【前 本編第四十四話】

「おつかれさん、いい試合だったじゃないか」
「ありがとうございます」
 ジムのトレーナーの言葉に、素直に頷く。勝利の味は、試合で受けた痛みを忘れさせてくれる。
「それじゃさくら、今日のファイトマネーだ。ちょっと少ないがな」
「・・・ありがとうございます」
 さくらは受け取った封筒の薄さに落ちかけたため息を我慢し、会釈した。

 嵯暁(さぎょう)さくらは様々なバイトを掛け持ちしながら、女子プロボクシングのライセンスを取得した。ボクシングで頂点を獲りたい、その一心でバイトの合間を縫って練習に励んでいる。
 曲がりなりにもプロのリングで何戦かこなし、勝ち星を先行させている。しかし、ペーペーのボクサーの試合に巨額のファイトマネーなど支払われない。層の厚い男子でもそうなのに、女子の試合では更に少ない金額となる。
「は〜ぁあ・・・」
 母を早くに亡くし、父親は海外赴任、そして年頃の妹がまだ二人居る。さくらは幼い頃から姉と母役を兼務し、父親の滞りがちな仕送りで家計を遣り繰りしてきた。正式な就職をせずにボクシングにのめり込んだのも、無意識にストレス発散を求めていたのかもしれない。
 盛大にため息を吐きながら、ファー付きのダウンジャケットの前を合わせる。厚手のタイツを穿いているとはいえ、ミニスカートはやめておけばよかった。
「嵯暁さくらさん、勝利おめでとうございます」
 突然、目の前に花束が差し出された。
「ど、どうも」
 思わず反射的に受け取ってしまう。ピンクの花々に混じり、枝花が咲いている。
「いやぁ、今日の試合も格好良かったですよ。フリッカージャブで相手を焦らしておいて、飛び込んできたところを右ストレートのカウンター。見事なKO勝利に、花束を用意しちゃいました」
 夜だというのに、黒いスーツ姿の男はサングラスで目元を隠していた。一方的にまくし立ててから、一礼してくる。
「突然申し訳ありません、実は今日はお願いがありまして・・・」
「交際の申し込みならお断りよ」
 さくらの軽口に男が苦笑する。
「先に断られてしまいましたか。では、もう一つの用件を」
 どこまで本気の言葉なのか。男はまるで警戒心を起こさせず、さくらへと笑顔を向ける。
「実は私、裏の催し物のプロモーターでして。美しさと強さを兼ね備える嵯暁さくらさんに、異種格闘技戦に出場して頂きたいんです」
 あっさりと裏の事情に通じる者だと自己紹介され、さくらは困惑と少しの警戒をする。しかし、そういう裏の世界があることも承知している。ボクシングの興業に暴力団が絡むことはよくあることだと聞いているし、彼氏からそういう世界のことも聞き齧っている。
「どうでしょう、普通のボクシングの試合より興味深い相手を用意します。それに、ファイトマネーも今日の試合の何倍・・・いえ、もしかすると何十倍の額を用意できますが」
「ファイトマネー」という単語に、先程の封筒の薄さを思い出す。そして、バイトで得られる収入の低さも。
「・・・やります」
 承諾の決め手は、妹たちの顔だった。高額のファイトマネーを手に入れられれば、妹たちにも美味しいものをご馳走してやれる。
「ありがとうございます。では、後日改めて連絡させて頂きます。連絡先を教えて頂いても宜しいですか?」
「・・・ええ、わかりました」
 ここでも沸きかけた警戒心を無視し、男と携帯番号を交換する。
「それではさくらさん、また今度」
 男は静かに一礼すると、滑らかに踵を返した。そのまま夜の闇へと消えていく。
「・・・」
 もう男の顔が思い出せない。平凡な容貌は、ついさっき別れたというのに、思い出すのが困難なレベルだった。
「でも、また連絡があるでしょ」
 一つ頷き、さくらは花束を抱えたまま帰路へと着いた。今日はすぐ下の妹が料理をして待ってくれている筈だ。試合時間が合えば応援に来てくれるが、夕方ではOLをしている妹は就業時間と重なる。一番下の妹はバイト(の練習)で遅くなると言っていた。
 異種格闘技試合のことは黙っておこう。ファイトマネーを手に入れ、豪華なレストランにでも誘い、驚く二人にそのとき初めて教えてやろう。
「ふふっ、どんな顔するかな、紫苑とスミレ」
 そのときのことを思うと、さくらは自然と笑顔になっていた。

「さて、と。これで長姉は押さえた」
 小回り重視の小型の普通車。滑らかに乗り込んだ男はサングラスを外した。途端に鋭い目元が露わとなる。
 アマリリスとオシロイバナの花束に紛れ込ませた錦木(ニシキギ)の花。その花言葉は「あなたの魅力を心に刻む」、「危険な遊び」、そして「あなたの定め」。
「精々無様に負けてくれよ、さくら選手。妹さんたちもリングに上がって貰わなきゃいけないんだから」
 コインパーキングから車を出しながら、男は笑みを零した。もしさくらが見れば絶対に忘れなかったであろう、欲望に満ちた笑みを。


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