【言刃】

 横浜・中華街。異国情緒溢れる日本でも有数のチャイナタウンは、今日も観光客と売り子の熱気が渦巻いている。車の進入が禁止された通り沿いにはびっしりと店舗が軒を連ね、客を呼び込もうとひっきりなしに声を上げる。
 しかし、人通りが然程多くない路地もある。その奥、看板も出ていないビルの階段を登っていく人影がある。どこかの隠居を思わせる白の羽織り、鶯色の着流しに粋な濃紺の帯を締め、白足袋を履いた足で雪駄を律動的に動かし、楽々と階段を登っていく。
「誰だ」
 その前を塞ぐ人の壁が現れた。剥き出しの刃物のような殺気を隠そうともしない。
「連絡はした筈だが。それとも、儂の顔を忘れたか?」
 白髪の男の眼光が、人の壁を一舐めする。途端、壁が二つに割れ、奥の扉への通路となった。
「ご苦労」
 白髪の男は鷹揚に頷き、ぎらつく視線を受けながら、動揺も恐怖も微塵も感じさせずに奥へと進んだ。

 扉の奥は、外見とは裏腹に豪華な内装が施されていた。中国人が好む朱を基調とした内装で、一流の中華飯店と比べても遜色がない。
 中央の円卓に座しているふくよかな老人が一人。その後ろに、狐を思わせる壮年の男が控えている。二人ともゆったりとした中華風の礼服を纏っている。
「お久しぶりですな、徐老師」
 白髪の男が老人に向かい、胸の前に上げた右拳に左手を当てる。抱拳礼という礼をしたのは「御前」だった。
「久しいのぉ、"白獅子"よ」
 華僑のネットワークをもってしても「御前」の本名はわからず、「御前」などと敬称で呼ぶのも業腹なため、中華街では「御前」のことを"白獅子"と呼んでいた。
「"白獅子"などと呼ばす、陰で言っているように"鬼獅子"と呼んで貰っても構いませんぞ」
「戯れはよさんか。お前をそのような恐ろしい異名で呼ぶ者などおらんよ」
 徐老師は手を振って軽く否定する。こんな遣り取りなど前哨戦にも入らない。
 徐老師は「御前」に椅子を勧め、「御前」が座るとすぐにお茶が運ばれる。「御前」は小さな椀を持つと口元に近づけ、香りを味わう。
「ほう、台湾製ですか。香港製のものが用意されると思っていましたが」
「香港のものよりは台湾のものが好みでの」
 その裏が何を意味するか、両者共にわかっている筈。しかし、にこやかな表情と雰囲気は崩さず、お茶を味わう。
 ゆっくりと茶を干した「御前」が椀を卓に置く。
「開山見門、早速本題に入らせて頂きます」
「相変わらず日本人は忙しないの。それとも、身軽になったせいかの?」
「上に立つ気苦労から解放されると、これが殊の外快適でしてな」
 言葉の刃で互いを探り合う。先に仕掛けたのは「御前」だった。
「『紅巾』」
「そんな古い宗教を持ち出されても、なんとも答えられぬの」
「香港の、と付け加えれば思い出して頂けますかな」
「さてさて、我等にはわかりかねる」
 首を傾げる徐老師に、「御前」が笑みを見せる。
「それでは、思い出して頂けるように致しましょうか」
 そして、「御前」の口が一つの単語を吐き出した。
「『千万福来』」
「御前」が告げた単語に、徐老師の笑みが僅かに止まる。
「それに『金来楼』、『豆爺飯店』・・・」
「御前」が挙げた店の名前は、非合法の裏カジノが設置された店舗だった。いずれも莫大な利益を上げており、徐老師率いるグループの重要な金策源だった。もしここが警察に押さえられれば、徐老師には大きな痛手となる。
「噂によると、近々監察が入るらしいですな」
「噂話、のぉ」
「噂話に過ぎませぬが、な」
 徐老師の出方次第では、警察に情報が流れ、摘発が行われる。そう仕向ける。「御前」は暗にそう宣言してみせたのだ。
「好好、うっかりしておった。儂も噂話を聞いたのぉ。年を取ると忘れっぽくなっていかん」
 広い額をぺたぺたと叩き、徐老師は福々しい笑みを浮かべた。
「『紅巾』の教徒が崇める祠が、新宿のほうにあると聞くがの。特に大きな公園の周囲にな」
「噂話ですな」
「噂話に過ぎぬよ」
「噂話では、祠は公園の北側でしょうかな、それとも東か」
「さてさて、そこまでは噂に聞こえてこぬでな」
 それ以上詳しいことは自分で掴めと突き放し、徐老師はお茶を啜った。「御前」も新たに茶が注がれた椀を掴むとゆっくりと飲み干し、音もさせずに卓上に置く。
「今日は楽しい話ができました」
「御前」の世辞に、徐老師もふむふむと頷きで返す。
「それでは、これにて」
 滑らかに立ち上がってから完璧な抱拳礼をして見せ、「御前」は徐老師の前から去った。

「大老」
「御前」の姿が部屋から消え、徐老師の背後に控えていた、狐を思わせる男が徐老師に呼びかける。
「紐をつけますか」
「やめておくことだ。何も虎の尾を踏むこともあるまいて」
 男の尾行の提案だったが、徐老師はあっさりと却下した。
「『紅巾』と噛み合わせることができるのだ、その邪魔をすることもあるまいよ」
「申し訳ありません、出すぎたことを申しました」
 狐目の男は腕で水平な円をつくり、指を伸ばした両手を重ねる拱手の礼で深々と頭を下げた。
「中華街に乱をもたらす毒蛇を退治してくれる。それが猫であろうと虎であろうと、我らにとって好いものではないか」
 それに、あの男に貸しを作ることもできた。それが今後どんな利益を生むものであろうか。
 本心は露にも零さず、徐老師はお茶のおかわりを所望し、椅子に腰掛けたままゆったりと待った。


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