【外伝 嵯暁三姉妹】

「無理だ」
 恋人のつれない一言に、嵯暁さくらはむくれた。
「どういうことよ」
「今から説明する。聞いたらお前も納得するさ」
 葛葉壮一郎はソファに座り直し、向かいに座るさくらの目を見つめた。

 壮一郎とさくらは恋人同士だった。壮一郎が26歳。さくらが22歳。付き合いだして二年になる。
 壮一郎の職業は私立探偵だった(但し探偵というのは名ばかりで、実際は便利屋紛いの仕事ばかりだが)。
 プロボクシングのライセンスを持つ恋人のさくらが<地下闘艶場>という裏のリングに上がり、そこで偏ったレフェリングとセクハラを受けて敗北した。さくらも自分のことだけならまだ我慢もできたが、妹の紫苑、スミレまでも<地下闘艶場>に上げられ、自分以上のセクハラを受けたという。
 さくらは<地下闘艶場>を摘発し、解散させることはできないかと壮一郎に相談した。恋人の頼みでもあり、また自分の興味も沸いた壮一郎が調査を請け負ったのが一箇月前だ。

 今日はさくらの自宅へ報告に来た壮一郎だったが、その最初の言葉が「無理だ」だった。
「主催者がヤバい。下手を打とうものなら俺の命なんか一瞬で消される」
<地下闘艶場>の主催者は「御前」と呼ばれ、年齢・本名不詳ながら日本でも屈指の実力者だった。特に裏の世界では逆らう者もない。その権力、財力だけでなく、配下に人材を揃え、荒事専門の集団も持つという。広域暴力団ですら抗争を避けるのだから、一般市民が敵うような相手ではない。
 噂では、北海道に侵攻の足場を作ろうとしたロシアンマフィアと暗闘になり、銃器を所持していた集団を完膚なきまでに叩き潰したという。
「裏の世界を少しでも知ってたら、『御前』に手を出そうとする奴なんていない」
「・・・そう。そこまでの・・・」
 さくらにも「御前」がどれだけの人物なのか理解できたようだ。暗い表情で下を向き、両手の指を絡ませる。
 壮一郎はさくらの隣に座り、そっと肩を抱く。
「あのバッグだけで諦めてくれ。本当にヤバい相手なんだ」
<地下闘艶場>で嬲られたさくらを慰めるため、壮一郎はさくらの欲しがっていた高級ブランドのバッグを大枚をはたいて購入した。(おかげで暫くは塩にぎりの毎日だったが)
「でも、ありがとう。危ない橋を渡ったんじゃないの?」
「お前の頼みだ。幾らでも渡るさ」
「壮一郎・・・」
 さくらの眼が潤む。二人の距離が縮まり、唇が近づく。
 突然玄関の扉の開閉音がし、元気よい足音が応接間に飛び込んでくる。
「ただいまー! あ、そー兄こんちはー」
「スミレ! 挨拶はきちんとする!」
 さくらの妹で三女のスミレだった。キスを邪魔されたさくらは普段よりも硬い声音でスミレを怒る。
「壮一郎お兄様、今日はよくいらっしゃいました」
 打って変わって、スミレはまるで淑女のような挨拶をしてくる。スミレの夢は女優、しかもアクション女優を目指し、ヒーローショーのバイトをしている。今日もバイト帰りの筈だ。女優を目指しているだけあって、切り替えの速さにはいつも驚かされる。
「でもそー兄、今日は何の用?」
 スミレは長姉のさくらを「さー姉」、一つ上の姉の紫苑を「しー姉」、そして壮一郎を「そー兄」と呼ぶ。壮一郎をもう家族の一員と見てくれているのかもしれない。
「ああ、スミレちゃんの顔を見に来たんだ」
「だってさ、さー姉。浮気だよ浮気!」
「はいはい、いつでも持っていっていいわよ」
「だってさ、そー兄。現役女子高生とメイクラブしてみる?」
「やめとくよ。俺にはさくらが一番合ってる」
 この言葉にさくらの頬が桜色に染まる。
「あーもー、ごちそうさま! そうだ、今日は面白い子と友達になってさ、遥っていうんだけど・・・」
「スミレ。まずは手洗いとうがい」
 勢いよく喋っていたスミレを、さくらの低い声が遮る。
「了解しました!」
 さっと敬礼したスミレが、回れ右をする。応接間を出ようとしたスミレだったが、顔だけ振り向かせる。
「あ、キスの続きをどうぞ」
「スミレ!」
 さくらの怒声にわざとらしい悲鳴を上げ、スミレが逃げていく。
「まったく、父さんの悪いとこだけ受け継いじゃって」
「いい子じゃないか。明るくて、自分の夢に真っ直ぐで」
 三姉妹の母である聖羅(せいら)は既に亡くなり、冒険家である父親の嵯暁勢梧(せいご)は海外を飛び回っているため殆ど家にはいない。壮一郎も勢梧と顔を合わせたのは一度だけだ。人をからかうようなことをずばずば言う勢梧だったが、嫌味を感じさせないいい男だった。
「そういえば、紫苑ちゃんは?」
「今日は日舞のお稽古。そろそろ帰る時間・・・」
 丁度そのとき、控えめな扉の開閉音がし、応接間に優しげな顔をした女性が姿を現す。今しがた話題に出た紫苑だった。紫苑は壮一郎を認めると微笑を浮かべ、ふわりと礼をする。そのまま一言も発することなく応接間を出て行く。
 紫苑は極端に無口だった。何度も紫苑に会ったことのある壮一郎だが、まだその声を聞いたことがない。最初は嫌われているのかと思ったが、誰にでもそうだと言われて納得した。
「いつか紫苑ちゃんと会話できるのかな?」
「そうね・・・もう少し掛かるかもね」
 笑顔を見せるくらいだから、嫌われてはいない筈だ。そう言ってくれるさくらには悪いが、もう二年近くも顔を合わせてまだ会話の一つも交わしていないのはどうだろう。
(ま、いいか)
 紫苑からは避けられているような雰囲気もない。ここは恋人の言葉を素直に受け取っておこう。
 他愛のない会話を続けていると、部屋着に着替えた紫苑が応接間に姿を現す。お盆にティーポットとティーカップを載せ、静かにテーブルに置く。ティーポットから注がれたのは、湯気立つ紅茶だった。
「いい香りだ。ダージリンか?」
「ううん、アッサム」
 茶葉の解説をするのは当然のようにさくらだった。紫苑は黙ってにこにこと微笑んでいる。そこにシャワーを浴びたのか、濡れ髪をタオルで拭きながらスミレが入ってくる。
「あ、しー姉私のも!」
 紫苑は頷くと妹用のカップに紅茶を注いでやり、受け皿ごと手渡す。
 美しい女性三人に囲まれてお喋りをするのは、心地よいものだった。

 結局夕食までご馳走になった壮一郎は漸く腰を上げ、玄関に移動する。嵯暁三姉妹も揃って見送りに出てくれる。
 壮一郎は顎を掻いてから、さくらを誘う。
「ちょっと外に出ないか?」
「ええ、いいわよ。紫苑、スミレ、留守番お願いね」
「はいはーい。ごゆっくり〜」
 一言多い妹の頭を柔らかく叩き、紫苑が笑顔で送り出す。
 応接間に戻った紫苑とスミレはソファに座り、紫苑が入れ直した紅茶を飲む。
「さー姉とそー兄、お似合いだよね。いつ結婚するんだろ?」
 気の早い妹を優しく窘め、紫苑は静かにカップを手に持った。しかしその頭の中にはウェディングドレス姿の姉が浮かんでいたのだから、似たもの姉妹だった。

 壮一郎とさくら。夜道を二人、身を寄せ合って歩く。先に口を開いたのは壮一郎だった。
「悪かったな、役に立てなくて」
「何言ってるの。ただ働きさせて、私のほうこそごめん」
 さくらの謝罪に、壮一郎は一度顎を掻いた。
「それなんだけどな」
 咳をしてからさくらの耳元に口を寄せる。
「今から必要経費、というか報酬が欲しいんだ」
「今から?」
「ああ。部屋は取ってある」
 それだけで何を求めているかがわかったのだろう。さくらの頬が仄かに赤くなる。
「・・・そんなことで良ければ、いいよ」
「それじゃあ、前払いの分も貰っておこうか」
「ばか」
 恋人の脇を抓り、さくらは腕を絡めた。それが答えだった。


番外編 目次へ  【其の二】へ

TOPへ
inserted by FC2 system