幕間劇 其の七

「くっ・・・」
 全身に奔る痛みを堪え、王美眉はベッドから体を起こした。
(これしきの痛みなど、どうと言うことはない)
 先程の試合での激闘は、美眉に少なくない痛みと疲労を与えていた。それでも僅かに休んだことで、動ける程度には回復している。
「しかし元橋堅城、あれほどの達人だったか・・・」
 「御前」の持つ駒の中でも、最強と目されていた元橋堅城。最強とはいえ所詮は老人だろうとの侮りが、今の結果だった。
(いつまでも寝ている場合ではない。私の本当の目的は、これからだ)
 痛む体に鞭を入れ、ベッドから下りる。ベッドから離れると脚を肩幅に開いて腰を落とし、床と水平になるよう上げた両手、両腕を使って胸の前に円を作る。
「・・・すぅぅぅ・・・はぁぁぁ」
 特殊な呼吸法で全身から丹田に気を集め、大きな塊にしていく。丹田に熱さが充分に溜まった時点で、熱を纏った気を背骨を通して上昇させながら体の隅々にまで送る。熱い気が送られた箇所から痛みが和らいでいく。
「・・・よし」
 全ての痛みが無くなったわけではないが、闘いに支障はない。美眉は大きく深い呼吸を一つしてから、腰を上げた。
 一度全裸になってから汗を拭い、新しい下着を身に着け、用意していた黒いボディスーツに着替える。美眉は体を軽く解してからノブに手を掛けた。

 そっと部屋を抜け出て、廊下を静かに、素早く移動する。
 目的の部屋は目星がついている。会場から見えた一番高い位置にある部屋。
(待っていろ・・・)
 ようやく使命が果たせる。自分の人生の目標が達せられる。高揚感に高鳴る胸を宥め、階段を昇った。

(さて、ここからどう行けば・・・!?)
 突然放射された殺気の塊に、本能的に振り向く。
 野生の虎の前に、裸で飛び出してしまったかのようだった。しかも餓えきった巨虎の前に、だ。
「探しているのは、儂だろう?」
 その巨虎を思わせる気を纏った白髪の男が言葉を発した。
「貴様が・・・『御前』・・・」
 一族の仇。美眉が狙う唯一の首。似顔絵だけではわからない圧力が、美眉の足を震わせた。
(・・・違う、これは武者震いだ。恐れなどではない!)
 自らを叱咤し、軽く膝を曲げ、右足を僅かに引いて構えを取る。
 「御前」は両手を自然に垂らし、構えというものをまるで取っていない。一見すると隙だらけのようにみえるが、不用意に手を出せば一瞬で粉砕されてしまうだろう。美眉の知るどんな拳法にもない構えだった。否、自然体とも呼ばれる、構えとも呼べない構えだった。
 「御前」のこの姿は、強いて挙げれば柳生新陰流の「無形の位」に近いかもしれない。柳生新陰流は「構え」という固定される概念を嫌い、「構え」のことを「位」と言う。その中で、剣を握った手もだらりと下に垂らして相手に正対するものを「無形の位」と言った。
 もしくは、宮本武蔵の晩年の肖像画か。両手に握った剣を下に向けている姿に力みというものがまるでなく、無造作に立っているように見えて毛ほども隙がない
 相手にしてみれば、どのような反撃がくるのか予想がし難い。どの攻撃も当たりそうで、どの攻撃もかわされるのではないか。そんな矛盾した思いが脳裏を過ぎるのだ。
「どうした、儂を殺しに来たのだろう? 縮こまっていては、触れることすらできんぞ」
 挑発だとはわかっていたが、心よりも体が激発した。
「疾ッ!」
 踏み込みからの中段突き<崩拳>。
(!?)
 確かに捉えた筈なのに、柔らかな感触だけが残る。
「破ッ!」
 右足を膝を曲げないまま頭上高くまで振り上げる。次に来る筈の爪先への衝撃はなかった。
(ならば!)
 右足を下ろす動作を震脚に繋げ、肩での体当たり<靠>を放つ。これも柔らかな感触しか返って来ない。「御前」は和服の裾を翻らせ、距離を取っていた。
「やはり紅家拳、か。のう王美眉。否・・・『紅巾』の一族、呉美芳」
(!)
 秘めていた筈の本名を暴かれ、美眉、否、美芳の心に動揺が奔る。その心の揺らぎを「御前」ほどの達人が見逃す筈もなかった。
「おぐっ」
 鳩尾を正確に突かれ、一撃で動きが止まる。
「その無粋な衣装、脱ぎ捨てよ」
 「御前」に肩口を持たれ、黒いボディスーツを首から胸の谷間が出るまで破かれる。
(・・・ただでは、終わらん!)
 目測で「御前」の臍に親指を突き立てる。臍は腹筋に覆われておらず、そのまま内蔵に繋がる人体の急所だ。
「ぬっ!?」
 「御前」の驚きの声は聞き流し、更に押し込む。しかし、押し込むよりも速く肉の感触が去っていく。
「ふむ・・・やるのう」
 「御前」が笑みを見せる。野獣が笑みを浮かべたとしたら、このような表情になるのだろう。
(浅い、か)
 先程の感触から判断して、皮を裂いた程度か。
「しかし真紅の下着とは、えらく情熱的な色だな。『紅巾』の一族である以上、真紅を着けねばならんのか?」
 「御前」の揶揄に眉を顰める。
(ふざけたことを・・・だが)
「そんなに見たければ、見せてやる!」
 ボディスーツの一部を引き千切り、「御前」の顔目掛けて放る。その瞬間、爆発的な勁で床を蹴る。
 <箭疾歩>。
 特殊な歩法による飛び込みで、一瞬にして間合いを詰めて中段突きを叩き込む。美芳が幼い頃から練りに練り上げた技だった。この瞬間に賭けるため、元橋との闘いにも使用していない。
(?)
 一瞬で詰まる筈の「御前」との距離が、ゆっくりと縮まっていく。
(この感覚・・・)
 まるで一秒が一分に引き伸ばされたようだった。自分の筋肉の一本一本がどう動いているのかがわかる。どう動かせばいいのかがわかる。
 美芳の人生最高の箭疾歩だった。
(この一撃で、仇を獲る!)
 万感の想いを込め、拳を伸ばす。この拳が当たったとき、「紅巾」の一族の、否、先々代の首領だった祖父の仇を討てる!
 右腕に何かが触れた感触があった。「御前」を抉った筈の拳ではなく、腕に。
 自分が、宙を舞わされたことに気づいた。気づいたときには無防備な胴に連打が叩き込まれていた。かわすことも防ぐこともできず、全て自分の体で受け止めさせられる。
 空中で吹き飛び、壁で背中を強打する。呻く間もなく右肩から廊下に落下し、遅れて頭部もぶつける。
 「御前」の攻撃は、全て急所を打ち抜いていた。内臓まで貫く激痛に意識を失わなかったのは、日頃の鍛錬の成果とせめてもの意地だった。新たな痛みに誘発され、元橋から与えられた痛みまで目覚めて美芳を責める。
「さて、『紅巾』の狙いと本拠を教えて貰おうか」
 「御前」の問いに、美芳は痛みを堪えて首を振った。否、振ったつもりの首は鈍々としか動いてくれなかった。
「では、ゆっくりと訊かせて貰うとしよう。お前の心と身体にな」
 「御前」の冷たい笑みが、美芳に運命を悟らせた。


 【外伝 呉美芳】に続く


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