容をほぼ完璧に頭に入れているようだった。だからこそ授業が退屈で、睡眠時間に充てているのだろう。

「邪魔しませんから、隣に失礼しますわ」
 折角登ってきたのに、すぐに降りるのは勿体ない。そう考えて海斗から少し離れて腰を下ろす。海斗に興味を覚えたからこその行為だったが、琉璃本人はそれに気づいていなかった。
「お前、取り巻きがたくさんいるだろ。そいつらとだべってればいいじゃないか。友人関係は大切だぜ」
 海斗が目を閉じたまま、あからさまに迷惑だという空気を醸し出す。
「私には友人と呼べるような方がいませんもの」
 取り巻きたちの尊敬、諦め、秘めた欲望、隠された反発など、様々な感情が瞬く視線を思い出す。それは、琉璃を見上げることしか知らない目の色だった。
「友達が居ない、か。お前が相手を見下してるからじゃないのか? 対等な立場だと見なけりゃ、相手だって対等には付き合ってくれないぜ」
「!」
 海斗の言葉に、琉璃は思わず立ち上がっていた。今まで、自分にここまでずけずけと物を言った人間はいなかった。何か言い返してやろうと口を開く寸前、海斗が先に目と口を開く。
「八岳」
「なんですの!?」
「パンツ、見えてるぜ」
 その言葉に、反射的にスカートを押さえる。頬が熱を持ったのは、下着を見られたことにではなく、狼狽した姿を見られたからだった。
「デ、デリカシーがありませんわ! ごきげんよう!」
 ごきげんよう、と言ってしまった後で、自分が場違いな科白を放ったことに気づく。そっと海斗を見やると、もう目を閉じていた。
(・・・失礼な男!)
 琉璃は怒りを感じながら、梯子も使わず飛び降りた。翻るスカートを押さえながら音もさせずに着地し、色素の薄い髪をかき上げる。その姿が見えないとはわかっていても、貯水タンクを見上げずにはいられなかった。

***

 自宅に帰宅してからも、琉璃の気持ちは荒れたままだった。自室に入ると鞄を珍しく乱暴に放り投げ、衣服を手荒く脱ぎ捨てて自室の隣にあるシャワールームに入る。
 冷たいシャワーを頭から浴び、熱の昇った頭を冷やす。玉脂の肌を水滴が滑り落ち、見事に膨らんだ乳房、滑らかな背中、丸みを帯びたヒップを撫でていく。
(あんなに失礼な男、初めてですわ!)
 怒りに高鳴る鼓動を宥めるため、琉璃は豊かな胸をそっと押さえた。

***

 翌日も、屋上の貯水タンクの下に琉璃の姿があった。その理由は琉璃本人にもわからなかった。
「また来たのか」
 そこには海斗がいた。昨日と同じ姿勢で寝転んでおり、薄目を開けて琉璃だと確認するとすぐに目を閉じる。
「来てはいけませんの? ここも学校の敷地内。貴方が独占していいわけではありません」
 苦しい屁理屈なのは自分でもわかっていた。
「先に来てたのは俺だ。場所取りは早い者勝ちってのが常識だ」
「少しくらい融通を利かせてもいいでしょう?」
 どうしてここまで食い下がるのか。自分でも不思議だった。
「そうだな・・・膝枕してくれるなら、一緒に使ってもいいぜ」
「最低な申し出ですわね」
「ギブアンドテイクだ」
 勝ち誇ったような笑みを浮かべ、海斗が薄目を開ける。その笑みが琉璃のプライドを刺激した。
「・・・どうぞ」
 正座し、促す。
「・・・ああ」
 海斗もまさか琉璃が膝枕を受けるとは思わなかったのだろう。それでも断ることはせず、琉璃の太ももに頭を乗せる。
「・・・感想、言った方がいいか?」
「いりません」
 そこからは会話が途絶え、海斗も目を閉じたまま身動きしなかった。
 じきに、海斗の口から寝息が洩れ始めた。
(呆れた・・・)
 自分が膝枕をしているというのに、なんの反応も示さないとは。海斗の頬を抓りたくなる欲求を、半ば本気で堪えた。

「もう昼休みが終わりますわよ」
「ん・・・お・・・もうそんな時間か」
 琉璃の呼びかけに、ゆっくりと目を開けた海斗が体を起こし、伸びをする。
「お前の膝枕のお陰だな、ぐっすり眠れたよ。ありがとな」
 初めて見せた海斗の笑顔に、琉璃の鼓動が大きく跳ねた。
「わ、私の膝枕なんですから、極上なのが当たり前ですわ。もっと感謝してもいいですわよ」
 赤らんだ頬には知らんぷりをした。なぜか海斗に負けたようで悔しかった。

***

「お爺様、久しぶりにラーメンでも食べてみませんか?」
 日曜日、八岳グループ本社。会長室でようやく祖父を捕まえた琉璃は、出し抜けに提案していた。
「ラーメンか。久しく食べておらんのう。美味いのか?」
「ええ、私が保証します」
 琉璃は自信を持って頷いた。

「ここですわ」
 祖父の所有する高級車(当然運転手付き)に乗り、琉璃が案内したのは海斗の働く店だった。ここが海斗の実家だということも今ではわかっている。この辺りには不似合いな高級車に目を丸くする者もいるが、気にも留めずに店に入る。
「ぃらっしゃい!」
 店内に入った途端、威勢のいい掛け声で出迎えられる。今日も客が多く、店の端に席を取る。祖父は腕組みし、何かを待っている様子だった。
「お爺様、待っていてもメニューは出てきませんわよ」
「む、そうか。このような庶民的な食堂は久しぶりだからな、勝手がわからん」
 祖父に代わって琉璃は普通のラーメンを二つ頼んだ。
「お待ちどぉ」
 五分ほどして、海斗がラーメンを琉璃と祖父の前に置く。一瞬視線が絡んだ。
「いただきます」
「いただこう」
 祖父は琉璃から割り箸を受け取り、勢いよく割る。そのまま麺を啜りこむ。
 琉璃がちらりと様子を窺うと、祖父はふむふむと頷くだけで、一言も発しなかった。

「馳走になった」
 食べ終えた祖父は千円札を二枚置き、お釣りを渡そうとした海斗を押し留める。
「釣りはいい」
「毎度ぉ!」
 海斗も無理にお釣りを押しつけるような野暮はせず、威勢のいい掛け声で見送った。

 高級車の後部座席に乗り込むと、琉璃はもう我慢できなかった。
「お爺様、どうでしたか?」
 すぐ祖父に感想を尋ねる。
「美味かった。美味かったが・・・臭いがどうも、な」
 祖父は着物に染み込んだ臭いを嗅ぎ、顔を顰める。
「お爺様ったら・・・最後の言葉が余計ですわよ」
 祖父が海斗の味を認めてくれた。それが誇らしかった。
「あの味ならば、他の者にも教えてやれるな」
「それは止めてください」
 琉璃の拒否に、祖父は意外だという表情を見せた。
「てっきりそれが目的かと思ったが、違うのか?」
「お爺様、勘繰り過ぎです。美味しいラーメンを食べて貰いたいという孫の好意を、そのまま受け止められないなんて。八岳将玄の名が泣きますわよ」
 琉璃の言葉に、祖父は苦笑するしかなかった。何千という人間を動かす八岳グループ総帥も、孫娘には弱かった。

***

 屋上での逢瀬は続いた。
 琉璃を特別扱いしない海斗との時間は、琉璃にとってかけがえのない宝物だった。会話の中で時折海斗が放つ鋭い指摘には、琉璃が詰まることもあったほどだ。たまにしか見せない海斗の笑顔が見たくて、とっておきの話題を披露したこともある。
 だが、一番琉璃が気に入っているのが海斗の寝顔だった。琉璃の膝枕で寝ている海斗は、ずっと見ていても飽きなかった。

***

 いつしか、校外でも逢瀬を重ねるようになっていた。週にたった一度、ラーメン店の定休日だけ。しかも放課後から日が落ちるまでの僅かな時間だったが、琉璃には幸せな一日だった。
 ただ、海斗と居られるだけでよかった。

***

 卒業式が近づくにつれ、海斗の態度が僅かに暗くなっていった。それだけの変化と言えども琉璃が見逃す筈はなかった。
「海斗さん、言いたいことがあれば言ってください」
 昼休みの屋上。日課となった逢瀬の時間に、琉璃は直接切り込んだ。海斗に対して、回りくどいやり方はしたくなかった。
「・・・このままでいいのか?」
 それだけで、海斗が何を気にしているのかがわかった。
「私は、海斗さんと一緒に居たい。ただそれだけですわ」
 祖父の不興を買おうとも、例え八岳の家を捨てることになろうとも、琉璃には海斗のほうが大事だった。もう、海斗と離れた生活など考えられなかった。
「俺は、お前の可能性を潰したくないんだ」
 海斗の言葉は意外だった。琉璃の才能を認めてくれているのは嬉しかったが、それとこれとは話が違う。
「・・・私が嫌いになった、ということですの?」
 もしそうならば、潔く身を引く。心を引き裂かれるほどの痛みがあるだろうが、プライドが許さない。
「そんなわけないだろう」
 明らかな否定に、琉璃は本心から安堵した。
「でも、それならば何故・・・」
「このまま行けば、お前は絶対に後悔する。変化もなく、くだらない日常の連続に、『こんな筈じゃなかった』、ってな。苦しむお前を見て、俺は耐えることなんてできない」
 この海斗の物言いに、琉璃の頭に血が上った。
「どうして、自分の惚れた女を信じてくれませんの!?」
 自分には海斗がいれば充分なのだ。退屈な日常など、海斗と共に乗り越えていけるのに・・・
「惚れた女だからだ!」
 海斗の苦渋の表情が、琉璃から言葉を奪った。
「俺と一緒になったら、お前はラーメン屋の女将だ。ただラーメンを作るだけの毎日に、お前の才能を生かす余地はない」
「それでも・・・」
 不意に涙が零れた。人前で泣くなど、子供時代にもなかった。どうしても泣きなくなったときには、誰も来ない物置に隠れ、声も殺して泣いた。物心ついてから初めて他人に泣き顔を見せてしまったことに、驚きながらも納得してしまう。
「それでも私は、貴方と一緒に居たい・・・」
 海斗の返答は、琉璃に背を向けることだった。

***

「それが、私の初恋でしたの」
 その言葉で、八岳琉璃は予想より長引いたお話を終わらせた。
 おしゃまな娘にせがまれての告白だったが、あのときのことを思い出すと胸が暖かくなる。心が辛くなる。過去への追憶に耽る琉璃を呼び戻したのは、娘の素朴な疑問だった。
「ねぇお母様、今の方とお父様の名前が同じなのは偶然ですの?」
 娘の子供らしくない口調での質問に、琉璃が苦笑する。娘の口調は、琉璃の影響が強いのかもしれない。
「いいえ、偶然ではありませんわ。だって、海斗さんが貴女のお父様ですもの」
 卒業と同時に、海斗との縁は切れた筈だった。しかし、卒業を機にお見合いをさせられたことが逆に海斗への想いを溢れ出させ、琉璃は海斗のいるラーメン店に駆け込んでいた。そのまま海斗にプロポーズし、苦笑交じりに受け入れられた。店内にいた客の拍手に我に返り、随分と恥ずかしかったのを覚えている。

 琉璃は自宅から海斗の店に通う、通い妻としての立場を選んだ。昼間は八岳グループの中枢を担い、仕事の区切りをつけた夕刻から海斗の店で働く。忙しい毎日だったが、充実した毎日だった。なにより、海斗が傍にいた。

 結婚した後も、琉璃の苗字は未だ「八岳」のままだった。海斗の苗字は「数藤」。娘の玻璃の苗字も「数藤」だ。
 夫婦別姓は、琉璃と海斗の関係に相応しい制度だと思う。お互いがお互いを求め合いながらも尊重する二人にとって。
「貴女を身篭ったとき、お爺様からも周りの皆からも相当怒られましたわ。『まだ早い』って」
 そう言って、琉璃がくすりと笑う。十九歳の誕生日に妊娠がわかったのだから、周りの反応としては当然かもしれない。
「でもね、生まれた貴女を見たお爺様ったら、もうデレデレになっちゃって。『儂に曾孫ができるとは思いもしなかった』なんて言いながら、貴女を抱いたまま離そうとしなかったんですのよ?」
 玻璃はこくんと首を傾け、口に人差し指を当てる。
「お母様のお爺様だから、曾お爺様のこと?」
「ああごめんなさい。そう、あなたの曾お爺様。曾お爺様は好き?」
「好き!」
 娘の力強い宣言に、琉璃の顔が綻ぶ。
「でも、お父様の方がもっと好き!」
「あらあら、お爺様が聞いたら本気で怒りそうね」
 激怒した祖父の姿が容易に想像でき、琉璃は笑いを抑えるのに苦労した。
「では、私とお父様では、どちらが好き?」
 琉璃の悪戯な問いに、玻璃は真剣な表情で考え込む。
「うーんと・・・お父様。私、大きくなったらお父様のお嫁さんになりたいの」
 玻璃の言葉に、琉璃は一瞬で冷静さを失っていた。
「駄目です! 海斗さんは私の旦那様ですもの!」
「でも、私が大きくなったら私がお嫁さんになるの!」
「駄目ったら駄目です!」
 幼い娘と口喧嘩している自分を滑稽だと思う余裕もなく、海斗を取られまいと必死に言い募る。
「・・・自分の娘となにを本気で言い合ってるんだ」
 呆れた口調で、翌日の仕込を終えた海斗が部屋に入ってくる。
「・・・だって」
 子供染みた口喧嘩を三歳の娘としていたのが恥ずかしく、しかもそれを愛する夫に聞かれてしまった。豊かな胸をそっと押さえ、海斗から目を逸らす。
 琉璃の様子を見た海斗はちょっと間を置いた後で座り込み、玻璃の頭を撫でる。
「玻璃、今日は爺ちゃんたちと一緒に寝ような」
「どうしてですの?」
「俺と母さんは、今からお話があるんだ。うるさくなるし、夜遅くなると思うから、玻璃は爺ちゃんたちと先に寝てなさい。いいね?」
 玻璃は釈然としない様子だったが、大好きな父親の言葉に頷き、部屋を後にする。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 寝間着姿の玻璃は自分の枕を抱え、きちんと一礼してから襖を閉めた。ぱたぱたとした足音が響き、別の部屋の襖の開く音がした。それを確認してから琉璃が口を開く。
「海斗さん、お話ってなんですの?」
 話をする約束などしていないし、話をしなければならない内容も思いつかない。訝る琉璃に、海斗が珍しく言いよどむ。
「あー・・・なんというか、その・・・こういうことだ」
 海斗は琉璃を手荒く抱きしめ、唇を奪う。
「・・・んもう、こういうときは相変わらず強引なんですから」
「娘と本気で取り合いをするほど想われてるってのがわかったからな、それに応えたくなった」
 口づけされながら胸を愛撫されると、もう堪らなかった。
(海斗さん・・・私の初恋、私の永遠・・・)
 琉璃は、感情のままに海斗を抱きしめた。

***

 それから約十箇月後、琉璃は長男を出産した。陸と名付けられたその子は、八岳の血を濃く引く子供だった。
 数藤陸が八岳陸となり、八岳グループ総帥となるまでは、また別の物語である。


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