【序】

 熊野。
 紀伊半島南部に横たわる神々の山。熊野三山を繋ぐ熊野古道が世界遺産に登録されたことでも有名になった。
 密教の総本山・高野山も内包する熊野は太古の空気を濃密に残す聖域であり、山伏たちの神聖な修行場でもある。

 その山中を疾走する漆黒の孤影があった。ただひたすらに頂きを目指し、大木の間をすり抜け、小川を跳躍する。獣のような動きだったが、二本足で走る姿は紛れもなく人だった。黒色に染め上げた道衣を着込み、半ば闇に溶け込みながら走ることをやめない。
 男は下駄を履いていた。否、普通の下駄ではなく、よくよく見れば、歯が一本しかない一本下駄だった。幅が狭い歯で山肌を蹴り、次の一歩への推進力とする。

 自分が走っていることさえ忘れ、呼吸をしていることさえ忘れ、自分の存在すら希薄になっていく。男は、ただ山と共にあった。山の一部となり、山を駆ける。山との不思議な一体感と共に自分という個の存在がある。
 山との一体感に恍惚感を感じている己と、その状態を冷静に分析している己。二つの己が違和感なく存在していた。

 男の疾走が止まった。水流の源泉に跪き、掌で透き通った水を掬う。湧き出す清水で喉を潤し、口元を拭うと、再び疾走を開始する。

 不意に、坂が終わった。木漏れ日すらまれだった山中とは違い、そこは光で溢れていた。
 山頂、一本下駄を脱いで巨木の根元に腰を下ろし、男が座禅を組む。静かに鼻から大気を吸い込み、口から心身に溜まった俗世の澱みを吐き出す。常人が一生に貯めるほどの量の澱みが、男の口から放出されていく。しかし、幾ら男が膨大な量の澱みを吐き出そうとも、山の濃密な大気が容易く溶かし、消し去った。個人が溜められる澱みの量などたかが知れている。山にとって、人間一人が懐に入り込んで何をしようともまるで堪えもしないのだろう。
 暫く深呼吸を続けることで山の精気を丹田に溜め、呼吸の拍子に乗せて背骨を通して全身に送る。この「小周天の法」を行うことで、男の心身に山の精気が漲ってくる。
(今年も、故郷に帰って来れたか・・・)
 毎年、血みどろの戦いを生き抜いて山に登る。いつ倒れるともわからない修羅の道を男は歩み続けてきた。
 夕日が、男の顔を照らした。豊かな白髪と年齢を感じさせない鋭い眼。老人かとも思えるが、肌の張りがそれを否定する。しかし、重厚な雰囲気は若造が醸し出せるものでは決してない。
「御前」と呼ばれ、絶大な権力を握る者からも畏怖される謎の男だった。

***

 熊野から本拠に戻った「御前」は疲れも見せず、留守の間に溜まった仕事を精力的にこなしていた。書類に目を通し、矢継ぎ早に指示を出し、すぐに次の書類に移る。

「『御前』、少しお耳に入れたいことが」
「御前」の執務室に入室したのは、一番の古株である田芝だった。
「なんだ?」
「それが・・・」
 自分から話を切り出しておいて言いよどむ。田芝には珍しいことだった。
「先程、沢宮琴音が襲われました」
「沢宮(さわみや)琴音(ことね)」。「御前」が主催する裏の催し物<地下闘艶場>で、二度リングに上げられた美しき人妻だ。
「琴音本人は義妹の沢宮冬香(ふゆか)に救われて無事です。夫からの報復の線も考えられましたので、報告するかどうか迷いました」
 今まで田芝が不確実な報告をしたことはない。琴音を<地下闘艶場>に上がるように仕向けたのはその夫であり、今は離婚調停中だ。その夫が別居中の琴音を襲わせた、という可能性は確かに高い。
 しかし、田芝の懸念はそれ以外の場合だ。沢宮琴音が「御前」と関わりを持つと知りつつ「御前」の手を噛んできた者が居る、という事態。
「ふむ・・・」
 思考も一瞬だった。「御前」の決断は速かった。
「<地下闘艶場>出場者に護衛をつけよ。八岳琉璃にはつけなくて良い、将玄に警告するだけで充分な警護がつく」
 八岳(やたけ)琉璃(るり)の祖父は、世に名高い八岳グループ総帥・八岳(やたけ)将玄(しょうげん)だ。琉璃を守るためなら、最高級のSPを用意しかねない。
 それぞれの女性選手に誰をつけるかを指示し、それを伝えるために田芝が退出する。
「・・・きな臭い、な」
「御前」の呟きは、誰も居ない空間に消えた。


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