【A&A 其の一】   投稿者:小師様  推敲手伝い:事務員


 机の上の封筒をじっと眺め、思案顔の美女が居た。薄めの化粧に薄めのルージュが良く似合っている。

 「最近は日差しが強いのよね」

 美女の名は鬼島(きじま)洋子(ようこ)。「御前」付きの黒服女性の一人である。

 「そうだ・・・アレを使いましょう」

 洋子は一言呟くと、滑らかな動作で椅子から立ち上がった。ショートカットの黒髪がさらりと揺れる。

 「ちょっといいかしら。私は大切な用事があるから、代わりにこれを出してきて」

 洋子に突然手紙を突きつけられ、キーボードを叩いていた男は目を瞬かせた。

 「・・・自分ですか? ちょっと他の人に」
 「周りを見て。貴方以外に手が空いてる人がいるように見える?」
 「自分も手が空いてるわけではないんですが」
 「ちょっと手を止めて行ってきてくれると助かるの」
 「はぁ・・・でも手紙の投函なら、外出ついででも」

 どうにか断ろうとする男だったが、洋子の目が怜悧に冷えていくのに気づいて口を閉じる。

 「急ぎの仕事なの。それとも、文句があるということかしら?」
 「いや、そうじゃなくっ」
  (ビュッ!)
 「行ってきます!」

 洋子の拳をよけると同時に脱兎のごとく走り出したこの男は、<地下闘艶場>で働く事務員。洋子に中断させられるまではホームページの更新に勤しんでいた。

 「相変わらず人使いが荒いよな、洋子さん。絶対嫁の貰い手がないよ」

 本人の居ないところで(それでも小声で)くさしながら、手袋を嵌めた手で持った封筒を眺める。

 「にしても、手紙での招待状なんて久しぶりだなぁ。また綺麗な人がリングに上がるわけだけど、今度はどんな人なのかな」

 事務員がちょっと鼻の下を伸ばし気味で呟く。そんなだからパシられるのだ。

 「・・・うるさいよ」

 「御前」の本拠から一番近いポストではなく、三十分ほど車を走らせた場所のポストに手紙を投函すると、事務員は本拠へと舞い戻り、闘いの記録を映像から文章に興す作業を再開させたのだった。

*****

 授業が終わると、彼女は脇目も振らずに下校する。夕飯の支度のためだ。
 今日のメニューは、彼女が居候させてもらっている一家の親子が大好物のカレーにする予定だ。急いで帰ってじっくり煮込めば、美味しくならないわけがない。
 風が栗色の前髪を優しく掻き上げたとき、その美貌が露わになった。細く整えられた眉と切れ長の目。高い鼻梁から形の良い小鼻へと続き、その下には濡れたような瑞々しい唇がある。何故か眼の色が左右で違うが、大人びた美貌を損なうどころか一層魅力的なものへと変えている。
 自分へと向けられる視線になんの反応も返さず、ポニーテールに纏めた栗色の髪を揺らしながら、彼女は行きつけのスーパーへと急いだ。

 手早く買い物を終わらせ帰宅する。いつものようにポストを確認すると、父親宛ての封筒が入っていた。

 「ただいま戻りました。っと・・・社長、珍しいですね、こんな時間にいらっしゃるとは」

 リビングの革張りソファーに壮年の男性が腰掛けていた。
 彼女のわがままで社長と呼ばせてもらっているが、形の上では養父と言っても間違いではない。その養父であり、ある会社のトップでもある社長が日のあるうちに帰宅していた。そのことに少なからず驚く。

 「今日は早く仕事が終わったんでね」
 「そうでしたか。丁度よかったです、お手紙が届いていますよ」

 社長の表情に疲れを感じるのは彼女の穿ち過ぎだろうか。
 しかしそのことには触れず、彼女は社長に封筒を手渡した。宛名はあるが、それ以外は何も書かれていない封筒を。

 「・・・!」

 思い当たる節が有るのだろうか、表情が変わった社長が急ぎ開封する。

 「ああ・・・!」

 社長は背もたれに深くもたれかかり、何かを諦めたような表情で上を向き、深く深く息を吐く。
 しかし社長は勢いをつけてソファーから立ち上がると、外出の用意を始めた。

 「今日は帰らない。そう娘にも伝えておいてくれ」
 「はい、どちらへお出かけですか?」
 「故郷の友達からの手紙だったんだが、急に懐かしくなってね。久しぶりに二人で飲み明かすよ」
 「・・・わかりました、お気をつけて。行ってらっしゃいませ」

 おかしい、それなら先程の表情はなんだろうか。しかし直接聞くわけにもいかない。彼女はすぐに表情を笑顔に戻し、社長を見送った。
 不信感を胸に封じ込め、いつものようにメイド服に着替えると、すぐにカレーの準備に取り掛かった。今日よりもっと美味しいカレーを明日食べて貰えると信じて。
 しかし社長は翌日も翌々日も戻ることなく、このカレーを食べて貰うことはできなかった。

*****

 社長が家を出て数時間後、キッチンに白いブラウス、ミニスカートという夏物の制服を着た女の子が姿を見せる。
 細く整えられた眉、煌くような丸い目、ふっくらとした唇には艶がある。肩まで伸ばした髪をポニーテールに纏め、綺麗というよりも可愛らしさを感じさせる美少女だった。

 「ただいま〜」
 「おかえりなさいませ、お嬢様。部員でもないのに精の出ることで」

 この黒髪のお嬢様はたまに野球部に顔を出しては、部活動を引っ掻き回して・・・否、打撃投手を買って出ている。
 もともとプロ野球選手並みのお嬢様の才能を監督が惜しんで、たまに投げさせているのだそうだ。

 「それがね、今年はいいとこまで勝ち上がれそうなんだってさ。何か手伝いたくなっちゃって。普段より張り切って疲れちゃったよ、麦茶ちょうだ」
 「まず最初に手洗い、うがいをしてからです。毎日言っても覚えないんですか?」

 メイド服姿の少女が呆れたような表情で、綺麗な黒髪のお嬢様に小言を言う。それでも滑らかな動作で麦茶の用意をしているのは有能なメイドの証だ。

 「わかってるってば、もう・・・」

 メイドの小言にお嬢様が口を尖らせる。表情から不満が窺えるが、それを口にはしない。言葉にしたら笑顔で何をされるかわかったものじゃないことを、既に理解しているからだ。

 「今日は社長は帰らないそうです。なんでも旧友と飲み明かすとか」
 「ふーん・・・珍しい事もあるもんだね、あのお父上が友達と会うなんて。明日は槍が降るのかなぁ?」

 彼女の父親は仕事人間で、ほとんど家には居ない。基本的に帰ってくるのは夜遅く、出ていくのは朝早く。家を何日もあけることもザラにあった。普通の高校生の生活をしている彼女とは、顔を合わせることはほとんどなかった。

 会話が気を緩めてしまったのか、少女は自然にコップへと手を伸ばし、美味しそうに麦茶を飲んでいた。そこに、左目を光らせたメイドからの輝く笑みが向けられる。

 「槍より先に降るものがありますよ」
 「え?」
 「私の小言の雨です。先程手を洗ってうがいをしろ、と言いましたね?」
 「(まずい!)わ、わかってるよ、今行くから!」

 逃げるように洗面台に向かうお嬢様にため息をつくメイドだったが、急に思い出したようにキッチンから声をかける。

 「そうそう、お嬢様の洗濯物を部屋の机に置いておきましたから」
 「え゛、部屋に入ったの!?」
 「ええ、いい機会なのでキッチリ掃除しておきましたよ」
 「そ、そう・・・ありが」
 「まさかお嬢様にあのような趣味が有るとは。驚きました」
 「―――――――!?」

 キッチリ隠したはずだったのに。この女、侮れない。もっといい場所を探さなければ。その思いを見透かしたような一言が飛んできた。

 「もっといい隠し場所を見つけましたので、そこに置いておきました。必要なら頑張って見つけてくださいな」

 (ダメだ、勝てない)

 お嬢様はまたも思い知らされた。今の今まで、何においても、このメイドに勝ったことなど一度もなかったことを。

*****

 社長が戻らないまま何日か過ぎ、帰宅してポストを見ると、また似たような手紙が届いていた。前回と同じように宛名以外は何も書かれていないが、今度はお嬢様宛だった。

 「どうぞ、お嬢様。開けるのならお部屋でお願いします」

 今日は一緒に帰ってきたお嬢様にそのまま手紙を渡す。

 「もしかして・・・ラブレター、でしょうか?」
 「・・・絶対他人事だと思って楽しんでるよね」

 メイドの意地悪な笑顔を見て臍を曲げたお嬢様は、そのまま夕食まで自室に籠ってしまった。

 (お嬢様にも同じような手紙・・・嫌な予感がする)

 先程とは一転して険しい表情となったメイドは、それでも手際よく夕飯の支度を始めた。



 その日の夜。お嬢様は机の上に置いてある例の手紙を眺めていた。宛名はあるが差出人の名前はない。自室に籠った時に置いて、そのままにしてあった。

 (本当にラブレターだったら・・・なんかキモイなぁ)

 気が進まないままに開封する。しかし、内容はよくわからない物だった。

 「明日の十六時頃、お迎えに上がります」

 と、簡素な一文だけが書かれていた。
 首を傾げ考えるが、思い当たる節は一向に無い。

 (父さんの関係? いやいや、まさかね)

 手紙を封筒に戻し、布団に入る。沸き上がる不安を誤魔化し、頭まで布団をかぶる。

 (そういえば父さん、まだ帰ってきてないよね・・・やっぱり、手紙に関係があるのかな。ううん、仕事が忙しいに決まってる)

 どこか疲れた表情の父親が脳裏に浮かび、目を閉じてもなかなか眠気がやってこない。何度も寝返りを打ち、何度もため息をつき、ひたすら眠ろうと務めた。

*****

 日が傾きかけてもまだ蒸し暑い中を、夏用の制服に身を包んだ二人の少女が歩いていく。二人の間にはどこか固い空気がある。

 「お嬢様?」
 「・・・あ、な、何?」
 「先程から上の空のようですが」
 「そ、そう? 気のせいじゃない?」

 慌てて明後日の方向を見る黒髪の少女を、いつものように右側を歩いていた栗色の髪の少女が痛ましげに眺める。
 突然ブラックフィルムを張った車が背後から二人を追い越し、前方を塞ぐように停車する。中から黒いスーツを着た二人の女性が現れ、少女たちに近づいてくる。右側は黒髪の、左側は銀髪のショートカット。二人ともサングラスの上からでも見て取れる美貌の持ち主だった。
 薄くルージュの引かれた唇を開いたのは黒髪の女性黒服だった。

 「霧生(きりゅう)綾乃(あやの)さんですね」

 突然の問いかけに固まってしまった黒髪の少女を隠すように、栗色の髪の少女が前に出る。そのまま笑顔で尋ねた。

 「何か御用ですか?」
 「貴女にはお話はしていませんよ、真里谷(まりがやつ)暁子(あきこ)さん」
 「―――!」

 今までの彼女の経験上、この手の危ない輩共から声をかけられた時、霧生綾乃の名前を知っている人間は少なからず居たが、真里谷暁子の名前を知っている人間は皆無だった。

 (こちらの素性が全て掴まれている・・・!?)

 危険な予感が胸を塞ぐ。その焦燥を抑えるように、真里谷暁子と呼ばれた少女はすぐ近くの駐車場のコンクリート壁にもたれかかり、どこから取り出したのか、扇子を開いて扇ぎ出す。

 「!?」
 「!」

 一瞬とはいえ、黒服の二人ともが目を疑ったようだった。この夏の真っ盛り、着ているものは薄手のブラウスとミニスカート。となると、一見そのような物を隠す場所などありそうにない。ただし、二人の驚いた部分は全く違うようだった。

 (黒髪の方は手品に、銀髪は扇子に驚いたみたい。銀髪の方が危険度高め、と)

 長さ40cm程度の紫黒の扇子を仰ぎつつ、二人からは目を離さない。

 「霧生綾乃さんで間違いありませんね?」

 今度は銀髪の黒服女性が問いを放つ。しかし反応したのはまたも暁子だった。

 「人の名前を尋ねるのなら、まず名乗るのが普通ではありませんか? それがビジネスなら、尚更では?」

 黒髪の女性が納得したように頷く。

 「そうですね。私は鬼島洋子と申します」
 「・・・ナスターシャ・ウォレンスキーです。お見知りおきを」

 恭しく挨拶をした黒髪は鬼島洋子、銀髪はナスターシャ・ウォレンスキーと名乗る。

 「では、自己紹介も済んだところで今一度お尋ねします。霧生綾乃さんで間違いありませんね?」
 「は、はい・・・私ですが」

 洋子の更なる問いに、霧生綾乃と呼ばれた黒髪の少女がおどおどしながら答える。おそらく何もかもが突然すぎて頭が付いて行かないのだろう。左手でブラウスの右胸のあたりを握りしめている。それは極度の緊張を和らげるための綾乃の癖だった。

 「昨日の手紙に書いてあった通り、お迎えに上がりました。参りましょう」

 洋子が車へと誘う。しかし。

 「・・・誰の許可を得てそんな真似をするんです?」

 パチン、と扇子を閉じた暁子は再度綾乃の前に立ち、二人の黒服を睨みつける。しかし鋭気を逸らすかのように、洋子が微笑を浮かべる。

 「許可は霧生社長に頂きました。貴女にはお分かりだったのではありませんか? なんとなく、というレベルだったとしても」

 洋子の指摘に、暁子は目を逸らす。

 「そうなの、暁子?」
 「・・・ええ、まぁ。お嬢様だけでなく社長にも似たような手紙が届いていました。同じ封筒で、同じ字で書かれた宛名。しかも差出人が書いていないときたら、何かあると考えます」



 理由はそれだけではない。
 たまたま社長の部屋を掃除をしていた時、一枚の契約書が机から零れ落ちた。そこにはとある企業から高利で金を借りたことが記してあった。

 「社長・・・こんな高利で金を借りるとは・・・」

 呆れた。見た瞬間に返せないとわかる利息率だ。胸を塞ぐような不安を消しきれなかった暁子は、帰宅した社長に直接尋ねた。

 「社長、これはいったいどうしたのですか?」
 「ああ、新しい事業の展開をするための資本が欲しくてね」

 契約書を突きつけての問いが、拍子抜けするほどあっさりと認められた。

 「だからといってこの利息率は」
 「心配するな。今度の事業が成功すれば簡単に返せる額だ」
 「でも・・・!」

 更に言い募ろうとする。しかし。

 「それ以上は子供が口をはさむな。これは私の仕事だ」
 「・・・わかりました」

 そうまで言われては暁子も沈黙せざるを得なかった。



 (でも、これはお嬢様には言えない)

 おそらく、綾乃を迎えに来たのは社長の借金が原因だ。しかし今の精神状況の綾乃にそのことを伝えれば、如何に芯が強い綾乃と言えど倒れかねない。そんな衝撃は与えたくないし、もしそうなれば、綾乃を守ることが難しくなる。

 「ふうん・・・」

 洋子が左手を顎に添え、暁子を値踏みするように見据える。
 ナスターシャは暁子から目を離さず、警戒していることを隠そうともしない。数瞬の沈黙の後、ナスターシャが開いた掌を車へと向ける。

 「さ、どうぞお乗りください、綾乃さん。何しろ時間がありませんので」
 「・・・わかり」
 「日本語の微妙な表現は理解できませんか? 私の許可なく拉致なんてさせないって言ってるんですよ?」

 綾乃の言葉を遮った暁子は目を細める。それまでの暁子とは雰囲気が変わり、突如強く殺気を放出する。それに応じるかのように、サングラスを外したナスターシャからも殺気が迸り始める。

 「私の日本語は聞き取りづらいでしょうか? 時間がないから急いでくれ、と綾乃さんご本人にお願い致しましたが」

 言葉は丁寧だが、怒気が含まれているのが感じられる。

 「ナスターシャさん、あまり怒ると皺が増えて、ご主人に嫌われちゃいますよ?」

 暁子が言い終わるか終らないか、一気に距離を詰めたナスターシャがジャブを放つ。暁子は扇子を右逆手に握り、相手の拳に向けて振り下ろす。

 「!」

 所詮素人と侮っていたか、それとも別な何かに驚いたか、ナスターシャが拳を引き距離を取ろうとする。しかし素早く懐に入り込みつつ順手に持ち替えた扇子でナスターシャの左頬を張り、更に逆手に持ち替え右手を叩く。

 (浅い!)

 それぞれ目標は捉えたものの、ほとんど感触が残らない。

 (寸前で回避するなんて。この人、相当に手強い)

 唇を噛んだ暁子に、ナスターシャが手を差し出す。

 「へぇ・・・ただの玩具かと思っていたが、面白いな。よこせ。私の方が巧く使いこなせる」

 口調が変わったナスターシャを見遣る。

 「申し訳ありませんが、親の形見なので高いですよ?」
 「幾らだ? 言い値で買ってやるよ」
 「貴女なら、これにいくらの値段をつけますか?」


 暁子の実の親は、大きな障害を抱えた彼女に全く興味を持たず(それでも最初は周りの目を気にして子育てをしていたようだったが)離婚とほぼ同時に彼女を施設に預けてしまった。里親となる男性がたまたま暁子の事を気に入り引き取ってくれたのだが、その養父の開いていた道場で暁子は養父から直接武術を学んだ。剣術や柔術、棒術、忍術などの武術に始まり、礼法、料理、簡単なサバイバル術、果ては風水や築城術など、養父は日本の古武術を中心にありとあらゆる知識を彼女に叩き込んだ。厳しい修行ではあったが、暁子にとっては全てが新鮮であり、毎日が楽しかった。
 その養父も、暁子が小学校を卒業する直前に病気で急逝してしまう。病床で最後のプレゼントとして渡されたのが霧生家への紹介状と、この紫黒の鉄扇だった。


 暁子の遠回しの拒否が通じたのか、ナスターシャが唇の端を上げる。

 「あくまで拒むか。なら、力づくで貰おうか」

 前に出ようとしたナスターシャを洋子が止める。

 「ナスターシャ、あまり時間がないの。お遊びはそこまでにして」
 「・・・なら、後はお前がやれ。時間を浪費しないように、な」

 見る見る不機嫌となったナスターシャが洋子を睨み、そのまま暁子に背を向ける。サングラスを外した洋子もナスターシャの視線から目を逸らさない。
 その瞬間、暁子が動いていた。一気の突進から洋子の腹部に蹴りを放つ。

 「その程度・・・っ!?」

 暁子は蹴りを囮にし、洋子の眼前で鉄扇を開く。一瞬開いた鉄扇をすぐに閉じ、顔面に突きを放つと見せかけ鉄扇を縦に振るう。

 「くっ!」

 仰け反りながらも飛び退いた洋子だったが、ワイシャツの合わせ目とブラまで切られ、胸の谷間が覗く。ただの鉄扇ではなく、小さな刃が仕込まれていたのだ。洋子は切られた部分を左手で掴み、半身の状態で身構える。

 「あれを避けるんですね・・・でも、色っぽいですよ?」

 軽口を叩いたものの、二重三重の罠を張り、戦闘不能へと追い込む筈だった一撃を避けられたことに少なからず驚く。それでも内心は洩らさない。

 「口が上手いのね、嬉しくなるわ」

 言葉とは裏腹に洋子の目に怒りの色が宿る。それを煽るかのようにナスターシャが口を開く。

 「洋子、今なら代わってやるぞ」
 「余計な口を叩かないで。余計な手出しも無用よ」

 ナスターシャの冗談めかした提案を、洋子が振り向きもせずにぴしゃりと断る。

 「やるわね。先程の手品にその身のこなし、私の部下に欲しいくらいだわ」
 「心にもないことを・・・。でも光栄です」
 「謙遜かしら? いいわ、少しだけ・・・本気を出すわよ」

 僅かに目を細めた洋子が、胸元も隠さずにじわりと前に出る。途端に連打が始まった。その連打には隙あらば投げてやろうという意思が見え隠れしている。それなのに、一撃が速く重い。

 (・・・!)

 実力差があるとは感じていたが、ここまで差があるとは予想外だった。更にギアを上げた洋子の攻撃に暁子も必死に反応し、躱し、受け、叩き落とす。僅かづつだが対応が遅れていき、腕や脚などに被弾し始める。
 そして意識が受けに傾いた時を見計らったように、左手首を掴まれる。何とか引き剥がした瞬間、右頬を張られた。あまりの威力に意識が飛び、左膝をつく。唇を強く噛んた痛みで無理やり意識を覚醒させ、次の攻撃に備えようとする。しかし間に合わなかった。

 「しまっ―――」
 「暁子!!」

 綾乃の叫びも届かなかった。
 懐まで入り込まれ、左腕を抱え込まれた一本背負いで宙を舞う。そうと気づいたときにはアスファルトに背中から叩き付けられる。

 「がはっ!」

 痛みと衝撃が全身を駆け巡る。しかしそれでも大言壮語を放った以上、そう簡単には倒れられない。

 「・・・!」

 何事もなかったかのように立ち上がった暁子を見て、洋子の表情が曇る。下はアスファルト、一本背負いは完璧、しかも叩き付けるように投げ落としたのだ。立ち上がるのはたとえ男でも難しいであろう。

 「油断しました。柔道は怖いですね」

 軽口を叩き、暁子は左手でスカートやブラウスについた土埃をはたく。しかし右腕は反射的にとった受け身で痺れ、鉄扇は遠くに飛んでしまっていた。投げられた時に肩口を引っ張られたせいか、ブラウスのボタンが上から3つ飛んでいた。

 「まだ立ち上がるか、元気なもんだ。それに、お前の胸元も色っぽいじゃないか」
 「・・・」

 本当は暁子の状態に気づいているだろうに、ナスターシャが言葉で嬲ってくる。

 (今の状態で、どうお嬢様を守れば・・・)

 戦闘力はほぼ失われた。たとえ洋子を倒せたとしても、まだナスターシャが残っている。絶望的な状況に唇を噛む。

 「寝ていればそこで終わっていたのにね。でも・・・立った以上、まだ続けるわよ」

 一段と冷たい空気を纏った洋子が胸の谷間も露わに、細かい左右のステップで暁子の視界の中を往復する。

 (やっぱり、気づかれてる!)

 暁子は後天的に、極端に視界が狭かった。
 幼い頃、日常的になっていた親の口論を止めようと割って入ったときだった。父親が反射的に振るった手が暁子の右目に直撃したのだ。吸っていたタバコを持ったままで。それ以来、暁子の右目は光を失った。
 道場での厳しい修練で日常生活でも闘いでも支障がないようにしてきたが、それでも洋子ほどの実力者を相手にすると辛い。先程の右頬への一撃もそこを衝かれた結果だった。

 「さて、どちらで行こうかしら? 右かしら、それとも左?」

 洋子の緩く握られた拳がフェイントをかけてくる。

 (視界の狭さに気づいているのなら、左拳での攻撃がセオリー。でも、この人なら裏をかいてくるかも)

 痛みを意識の外に追い出し、静かに呼吸を整える。

 「正解は・・・これよ!」

 (やっぱり!)

 洋子の右拳が伸びてくる。捕らえて逆投げを打てば、逆転も不可能ではない。

 (掴んだ!)

 否、洋子の手首を掴んだ筈の手が空を切った。突然腹部で痛みが爆発する。

 「うぐうっ!」

 鳩尾に突き刺さったのは前蹴りだった。衝撃に崩れ落ち、四つん這いで無様に咳き込む。込み上げた吐き気は無理に飲み込んだ。

 「もう終わりかしら」
 「ゲホッ・・・まだまだ」

 腹を押さえ、咳き込みながらも強がる。しかしもう、すぐには立ち上がれそうになかった。

 「もういいよ・・・暁子」

 優しい、しかし意志の強さを感じさせる声がかけられる。綾乃だった。

 「そういう、わけには」
 「暁子、今日の夕飯はおいしい西京焼きが食べたいな。手に入らないかなぁ?」

 綾乃は一旦こうと決めたら完璧に論破されるまでは絶対に揺らがない。それは一番近い場所に居る暁子が、一番よく知っている。一番近い場所に居るから、彼女が何故こんなことを言うのか理解できてしまう。

 「さ、行きましょうナスターシャさん。その右手の傷が悪化する前に、ね」
 「・・・!?」

 ナスターシャが咄嗟に右手を確認する。刃物の切っ先がかすったような小さな切り傷があり、少し血がにじんでいる。見る見るうちにナスターシャの目が暗く鋭くなる。

 「これ以上時間を掛ける必要はなくなったわ。ナスターシャ、行くわよ」
 「・・・・・・」

 洋子の呼びかけにも、ナスターシャは右手の甲を見つめたまま動かない。小さく息を吐いた洋子は綾乃に顔を向ける。

 「では、参りましょうか」
 「・・・はい」

 綾乃は暁子を振り返ることもなく、自ら車へと向かっていく。

 「駄目です! 行っては駄目!」

 綾乃が洋子に導かれ、車内へと呑み込まれていく。膝立ちで追い縋ろうとする暁子の前をナスターシャが塞ぐ。

 「お嬢様!!・・・うぐぅっ!」

 それでも綾乃に追い縋ろうとしたところ、もう一度容赦ない蹴りを鳩尾に入れられ、髪を掴んで立たされる。

 「あんな玩具に傷をつけられるとはな。ついでだ、貴様も来い。地獄を見せてやる」

 ナスターシャは髪を掴んだまま、車へと連れて行く。

 「・・・ナスターシャ、時間がないの、遊んでないで。それとも、その丸太を『御前』に献上するのかしら?」
 「え・・・な!?」

 ナスターシャが掴んでいたのは、ブラウスとミニスカートを着た丸太がつけていたカツラだった。ゆるキャラがごとき少し崩れた可愛らしい顔が描かれているが、だからこそ相手を余計に苛つかせる<変わり身の術>だった。

 「ふざけやがって!!!」

 丸太を怒号とともに蹴りで粉砕すると、ナスターシャは鼻息荒く車に乗り込んだ。ちらりと駐車場のコンクリート壁と落ちている鉄扇へと視線をやったが、結局は乱暴に扉を閉めた。

*****

 いつしか日が落ち、残熱に包まれた辺りが闇に呑まれた頃。

 壁の奥から、栗色の髪が覗く。人気も黒い車も無いことを確認し、そこでようやく道路へとよろめき出る。
 街灯に照らされたその顔は、真里谷暁子に間違いなかった。魅惑的な肉体を隠しているのは本紫のブラとパンティだけだった。

 「ぐ・・・!」

 最後の鳩尾への蹴りを躱せなかったのは誤算だった。おかげで全身にうまく力が入らない。
 しかしいつまでもこの格好でいるわけにはいかない。震える手で落ちていた制服を身に着ける。

 (まだまだ未熟・・・! このような失態、あってはならないのに・・・!)

 自分が逃げるだけで精一杯だった。しかも自分の守るべき人を連れ去られてしまった。

 「く・・・っ・・・うう・・・」

 不甲斐なさに涙が溢れる。今すぐ車の消えた方向へと走り出したい。しかしそれは自己満足にしか過ぎない。行先がわかっていない以上、綾乃が無事に帰ってくることを祈るしかできないのだ。
 悔し涙を拭った暁子は形見の鉄扇を拾って鞄にしまい、腹を押さえながらゆっくりと歩を進め、闇の中へと消えて行った。

*****

 車の中で、綾乃は目隠しをされたまま聞かされていた。

 会社の借金の事。
 これから行く場所の事。
 何故そこに行かなければならないのか。
 そこで何をするのか。

 説明をするナスターシャの口調にはかなりの悪意が込められており、そして父親から呼ばれているとばかり思っていた綾乃にとっては驚愕の内容ばかりだった。

 「・・・でも、本当に拉致なんですね。暁子の言うとおりだったなぁ」

 独り言のように呟く。

 「拉致とはひどい言い方ですね。お迎えだと申し上げた筈ですが」

 返ってきたのは、もう何度も同じ遣り取りをしてきたと感じられる洋子の慣れた口調だった。

 「で、そのリングに無条件で立て、と?」
 「あとで契約書を読んで頂きますが、貴女が負ければ父君には体で借金を返済して頂き、勝てば借金を全て無かったことに、とのことです」

 言葉の意味はすぐに理解できた。父親のクビ、否、もしかすると命が賭かった試合。どうやって断ることができようか。心と体を震わせる中、不意に車が止まった。

 「着きました。お降りください」

 洋子に促されて車を降り、目隠しのまま控室へ案内される。控え室の中でようやく目隠しが外された。室内灯がやけに眩しい。

 「では契約書の確認を」

 その内容は普通の契約書だが、疑問を持つのもまた普通。十五分ほど遣り合って、ダウンした相手への攻撃は反則、という自分のスタイルを否定されるような項目の除去にだけは成功した。

 「では、時間が迫っておりますのでこの衣装に着替えてください」

 大きな紙袋を手渡され、洋子に促される。綾乃も意を決して着替えようとするが・・・。

 「あの・・・これだけですか?」
 「それが衣装ですが」
 「いえ、あの、足りなく」
 「先程の契約書にも『こちらの用意する衣装で試合をする』との項目もありましたが。早急に着替えないと、アップの時間が無くなってしまいますよ?」

 そう言い残し、洋子は控室を後にした。

 「えっ、ちょっ、待っ・・・!」

 声は洋子に届かず、部屋の中に反響するだけだった。

 「これだけを着て闘うなんて・・・」

 用意された衣装に目を落とし、綾乃は呆然と呟く。
 いくら説明されても実感がわかなかったが、体感するとすぐにわかるもの。僅かな時間の後、この卑猥な衣装で淫獄に赴かなければならない。
 今までの昇級戦や乱取、試合とは違う場所。緊張が増す。

 「覚悟を決めないと・・・暁子に笑われちゃう」

 口に出した途端、胸が苦しくなる。

 「暁子・・・」

 自分を是が非でも守ろうとした忠義の人の顔が浮かんでは消える。自然と右襟を握りしめる。

 「絶対・・・勝って帰るんだから・・・!」

 緊張を無理やり抑え、綾乃は柔軟体操を始めた。これから待つ舞台が、自分の想像を遥かに超える淫靡なものだと知らないままに。


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