【藤嶋メイ】

 練習帰りの夜道、藤嶋(ふじしま)メイは尾けられていることに気づいた。気づいたのは空手道場を出てすぐ。歩く速度をそれとなく変えてみるが、足音の位置が変わらない。一定の距離を保っていることが明白だった。
(・・・面白い)
 メイの口元には薄い笑みが浮かんでいた。

 自宅への道を途中で折れ、目当ての場所に向かう。足音もしっかり付いてきていた。

 メイの目的地は、今は潰れて他に入り手もない工場の跡地だった。ここなら邪魔も入らないだろう。
「出てきなよ」
 メイの呼びかけに応じ、闇の中から人影が滲み出てくる。
「藤嶋メイだな」
 男の声での確認は、やはりメイ本人を狙ってきたという証明だった。
「人違い、ってことはなさそうだ。何の用?」
「恨みはないが、潰させて貰う」
 男が構えを取った途端、メイの背筋を冷気が撫でた。
(こいつ・・・)
 構えを見ただけでわかった。メイと男の彼我の実力差が。肩に担いでいた道衣を放り投げ、メイも構えを取る。例え敵わぬ相手だとしても、気迫で乗り越えてみせる!
「セイヤァァッ!」
 自らを鼓舞する気合いの声を上げ、全身の筋肉に力を込める。どこを打たれても、必ず反撃を叩き込む狙いだった。前に出ようとした瞬間、腹部に衝撃が、僅かに遅れて激痛が走る。
「ぐぁっ・・・がふっ」
 メイの気迫と腹筋を貫いた痛みは、練習中に受けた蹴りの比ではなかった。
「相も変わらず、日本人というのは特攻精神で生きているな」
 メイの腹部にめり込んだ爪先を一度下ろした男は、今度は膝を叩き込んだ。
「げっ、がはっ! うげぇぇっ!」
「空手など、大陸の拳法の真似事にしか過ぎん」
 男の侮蔑を聞かされながら、胃からせり上がった吐瀉物をぶちまける。堪えようと思っても、胃が、咽喉が痙攣して胃液と食物の残骸を吐き出す。
「とは言え、まさかこの程度に過ぎないとまでは思わなかったが」
 はっきりとした嘲笑に、奥歯を噛み締める。まだ痛みにのたうつ胃を無理やり気合いで抑えつけ、震える拳を握り込む。立ち上がって男を睨む。
「根性があるな。痛めつけられるためだけに立った、ということになるがな」
「抜かせぇっ!」
 挑発に容易く激してしまう。
 踏み込みからのローキックから中段突き、ハイキックから踵落とし、更に後ろ回し蹴りの連撃。悉くが空を切り、後ろ回し蹴りを放って生まれた隙に、背中越しの体当たりを受けて吹き飛ばされる。
「げほっ、ごほっ!」
 吐き出してしまった空気を吸おうとするが、廃工場に澱んでいた埃を吸い込んでしまい、咽る。
「まさか、もう終わりか?」
 男の嘲りに、握り締めた拳で床を叩き、崩れそうになる体に喝を入れる。
「そうそう、そうこなくてはな」
 男の手招きに、震える膝を叩いて立ち上がる。しかしそこまでが精一杯で、足が前に出ない。
「なんだ、動けないのか? なら、これでどうだ」
 無造作に距離を詰めた男が、メイの前に棒立ちになる。手を伸ばせば届く距離に。
(・・・どこまで、どこまで馬鹿にすれば済むんだ!)
 怒りが、体に残った力を掻き集めた。
「セェイッ!」
 右中段突きが男の鳩尾を正確に捉える。次の瞬間、メイの方が弾き飛ばされていた。
「痒いな」
 男が鼻で笑う。
 男はメイの突きの着弾の瞬間、腹筋を中心とした筋肉を収縮させ、その衝撃をメイに返していたのだ。
(・・・敵わない)
 技量は遠く及ばず、気合いで埋めることなどできない。心折れたメイの腹部に、再び男の蹴りが突き刺さる。
「ぐえええぇっ!」
 転がり、痛みを誤魔化すしかできない。
「まるで楽しめんな。ならば・・・お前の身体を楽しませて貰うとしよう」
 男は、メイのズボンと下着を素早く一緒に脱がしてしまう。ダボっとしたズボンは靴のところで引っ掛かることもなく、素直に足から抜かれる。下着は無理やり広げられ、同様に抜かれた。
「いただくとするか」
 男が自分のズボンを下ろし、メイに圧し掛かってくる。
(ああ、これから犯されるんだ)
 奇妙にも、冷静に判断できた。
「くくく・・・」
 含み笑いを洩らした男が、自分の下半身のモノをメイに擦りつけてくる。溢れる涎を拭う様は、先程までの闘士とは違うオスの顔だった。
(嫌だな、こんなこと)
 痛みと敗北感が現実から乖離させていく。そのとき、頭の片隅に響くものがあった。
『いいか、これは裏技だ。絶体絶命、自らの命が失われそうなときにだけ使用を許可する』
 道場の師範の言葉が脳裏を過ぎる。
(今なら、いいんじゃないかな)
 どこか他人事のように思い、伸ばした人差し指と中指を突き出す。
 指先から、硬めのゼリーのような感触が伝わってきた。絶叫し、目から血を流して仰け反る男の喉仏に一本拳を突き刺す。一度立ち上がり、地面で悶絶する男の顔に上から肘を打ち下ろす。軟骨を潰した感触が肘から伝わる。
「・・・」
 メイは無言のまま人形のように衣服の乱れを直し、道衣を拾ってから工場の跡地を後にした。痛みに呻く男を置き去りにして。

 男の傍らに、スニーカーを履いた中肉中背の人影が立った。
「あらら、俺の出番はなかったか」
 そう呟いた男の顔は、幾何学文様が描かれたマスクで覆われていた。
「しかも、ほとんどサービスシーンがないし。もうちょっとお色気サービスがあっても良かったんじゃないか?」
 勝手な感想を洩らした覆面男は、メイを襲った男の頚動脈を絞めて動きを止め、軽々と肩に担ぎ上げた。


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