【三回戦第三試合】
 (元橋堅城 対 ジル・ジークムント・ヴァグナー)

 続く三回戦第三試合。暴嵐前の静けさのように、場内は奇妙にも小さなざわめきだけが支配していた。観客は大声を出すことが憚られるのか、隣席の者と声を潜めた会話を交わす。
「これより、三回戦第三試合を行います!」
 黒服の合図と共に、二人の強者がリングへと上がる。途端に、会場のざわめきすらぴたりと止んだ。
「赤コーナー、『最強老人』、元橋堅城!」
<地下闘艶場>最強と目される元橋は、今日も黒い道衣に身を包んでいた。大勝負の前だというのに、いつものように微笑を浮かべている。
「青コーナー、『シュバルツ・リッター』、ジル・ジークムント・ヴァグナー!」
 対するジルも悠然と、というよりも傲然と佇んでいる。今日もスーツ姿であったが、今は上着を脱ぎ、シャツの襟元を緩めている。
 いつしか両者の視線が絡まり、リング上で交わされる不可視の前哨戦によって熱波が荒れ狂う。
 この激戦必至の試合を試合を裁くのは三ツ原凱だった。両者に流れるようなボディチェックを行い、試合開始の合図を出す。

<カーン!>

 まるで死を告げる終末の鐘のように、ゴングの音が会場に響き渡った。
 体格差だけ見れば、まるで大人と子供の闘いだった。元橋の身長158cm。ジルの身長192cm。その差はなんと34cm。頭一つ違うどころではない。
 その二人の対峙に、空気までもが震える。リング近辺だけでなく、会場中の観客が直接胃袋を掴まれたような緊張感を味わっていた。
 まだ二人は動かない。永遠に続くかと思われた対峙も、片方が動くことで途切れた。
 先に仕掛けたのは、なんと元橋だった。ぬるり、とでも形容したくなるような動きでジルに迫る。
「ふん」
 しかしジルも反応していた。ジャブのスピードで元橋の襟を捕らえようとする。
「ふっ」
 その腕に、元橋の一本拳が突き刺さる。ほぼ同時に五箇所を突いていた。だがジルは左腕の軸を回転させることで、表面だけしか突かせなかった。
 軽い手合わせは、両者が離れることですぐに終わる。
「日本には蚊に刺されたような、という表現があるな。しかし血管まで届くことを思えば、蚊の攻撃のほうが上だ」
「やれやれ、西洋人というのは直接的な結果が出なければ満足しない。困ったものですなぁ」
 ジルの皮肉に、やれやれといった様子で元橋が首を振る。
「では、結果が出やすくして差し上げますかな」
 元橋は自然な調子で左腕をジルのほうに差し出す。
「・・・何の真似だ?」
「なに、掴みやすくしてさしあげようと思いまして」
 ジルの問いに、元橋はあくまでも柔和な表情で左腕を伸ばしたままだ。既にジルの間合いの中。しかしジルは元橋の手を掴もうとはせず、じっと元橋を観察している。
「どうしましたかな? 遠慮せずに、どうぞ」
 左腕を突き出したまま、元橋が更に前に出る。
「・・・ふっ」
 ジルは元橋の左腕ではなく、奥襟を狙った。
「ぐっ!?」
 しかし、元橋の左拳がジルの腹部を抉っていた。その拳を捕らえようと考えた瞬間には、もうそこに元橋は居ない。
「おやおや、折角差し出した手ではなく、襟を狙ってくるとは。老人の親切は受け入れるものですぞ」
 剽げた、その実挑発である元橋の物言いに、ジルの口が強く結ばれる。
「どうやら、死期を早めたいらしいらしいな。静かに寿命が尽きるのを待てばよいものを」
 怒気が闘気となって放出される。リング近くの観客は、自らが怒りを向けられたように感じ、胃と股間の物を縮み上がらせた。
「やれやれ、恐いですなぁ」
 そう言いながらも、元橋の顔にはまだ笑みがあった。笑みを浮かべたままの元橋がじわりと前に出る。
(どういうことだ?)
 おそらく、それに気づいているのは、対峙しているジルだけだった。元橋の体がぶれて見え、狙いが定まらない。
(フロイラインの仰る「東洋の神秘」か)
 ジルの格闘人生の中で、このような歩法には出会ったことがない。しかし迷いを抱くこともなく、横殴りの掌底を放つ。
 しかし、ジルが掌底を放った瞬間、元橋が一瞬でジルの懐に入り込んでいた。ジルの右膝の裏を蹴り上げると同時に、体軸を回転させながら右肘で腰を打つ。技への入り、掛け方、いずれも十二分の出来だった。
「ぬっ!」
 だが、宙を舞う筈のジルの体は、半回転してまだリングの上にあった。奥襟へと伸ばされたジルの左手を辛うじて掻い潜り、一本拳を突き刺す。しかしまたもジルは腕の回転で一本拳を弾き、致命傷は与えない。
 再び両者が別れた。もう元橋の顔にいつもの笑みはない。
(やれやれ。年を取って得た技もあるが、失った物も大きい)
 最盛期の元橋ならば、ジルのスピードを上回る動きができた。しかし老いて失った筋力が、今はもう嘗ての速度を生んではくれない。
(しかし、間合いを詰めないことには勝負にすらなりませんからなぁ)
 ジルとのリーチの差は如何ともしがたい。ジルの間合いで勝負を賭けても、撃墜されるのは目に見えている。
(本調子ならばどうだったか・・・いやいや、考えても詮無きことですな)
 闘いとは、試合の前から始まっている。体調がどうだなどと言うのは言い訳にしか過ぎない。呉美芳から受けた傷が完治していないことも、元橋の実力に含まれる。
 胸内に苦笑を浮かべ、それでも元橋は勝つための策を練った。
(さてさて、どう出ますかな)
 最初のように、罠をちらつかせて距離を詰めるか。二度目のように、特殊な歩法で距離を詰めるか。元橋の選択は後者だった。上体をぶらし、摺り足を使い、ジルへと一歩一歩近づいていく。
「同じ手が二度も通じると思うとは。嘗められたものだ!」
 ぶれて見えるというなら、全てを叩き落すまで。ジルの開かれた両掌が凄まじいスピードで乱打される。
「ぬぐっ!」
 ジルの右掌底が元橋の左肩を打ち、バランスを崩させる。
 元橋の歩法が破られた。元橋の技量を、ジルのスピードが上回った。
 無言のまま鋭い呼気を吐いたジルの左掌底が、低い弧を描き、元橋腹部へと吸い込まれる。
「ぐわはっ!」
 小柄な元橋の体が浮く。元橋をかち上げたジルの左手が、元橋の胴体の中央部を押さえ、腰を落とす勢いを乗せて落下する。
「ふっ!」
 元橋の左人差し指がジルの左上腕の内側、肘の裏に位置する尺沢(しゃくたく)を突く。
「痒いぞ!」
 元橋をリングに叩きつけたジルが、そのままの勢いで掌底を捻じ込む。
「ぐむぅっ!」
 元橋の苦鳴と共に、その口から鮮血が零れる。癒着しかけていた左胸骨が折れて内臓を傷つける。元橋が咳き込むたびに、二度、三度と血が溢れる。
「足掻くのはもう終わりか? ならば・・・」
 ジルの開かれた掌が、軽やかに掲げられる。まるで、命を刈り取る死神の鎌のように。
「死ね」
 冷たい呟きに、掌底の打撃音が重なった。

<カンカンカン!>

 その瞬間、ゴングが乱打された。静かに元橋から離れ、ゆっくりと立ち上がったジルは凱を横目で見た。しかしそれも束の間で、また元橋に視線を戻す。
「・・・しぶとい」
 ジルの殺気を乗せた一撃だったが、元橋は尺沢の裏を突くことで、僅かにではあるが打撃を逸らしていた。心臓ではなく、左脇腹へと。
 即座にリングへと担架が運び込まれ、元橋の下へと急ぐ。担架に乗せられる元橋をもう見ることもなく、ジルはリングを後にした。
 元橋を乗せた担架は、緊張を孕んだまま花道を下がっていく。
「元橋堅城が実力で負けた」。
 その信じ難い事実に、観客席のざわめきも収まることがなかった。


 三回戦第三試合 ジル・ジークムント・ヴァグナー
  準決勝進出決定


 花道を下がってきたジルを、真紅のドレス姿の魔少女が出迎えた。
「苦戦したわね」
 カミラの笑うような、しかしどこか冷たさを漂わせた言葉に、ジルはすっと頭を下げた。
「私が決勝に残ることができなくなった以上、貴方には優勝して貰わねばならない。わかるわね?」
「フロイラインの命は絶対。必ずや優勝致します」
 ジルの頭が更に深々と下がる。
「宜しくてよ。では、戻るとしましょうか」
 カミラが踵を返し、ジルもそれに従おうとする。
「・・・っ」
 しかしジルは僅かに眉を顰め、左腕を振った。
「どうかしたの?」
「・・・いえ、なんでもありません」
 ジルは首を振り、既に消えた微かな違和感をもう気にせず、主の後を付いて廊下を進んだ。


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