【襲撃】

 まだ日も昇りきらぬ早朝、「御前」の姿が三十畳ほどの広さの稽古場にあった。黒い道衣の下衣だけを穿き、右膝を高く上げた姿勢のまま微動だにしない。
 否、よくよく目を凝らしてみれば、ほんの僅かではあるが一定の拍動で動きがあった。まるで蒼空にある大雲のように、気づけば形を変えている。それが楽なことではない証拠に、「御前」の全身に多量の汗が浮かんでいた。
「御前」の高く上げられていた膝が、じりじりと伸ばされていく。一分ほど経過したところで、「御前」の右足は天に向かって垂直に伸びていた。凄まじいまでの筋力と柔軟性を併せ持っていないとこんな芸当はできない。
 伸ばされたよりもまだ遅い動きで、右足がゆっくりと下りていく。膝が引きつけられ、床に両足がつくまでには五分という時間が掛けられていた。
 更に左足でも同様の動きを行い、「御前」は汗を拭くこともせずに両手を板張りの床についた。
「御前」が支えもなしで倒立する。腕、胴、脚が垂直に伸び、厚みのある綺麗な直線となっている。
 やがて、「御前」の足が天井に向かって伸び始めた。否、「御前」の掌が床から離れ、指だけで体重を支えていた。その分だけ足が天井に近づいたのだ。体重を支えていた指も、まずは小指が床から離れる。次に薬指も離れ、中指までも内側に折り曲げられた。両手の親指、人差し指の四本だけで自分の全体重を支えていた。
 だが、それだけでは終わらなかった。「御前」の肘が曲げられ、倒立したまま腕立て伏せを開始する。指四本だけで全体重を支えたまま。
 幾滴もの汗が、稽古場の床板に滴った。

***

 稽古の後で軽い朝食を取り、六種類の新聞に速読で素早く目を通していく。常に新鮮な情報を得ることは権力者にとって必須事項だ。頭に入れた情報を素早く取捨選択し、行動の指針に生かす。

 ノックが響き、部下の一人が入室してくる。
「『御前』、<地下闘艶場>出場者を襲った相手がわかりました。『紅巾』です」
 その名を聴いた「御前」の片眉が上がる。

「紅巾」。
 香港九龍城を根城としていた秘密結社。
 紅巾の一族は、男が生まれれば屈強な戦士として育て、女が生まれれば香港から出し、頑健な男の種を得させてまた引き戻した。もし逃亡者が出たときは一族総出で捕らえ、死よりも恐ろしい制裁を加えたという。また同族間での性行為を認めない代わりにあちこちから女を攫い、一族の血が濁らぬようにしていた。
 その成立は中国清王朝まで遡る。清の前王朝である明打倒に功があった明の有力武将たちは、中国南部に与えられた地で強大な勢力を張っていた。自分たちの権力が削がれそうになると、今度は清に対して「三藩の乱」と呼ばれる大反乱を起こした。しかし清の皇帝は巧みにこの反乱を収め、戦いに敗れた三藩の者たちの一部は香港へと逃れ、海賊や強盗などで生活の糧を得るようになった。
 九龍城が無法地帯と化した頃には勢力の一角を占め、不法行為で資金を得て勢力を拡大させていった。

「捕らえていた男の一人が吐きました」
 女性選手への攻撃はほぼ同時に発生し、何人かの男達を捕らえることに成功している。その内の一人が情報を吐いたと言う。
「ふむ・・・」
 何故か「御前」の顔に喜びはなかった。不審に近い色があった。
「男達の全てが『紅巾』の一族ではなく、金で雇われた者のようです。裏社会の者だけあって、口は固かったです」
 淡々と報告していた男だったが、ふと息を吐く。
「しかし今更『紅巾』とは。九龍城の取り壊しで消滅したと思っていたんですが」
「そこまで弱い者たちではなかった、ということだな」
「御前」の脳裏に、自らの命を狙った「紅巾」の女闘士・「呉美芳」の顔が浮かぶ。呉美芳は王美眉と名を偽り、「御前」が主催したトーナメントに参戦し、「御前」と相対した。
 王美眉を知っていても、呉美芳という本名を知らない者には、美芳が「紅巾」の一族だとは知らせていない。
(呉美芳・・・)
 美芳の硬質的な美貌が「御前」の脳裏に浮かぶ。

 突然、ノックもなしに男が飛び込んできた。
「襲撃です! 『御前』!」
 襲撃、という響きに、先に執務室に居た者が怒鳴る。
「護衛部隊は何をしてる!」
「<地下闘艶場>出場者の護衛にかなりの数が割かれました、本拠の防護は手薄です!」
<地下闘艶場>の女性出場者はかなりの数に上る。しかも一度襲われた女性選手のガードも外せない。もう一度襲われないとは限らないからだ。それぞれに手だれを付けるとなると、「御前」の周りを固める者が減るのは当然だった。
「戦力を分散させて本陣を叩く。有効な戦術だな」
 他人事のように「御前」が呟く。
「迎撃の指示は誰が執っている?」
「真崎さんです、御坂さんと無業さんは本拠に居ません!」
 ある一定以上の強さの者を女性選手のガードに回したため、御坂(みさか)竜司(りゅうじ)と無業(むごう)煉人(れんと)への負担が増大した。今も別任務で本拠を離れている。裏部隊の長と副隊長が居ない。偶然か、このときを狙ったのか。
「・・・偶然ではあるまいな」
 これだけの戦略を立てた相手だ。裏部隊の頭二人が居ないことも知っていると考えたほうが良いだろう。
 また一人の男が乱暴に扉を開ける。
「『御前』! 奴らサブマシンガンまで持ってます!」
「マシンガンでないだけましだと思え」
 うろたえた男に冷たい言葉を投げつけ、「御前」が立ち上がる。
 そのとき、のそりと入室した巨漢が居た。太い猪首の上に、引き攣れた傷が踊る異相が乗っている。首だけではなく、鍛え上げた筋肉で黒いTシャツを内側から膨れ上がらせた、恐るべき肉体の持ち主だった。しかもまるで足音をさせず、肉体の迫力と相まって肉食獣の歩みを思わせる。
「虎丸、どうした」
「御前」の呼びかけに、目礼した古池(こいけ)虎丸(とらまる)はぶ厚い樫の木製の扉をいとも簡単に外し、廊下へと出た。人の叫ぶ音に続き、耳に痛い甲高い着弾音が響く。
「奴ら、ここまで到達したようです!」
「ふむ、早かったな」
「『御前』、退去してください!」
 本拠の最奥まで攻め込まれるという事態に、普段は冷静な男の声も上ずり気味だ。
「仕方があるまいな」
「御前」が机の上に設置されたスイッチの一つを押すと、マイクが迫り出してくる。
「ここは放棄する。抵抗しつつ逃げ延び、儂からの指示を待て」
 素早く館内放送を打ち切り、隠し通路へのスイッチを押す。
「・・・」
 しかし開けた通路の奥を睨むだけで、踏み込もうとしない。
「『御前』!」
「ここはやめよ。儂の勘が警鐘を鳴らしておるのでな」
「しかしそれでは」
「敵中突破。関ヶ原の大戦で島津勢が行ったことの再現よ」
 思わず呆気に取られた部下たちだったが、すぐに気持ちを切り替え、お互い頷き合う。
「お供します」
「御前」の両脇を固める男達の顔に、悲壮な決意が宿っていた。
「好(よ)し。行くか」
「御前」の瞳には悲壮感などまるでなく、普段と変わらぬ足取りで廊下へと踏み出した。

***

「まさか、本拠が襲撃されるなんて・・・」
「戦略としては基本だろう」
 放送を聞き、廊下を疾走しているのは「御前」付きの鬼島(きじま)洋子(ようこ)とナスターシャ・ウォレンスキーだった。両者ともショートカットだが、洋子は黒髪、ナスターシャは銀髪だ。ハイヒールは脱ぎ捨てて裸足となり、タイトスカートが捲くれ上がるのも気にせずに全力で走る。
「まさか、貴女が・・・」
「さて、どうだかな」
 洋子の猜疑の眼差しを、ナスターシャは軽く受け流す。
 偶然近くに居た二人は「御前」の放送を聞き、共に脱出口目指して疾走している。全力疾走中でも、二人の声に震えはない。途中何度も受けた攻撃も振り切り、出口へと急ぐ。
 出口へと続く最後の角を曲がった瞬間だった。
「気をつけろ、ロープだ!」
 ナスターシャの警告に、勢いを落とさないまま二人揃ってロープを飛び越える。まだ空中にある中、何かが上から被せられた。そのまま床へと落ちる。二人の身を縛したものはもがけばもがくほど絡まり、動きを阻害する。
 まるで魚の如く、洋子とナスターシャは網に捕らわれた。

***

「・・・」
 包囲網を突破した「御前」の周囲に人は居なかった。「御前」の和服もあちこちが破れ、彼我の血に塗れている。ぐいと頬の血と汗を拭った「御前」の耳に、小さく鋭い鳥の叫びが届く。それを聞いた「御前」の口から、鳥の声に似た口笛が流れ出る。二、三のやり取りがあり、草むらから人影が現れる。
「ご無事で良かった」
 覗いた顔は、情報収集担当の真崎(まさき)零次(れいじ)だった。整った端整な顔立ちと人懐っこい性格を武器に、関係を持った女性は数多い。
「申し訳ありません、防衛もできず、最後は逃げ出すだけでした」
「構わん。儂の指示に従ったまでのことよ」
 頭を下げた真崎に「御前」は冷静に返す。
「わかりました、では逃走の準備をします」
 もうそれ以上は言い募ろうとせず、真崎は何処かへと消えた。その背を見つめる「御前」から、感情の色は読めなかった。

「『御前』、お待たせしました」
 真崎の用意した車は軽四トラックだった。「御前」が普段使用する高級車とは比較対象にもならない。
「昔を思い出すな」
 それでも「御前」は落胆するどころか、楽しげに車体を叩く。
「安く、頑丈。昔は良く乗り回したものだ」
「回想はその辺にして、こいつに着替えてください」
 真崎はご丁寧に作業着まで用意しており、「御前」も和服を脱ぎ捨て手早く着替える。帽子を深く被り、白髪を隠す。
「出ます」
「応」
 短い言葉の遣り取りに、エンジン音が重なる。
(さて、「紅巾」に通じたのは誰だ?)
「御前」の本拠地を知っていたこと、「御前」が居るときを狙っての襲撃のタイミング、複雑な構造の内部を迷いなく進んできたこと、などを考えたとき、裏切り者が存在したことは自明の理だった。隣で運転している真崎も、裏切り者でないとは言えないのだ。
(面白くなってきた)
「御前」の胸に浮かんだのは無念や失望ではなく、沸騰しそうなほどの血の滾りだった。


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