【エピローグ−3】

「貴様・・・!」
 予期せぬ痛みに呻いたのはジルだった。ジョーカーの右手が振られた瞬間、ジルの左手首の内側から鮮血が舞っていた。
「闘いに凶器を使うとは・・・恥を知れ!」
 左手首を押さえて叫んだジルに、ジョーカーは肩を竦めて見せた。

 河井丈は「御前」との約束どおり、敗北して三日後から、傷もまだ完全には癒えていないというのに毎日三十分、「御前」直々の稽古を受けていた。壊れる寸前の強烈な打撃を受け、何度も血反吐を吐いた。靱帯が損傷する寸前まで関節を伸ばされ、情けなく悲鳴を上げた。
 地獄の責め苦のほうがまだましだと思えるような稽古だったが、嬲られる久遠の姿が、それを見ているしかできなかった屈辱が、決して弱音を吐かせなかった。
 何度も感じた「死」の感触は、何年もの修練に勝った。まだ到底「御前」の域にまでは達しないものの、稽古前と後での実力は雲泥の差がついていた。

 そして今。あのときにはまるで見えなかったジルの攻撃を見切り、手刀の一撃を合わせて見せた。特殊な糸が縫い込まれた手袋は易々と皮膚を断ち、その下の血管までも切り裂いていた。ジルは切られた部分と上部の血管を押さえるが、それでも完全には出血が止まらない。
「おのれ、道化師風情が!」
 ジョーカーを睨みつける眼光は悪魔ですら避けそうな鋭さだったが、ジョーカーは小首を傾げるだけだ。その態度がまたジルの怒りを煽る。
 これこそがジョーカーのファイトスタイルだった。道化師のように無様に隙をつくり、或いは相手の怒りを煽り、自らのペースに持ち込んで翻弄する。しかも凶器を自在に操り、実力差を覆していくのだ。
「ジル!」
 臣下へと女王の声が飛ぶ。多くは語らない。しかし、その一言には二人にしか通じないものが込められていた。
「・・・カミラ様」
 ジルの跳ね上がっていた眉が元の位置に戻る。表情にも落ち着きが戻るものの、まだ血は止まらない。
「貴様ごときには丁度いいハンデだ」
 血の気を失い更に白さを増した白皙の美貌が、凄絶な笑みを浮かべる。対するジョーカーは肩の関節を鳴らすと、ジルの間合いぎりぎりで出入りを繰り返す。
「ふん」
 その蹴りは見切れなかった。長い脚がぶれたと見えた瞬間には、ジルの革靴を履いた横蹴りがジョーカーのどてっ腹を抉っていた。軽々と吹き飛ばされたジョーカーはコンクリートの床に落ち、腹部を押さえて転げ回る。
「立て。そこまで効いてはいないだろう」
 しかしジルは追い討ちには行かず、ジョーカーに立つよう促す。その声が届くとジョーカーの動きがぴたりと止まり、ヘッドスプリングで起き上がって見せる。
「道化とわかっていても腹が立つ」
 ジョーカーはジルの蹴りに合わせ、後方に自ら跳んで威力を殺していた。それに気づいているジルは、不快気に吐き捨てた。
 左手首を押さえたままで闘うには、蹴りを使うしかない。選択肢が少なければ、読むのも用意になる。それでもジルの蹴りは鋭さを失っていなかった。ジョーカーも全ての威力を殺せたわけではない。それでも平然とふるまうことで、ジルにダメージを悟らせない。
(・・・まずい、か)
 時が経つのに合わせ、ジルの左手首からは鮮血が滴り落ちる。血とは即ち命。血が流れるとは命が流れ出すのと同意だった。血を失うにつれ、ジルの動きが鈍くなっていく。
(だが!)
 ゆらり、とジョーカーが間合いを詰めてきた。指をぴんと伸ばした貫き手でジルの胸を狙う。
「おおおおおおっ!」
 ジルが咆えた。同時にジルの右前蹴りがジョーカーの腹部を抉る。咄嗟にガードしたジョーカーだったが、威力は殺せずに弾き飛ばされる。
「カミラ様が御望みだ・・・私は、カミラ様の剣! カミラ様が望むのならば、例え神であろうと幼子であろうと、剣を突き立てるのみ!」
 多量の出血に上体をふらつかせながらも、ジルはまだ倒れなかった。
 対するジョーカーは肩を竦めると、すたすたと無造作に距離を詰めていく。あまりにも普通に近寄ってくるジョーカーに、ジルは虚を衝かれていた。しかし、反射的に前蹴りを放とうとする。
 突然ジルの顎が跳ね上がる。
 ジョーカーの見事なサマーソルトキックだった。膝から崩れ折れたジルだったが、片膝立ちの状態で踏みとどまる。
 サマーソルトキックを披露したジョーカーが、足音もなくジルへと歩み寄る。ジルにできるのはジョーカーを睨み上げることだけだった。
 ジョーカーが、伸ばした右手を高々と上げた。死神が、命を刈る鎌を振り上げるように。

  (続く)


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