【外伝 於鶴涼子 其の八】

「お待たせ、涼子ちゃん」
「待っていません」
 駁の挨拶をびしりと斬り捨て、涼子は駁が開いてくれたドアから左ハンドル車の助手席に乗り込む。静かに助手席のドアを閉めた駁は運転席に戻り、シートベルトを締める。
「そっか、それじゃ時間通りだったみたいだね。良かったよ、遅れなくて」
 ミッション車をスムーズに発進させた駁は、涼子の舌撃を軽やかにいなす。それがまた涼子の神経を逆撫でる。
「・・・今日は、どこに連れて行かれるんですか?」
「会って貰いたい人が居るんだ」
 警戒を隠そうともしない涼子だったが、駁の答えは意表を衝くものだった。てっきり二人きりでのデートだと思い込んでいたからだ。
(まさか・・・ご両親に紹介されるのではないでしょうね)
 その想像にまた警戒心が沸く。そんな涼子の心情を知ってか知らずか、駁は軽やかにハンドルを操り、街中を疾走していく。

 於鶴(おづる)涼子(りょうこ)と甲羅木(こうらぎ)駁(ばく)。
 合気道を嗜むOLと人気芸能人である二人の出会いは、涼子が友人に押しつけられた夜のバイトだった。二度目の出会いは<地下闘艶場>と呼ばれる裏のリング。そこで二人は闘い、引き分けに終わった。涼子は敬愛する老人のことを知りたいと願い、駁は涼子とのデートを望んだ。
 今日は駁との約束を守るため、世の女性の大半が望んでも叶わない駁とのデートを行う約束だ。
(・・・飛び降りて逃げ出すわけにもいきませんし)
 涼子はため息を隠し、窓を向いて車外の風景を眺めた。

 駁が運転する外車はスピードを落とし、ある邸宅のガレージへと入っていった。外車がガレージに入ると、シャッターが自動で降り、照明が点く。
「待ってください、ここはもしかして」
「うん、僕の自宅」
 あっさりと答えられ、涼子の頬が緊張する。
(まさか、本当にご両親と?)
 回れ右をして帰りたいが、一度約束したことを反故にはできない。
「さ、どうぞ」
 助手席のドアを開けてくれた駁には視線を合わせず、スニーカーを履いた足を床に下ろした。

 駁の案内に従って玄関に回り、シンプルながら高級感漂うドアから邸内へと入る。既に準備されていたスリッパへと履き替え、駁の先導に従って奥へと進む。
「こちらにどうぞ」
 駁が開けてくれたドアを抜け、「失礼します」と声を掛ける。リビングの中央にある背もたれの大きな椅子に、若い女性が座っていたからだ。
「駁、今日は初めての方ね。しかも女性だなんて」
 その女性の顔が涼子を向く。
「あっ・・・」
 駁とよく似た整った顔立ち。その瞳は光を映していなかった。
「駁の姉です。胡蝶(こちょう)、といいます。宜しくお願いしますね」
「於鶴涼子です。こちらこそ、宜しくお願いします」
 胡蝶がふわりと頭を下げるのに合わせ、涼子もきちんと礼を返す。
「さ、涼子ちゃんも座って。お茶でもいれよう」
「お願いね、駁」
 薄手のカーディガンに白のロングスカート姿の胡蝶がふわりと立ち上がり、キッチンにある磨き込まれ、鈍く光を湛えた木製テーブルへと自然な歩みで向かう。同じく磨き込まれた椅子を確認してから座り、涼子へと顔を向ける。
「さ、涼子さんもどうぞ」
「失礼します」
 胡蝶に一礼し、涼子も席に着く。初めて訪れたお宅で見知らぬ女性と同席する。外からはそうとは窺えないものの、さすがに涼子も緊張していた。そこに、お湯を沸かす準備をしていた駁から言葉が飛ぶ。
「涼子ちゃんは強いんだよ」
 駁に胡蝶も応じる。
「そうなの? どれくらい?」
「僕が勝てなかった。負けでもなかったんだけど」
「そう。本当に強いのね」
 胡蝶の口元が綻ぶ。
「どうかしら涼子さん。後で手合わせ、してもらえません?」
「手合わせ、ですか?」
 目の前の胡蝶と「手合せ」という言葉が結びつかず、涼子はただ鸚鵡返しをしていた。
「ええ。私も武道を嗜んでいます。それだけで私の気持ちがわかって貰えるのではないかしら?」
「・・・わかる、気がします」
 正直に言えば、盲目であろう胡蝶と手合わせをするには気が引ける。しかし、そう正直に言うほど子供でもない。軽い戸惑いは忘れ、相槌を打つ。
「姉さん、お茶を飲む前から何を言い出すかな。お客さんに対する礼儀を忘れてるよ?」
「だって、涼子さんの歩く音がとても美しいから」
「案外血の気が多いよね、姉さんは」
 冗談交じりで姉をからかいながら、駁は手際よく緑茶を注いでいく。その動きと音が心地良い律動を刻み、耳目を引き寄せる。
「さ、どうぞ」
 涼子、胡蝶の順に茶碗を置き、最後に自分の分を用意した駁がお茶を勧める。
「頂きます」
「ありがとう」
 涼子は客として最初にお茶を口にし、胡蝶も慣れた仕草でお茶を口に運ぶ。駁もお茶を飲み、用意した和菓子を摘む。今日のお茶請けは薄切りにした羊羹だ。外側はカリカリで、内側のしっとりとした柔らかさと対比を成しているのが舌を喜ばせ、控えめな甘さが緑茶と良く合う。
「美味しい羊羹ですね」
「でしょ? 買ってきた甲斐があったよ」
 駁がにこりと微笑む。ファンならばそれだけで卒倒しそうな笑顔だったが、涼子には通じず、涼子はまたお茶を飲む。
「涼子さんはどんなお仕事を?」
「普通のOLです。受付係をしています」
「そう。美人なのね、涼子さんは。受付を任されるくらいですもの」
「それは・・・」
「そうなんだよ、美人なんだよ涼子ちゃんは。芸能人と言っても通用するんじゃないかな?」
「ふふ、随分熱心ね。駄目よ、涼子さんを芸能界に引き摺り込んだりしたら」
「わかってるよ。涼子ちゃんが皆のアイドルになっちゃうからね」
 姉と弟の会話を微笑ましく感じながら、涼子はまた一口緑茶を含む。
 胡蝶が涼子のことを聞き、涼子が胡蝶に答え、駁が口を挟み、胡蝶に軽くあしらわれる、ということが何度も繰り返される。ただそれだけのことなのに、涼子はゆったりとした安心感に満たされていた。
「では、そろそろいいかしら?」
 静かに湯呑を置いた胡蝶が、涼子に微笑みかける。
「そろそろ、とは?」
 涼子の問い掛けに、胡蝶がまた微笑む。
「手合せ。私、本気で涼子さんと試合をしてみたいの」
 またも請われた「手合せ」に、涼子は思わず駁を見る。
「いいじゃないか涼子ちゃん。姉さんの相手をしてやって」
 軽口に見せかけてはいたが、そこに真摯なものも含まれていた。
「しかし、道衣が・・・」
「私のものを使って。多分着られると思うから」
 胡蝶が涼子の姿を見ることはできない。しかし、涼子の歩く音や身動きなどから情報を得ているのだろう。それでも胡蝶との手合せを躊躇し、駁に視線を向ける。
「頼むよ、涼子ちゃん。姉さんがこういうことを言い出すのは滅多にないんだ」
 姉弟両方から頼まれ、涼子は気づかれないようにため息を吐いた。

 胡蝶とは別室で着替えた涼子が駁に案内され、畳が敷かれた稽古場と思しき部屋へと入ると、既に道衣へと着替えた胡蝶が正座していた。
「お待たせしました」
「ありがとう、涼子さん。私の我儘に付き合ってくれて」
 音もさせずに立ち上がった胡蝶が一礼する。
「それじゃ、僕が審判をするよ」
 駁が胡蝶と涼子を同時に見られる位置に陣取る。
「では・・・お互いに、礼」
 駁の合図に、二人の美女が静かに頭を下げる。
「始め!」
 開始を告げる声に、涼子はいつも通り開いた両手を胸の前で構える。対する胡蝶は、だらりと両手を垂らし、まったく構えを取っていない。
「・・・」
 胡蝶の自然体に、涼子は何か狙いがあるのかと考えてしまう。
(本気を出しても良いものでしょうか?)
 それに、盲目の胡蝶の実力もわからない。
「ああ涼子ちゃん、手加減なんて考えないほうがいいよ」
 涼子の戸惑いがわかるのか、駁が声を掛けてくる。
「姉さん、僕より強いから」
「えっ?」
 涼子と駁との実力は拮抗していると言っていいだろう。胡蝶はその駁より強いと言う。それほどまでの実力か、と疑いが胸に生じる。
 しかし、それも胡蝶が一歩踏み出すまでだった。
 胡蝶の静かな一歩で、涼子の頬を汗が伝った。胡蝶の歩法が初めて見るほど滑らかな上、胡蝶の纏う空気は清らか過ぎて、涼子の闘志が消されていくのだ。闘おう、という気持ちを高めるのに体中から熱を集めなければならなかった。
「どうしたの涼子さん。遠慮はいらないわよ」
 胡蝶が微笑みを浮かべる。涼子が目の見えない胡蝶に攻撃を躊躇している、と本気で信じている声だった。
(ままよ!)
 息を止め、前に出る。しかし、機先を制したのは胡蝶だった。涼子が前に出る瞬間を読んでいたかのように、涼子よりも前進していた。
「っ!」
 機を外され、間合いを潰され、涼子の選択肢が消された。
「くっ」
 襟を掴もうとした瞬間、逆にその手を掴まれていた。
「ぐっ!」
 手の甲にある急所の一つを極められ、痛みが奔る。痛みに気を取られたのは刹那の間だったが、宙を舞った体が畳へと落ちていた。だと言うのに、衝撃はまったく感じなかった。胡蝶の投げによって体重を完璧にコントロールされたためだ。
「一本!」
 駁の宣言に、胡蝶が涼子から離れる。
「・・・胡蝶さん、もう一本お願いします」
「ええ、こちらこそお願いします」
 立ち上がった涼子に、胡蝶がほほ笑みを返す。
「・・・」
 涼子は鼻から静かに吸った息を口からゆっくりと吐く。浮き上がりかけていた気持ちを落ち着かせ、改めて構えを取る。胡蝶の動きを注視しながら、じりじりと摺り足で間合いを詰めていく。対する胡蝶はだらりと両手を垂らしたままだ。
 お互いの間合いに入っても、涼子は尚も間合いを詰める。それでも胡蝶は動かない。涼子の左手が胡蝶の襟を狙ったとき、胡蝶も動いた。
(今!)
 涼子の手首を捕まえようとした胡蝶の左手首を逆に捕える。捕えたと同時に手首を極める。否、極めた筈だった。
「うあっ?」
 涼子の腕が、胡蝶の手首を掴んだ箇所を支点に、逆に極められていた。片膝立ちとされた涼子は、次の瞬間にはまたも宙へと下半身を飛ばされていた。胡蝶の足払いの所為だ。反射的に胡蝶の手首を放し、受け身を取る。大の字になった視界に、胡蝶の優しい貌が見えた。
「参りました」
 正座し、自然に負けを認める言葉を発していた。
「お手合わせ・・・ありがとう、ございました」
 立ち上がりながら、胡蝶に手を差し出す。
「こちらこそ。本気で手合せしてくれてありがとう、涼子さん」
 涼子がそっと差し出した手を、胡蝶は優しく両手で包み込んだ。
(この人が、本当のお姉さんなら)
 右手に感じる温もりに、涼子は思わずそんなことを考えていた。

「駁が私に女性を会わせるのは、初めてのことなの」
 服を着替え、改めてお茶を頂いていたとき、胡蝶が柔らかく告げる。
「だから、よっぽど大事に思ってる人なのかな、って」
「ね、姉さん!」
 慌てる駁など初めて見る。いつも余裕のある態度の駁が慌てる姿に、涼子はくすりと笑っていた。
「でも、噂は色々と聞いているわよ。一年前は、あのアイドルの子と・・・」
「姉さんストップ! 過去の恋愛話は今はなしで!」
「そう? でも、半年前の子とは・・・」
「りょ、涼子ちゃん、こっちに!」
 胡蝶から逃げ出すかのように、駁が強引に涼子の手首を持つ。駁に手を引かれ、涼子は駁の後を追った。

「姉さん、意外と物怖じしないからな・・・驚いたでしょ?」
「ええ、色々と女性遍歴をしているようで」
「ぼ、僕のことはいいんだよ!」
 頬が微かに赤らんでいる駁にくすりと笑う。まだ手首を掴まれていたことに気づき、控えめに外す。
「・・・取り敢えず、こっちに」
 残念そうに、しかしそれ以上は涼子に触れようとはせず、駁は別室の扉を開いた。
「どうぞ」
 そのまま涼子が部屋に入るのを待つ。
 絨毯が敷かれ、シックな色合いの家具で統一された部屋は15畳ほどもあるだろうか。
「・・・失礼します」
 勢いに流されていることは自覚しながらも、駁の私室だと思われる部屋に足を踏み入れる。微かに香るのはアロマだろうか。
 部屋の中を漂っていた視線が、ベッドサイドに置かれているフォトフレームで止まる。
「この写真は?」
 写真の中には、二人の人物が写っていた。笑顔を浮かべた愛くるしい小さな男の子は、おそらく幼い頃の駁だろう。もう一人は今の涼子より幾つか年上の、どこか男性的な印象を持たせる飛び切りの美女だった。
「僕の初恋の人だった」
 過去形で語るその口調は、哀切なものが含まれていた。涼子の視線が自分に向いたのに気づいたのか、駁は軽く頷いた。
「ちょっと、昔話をしようか」

 駁の叔母・つぐみは、ある権力者に仕えていた。その権力者は駁の祖父も仕えていた人間で、その縁でつぐみも権力者に仕えるようになった。
 つぐみは権力者に気に入られ、護衛と夜伽を任されるようになった。駁が久しぶりに会ったときも、つぐみの心は権力者へと向いていた。それが駁には気に入らず、つぐみに意地悪ばかり言うようになった。それでもつぐみは笑顔で駁の相手をしてくれた。
 それは、突然だった。
 つぐみは仕えていた相手を守り、命を落とした。権力者がつぐみの命を奪ったも同然だった。

「つぐみ姉を奪った相手に、僕は喧嘩を売った。僕は、その相手にボコボコにされたよ。まだ小学生だったんだよ?」

 それでも長じるにつれ、権力者が手加減してくれていたことを知った。もし権力者が本気ならば、駁は即死させられていた筈だ。
「つぐみ姉が惚れた相手だ。僕なんかが敵う相手じゃなかった」
 初恋は無残な形で終わりを告げた。しかし、その失恋が駁の心を剛くしてくれた。

「僕が好きになるのは、どこか男っぽい女性ばかりだった。でも、付き合うと『どこか違う』と感じて、いつしか別れてしまっていた」
 駁の眼差しはどこか硬かった。過去の苦い思い出がそうさせるのか。
「今思えば、僕はつぐみ姉の代わりが欲しかったのかもしれない」
 認めたくはなかったのだろう。駁の眉間には深い皺ができていた。
「失礼な話だ。つぐみ姉にも、相手の人にも」
 ため息交じりの吐息は、駁の本心を感じさせた。
「もう、真剣な恋はできないのかな、なんて本気で思い始めたときだった。涼子ちゃんのことを知ったのは」
 涼子のことを知り、その日に突然夜のバイトを行うことも知った。そのため多少の変装をし、直接会ってみようと思った。ただ、そのときは悪戯を企む程度の軽い気持ちだった。
 しかし、実際に会い、涼子を直接知ったことで、もっと涼子を知りたいと思うようになった。だからこそ<地下闘艶場>に上がり、涼子と闘ったのだ。
「闘いの中で、僕は涼子ちゃんに魅かれていった。魅せられた。本気を出して挑んでも、完全には仕留めきれない。反撃はほれぼれするほどの華麗さと鋭さを持っていた。堪らなかったよ。怖くて、嬉しくて」
 駁のまっすぐな視線を躱したくて、反撃を試みる。
「かなりの数のお付き合いをされたようですが?」
「でも、こんなに心惹かれたのは、涼子ちゃんだけだ。つぐみ姉にだって、ここまで強く惹かれなかった」
 しかし、反撃は逆撃に会い、頬が微かに染まる。
「でも・・・私には、元橋様が・・・」
 わかっているとでも言いたげに、駁が頷く。
「涼子ちゃんの気持ちは知ってる。でも、元橋さんには、今も心を占めている女(ひと)が居るんだ」
「そんな・・・」
 薄々は気づいていた。それでも、その事実を認めるには心が痛過ぎた。
「・・・約束を果たしてください。私は、何故元橋様が私を忌避するのかを知りたいんです」
 それでも。前に進まなければ何も始まらない。涼子の強い要望だったが、駁の顔には苦悩が浮かぶ。
「・・・僕が君に話せば、元橋さんの古傷を抉ることになってしまう。もう何十年も経つのに、その古傷は未だに血を流し続けているんだ」
 一度目を閉じた駁は、真っ直ぐに涼子を見つめる。
「でも、僕は君に約束したからね。君は約束を守って、今日僕に付き合ってくれた。だから、僕も約束を守ろう」
 手入れの行き届いた髪をかき上げた駁は、宙に視線を漂わせた。
「元橋さんは、奥さんを目の前で撃ち殺された」
「っ!」
 想像もしなかった言葉に、涼子は息を呑んだ。
「詳しい経緯は僕も知らない。僕が生まれる前の話だからね。でも、元橋さんは闇の世界に生き、そういう事態がいつ起こってもおかしくない人生を歩んでいるんだ」
 親しい人間でも、否、親しい人間だからこそ、明日にも命を落とすかもしれない。自分の存在を理由として。
「元橋さんは、涼子ちゃんが奥さんに似ているからこそ、余計に距離を取ろうとするんだ」
「私が、奥様に・・・」
 もしそれが本当なら、もしかして。
「元橋様の心に居るのは・・・」
「ああ。今も奥さんの存在が、元橋さんの心にしっかりと息づいている」
 既に亡くなっている妻が、未だに元橋の心を占めているとは。生者が死者に勝てるだろうか。答えは否、だ。
「でも」
 そう、でも。涼子が元橋の妻に似ていると言うのなら、もしかすると涼子へと元橋の心が向くこともあるのではないか? 微かな希望、否、願望に縋りつこうとする。
「元橋さんが奥さんを忘れることはないよ。それに、敬愛と、男性として愛することは違うよ」
 しかし、駁は冷たく事実を指摘する。
「でも、私のこの気持ちは・・・」
 反発が、反論を繰り出そうとする。しかし、心の奥の気持ちがそれを押し留めていた。
(私が、元橋様と結ばれることはない)
 女の直感が、事実を認めてしまう。死者に心を捧げた老人が、自分を正面から見ることはないとわかってしまう。
 悔しさか、恋の終わりを知ったからか、涼子の双眸から涙が溢れ出る。それでも声は出さず、唇を噛みしめる。
「涼子ちゃん」
 名を呼ばれ、反射的にその方向を見る。
「胸を貸すよ。今だけ、ね」
 自然に広げられた両腕の中に、ゆっくりと歩み寄る。堪えていた慟哭が、一度に解き放たれた。
「元橋様・・・元橋様・・・!」
 泣きじゃくる涼子の頭を、まるで幼子をあやすように駁が撫でる。
「全部吐き出してしまえばいい。何もかもを吐き出して、心を軽くしたほうがいい」
 僕もそうだったから。駁はそう続け、姉である胡蝶の胸を借りたとも続けた。
「だからかな、今でも姉さんには頭が上がらない」
 優しく涼子を撫でながら、駁が小さく苦笑する。
 涙が溢れ、流れ落ちるたび、心の傷が僅かずつ塞がっていく。傷跡は残しながらも。
(元橋様・・・)
 心の中で名を呼び、涼子はぐっと唇を噛みしめた。

「・・・もう、大丈夫です」
 駁から身を離し、残った涙を拭う。恥ずかしさから駁の顔を見ることができない。
「涼子ちゃん」
 呼びかけとともに、顎にそっと触れられた。
「元気を出して」
 突然予想外の行動を取られ、涼子は反応できなかった。気づいたときには正面を向かされ、駁の唇が涼子の唇に触れ、離れていた。不意打ちのキスに、涼子の頬が薔薇色に染まる。
「・・・に」
「え? 涼子ちゃん、今なんて」
「私の初めて、だったのに」
 呆然と呟く涼子に、駁の表情が固まる。
「ご、ごめん! まさか、キスも初めてだなんて思っても」
「言い訳無用!」
 その言葉が終わる前には、駁の身体は絨毯の上に叩きつけられていた。
「女性の唇を勝手に奪うなんて、破廉恥にもほどがあります!」
 そう言い捨て、駁の私室を後にする。
「涼子ちゃん、ま、待って・・・」
 痛みを堪えながら発せられた駁の呼びかけなど無視し、涼子は最初に通された居間へと足音高く進んでいった。

 軽く驚きながらも迎えてくれた胡蝶と、ひたすら詫びる駁、その駁を無視して胡蝶に話しかける涼子。
 緩やかにも時は過ぎ、いよいよ辞去となった。
「また来てくれると嬉しいわ、涼子さん」
 玄関まで見送りに出てくれた胡蝶が、名残惜しげに声を掛けてくる。
「・・・では、胡蝶さんに会いに来ます。駁さんの居ないときに、ね」
「それはないよ、涼子ちゃん」
 頭を掻く駁を、胡蝶がくすくすと笑う。
「ではまたね、涼子さん」
「ええ、また」
 深々と一礼をした涼子は、胡蝶の見えない視線を背に感じながら、駁の先導でガレージへと向かった。

「今日は付き合ってくれてありがとう、涼子ちゃん」
 滑らかに高級外車のハンドルを操りながら、駁が礼を言う。
「あんなに嬉しそうな姉さんを見るのは珍しいんだ。本当にまた会いに来てよ」
「ええ、約束しましたから」
 そっけなく返した涼子にめげることなく、駁は言葉を続ける。
「僕が居るときにも来てくれると嬉しいな」
「・・・そう、ですね」
 駁の希望に、涼子は一瞬考えたものの微かに頷く。
「胸を借りた恩もありますしね」
 駁が失恋を乗り越えたように、涼子もまた失恋の痛手から立ち直らなくては。
(胡蝶さんの弟さん、ですものね)
 駁本人に惹かれている、ということはない。ない筈だ。そこまで考えたとき、キスされた事実が急に思い出される。
「? どうしたの涼子ちゃん?」
 不意に黙り込んだと思ったら、顔を赤くしてしまったのだ。駁が心配するのも当然だ。
「なんでもありません!」
 斬り捨てるように言い放った涼子は、後の道行きは沈黙を通した。そんな涼子の気持ちをほぐそうと頑張る駁が、少しだけ可愛く見えた。


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