【序章 同好会を創ろう!】


 蝶舞(ちょうぶ)市立北原(きたはら)高等学校、一年生のある教室。
 先程入学式と初めてのホームルームが終わり、教室の中は見知らぬもの同士が集う独特の緊張感に包まれている。男子は白いワイシャツに、濃紺のブレザーとズボン。女子は襟付きの白いブラウスに、濃紺のブレザーとタータンチェックのスカート、膝上まである紺色のハイソックスを身に着けている。その姿はどこかぎこちなく、新入生独特の初々しさが覗く。
 その中に、机を挟んで向かい合う二人の女子がいた。
「ねえねえ香夏子、お願いが」
「いや」
 遥の言葉を途中で遮り、香夏子はそっぽを向いた。
「ちょっと、聞きもしないでいやはないでしょー!」
「だって、どうせ『プロレス同好会創るから入って!』とか言うんでしょ?」
「……」
「ほら、図星」
「……香夏子って、実はエスパー?」
 ため息を一つ吐き、香夏子は遥に向き直った。
「あのね、何年の付き合いになると思ってるの? 遥みたいなプロレスバカが考えてることなんてお見通しなの」

 来狐(らいこ)遥(はるか)と鳥咲(とりさき)香夏子(かなこ)は小学校からの同級生だった。遥は小さい頃からプロレスが大好きで、男の子とよくプロレスごっこをして遊んだ。香夏子も一度ならずプロレス技の犠牲になったことがある。
 中学生三年生のときには本気でプロレス部を創ろうとして先生たちに猛反対され、高校受験も近づく中諦めざるを得なかった。
 しかし高校に入学し、先程のホームルームでメンバーを五名集めれば同好会として活動できると知った遥の行動は一つしかない。

「私、やらないからね」
「でも、入学したばっかりで友達少ないし。それに部員第一号は香夏子って決めてたんだ!」
「有難迷惑。それに同好会だったら部員じゃないじゃない」
「う……人の揚げ足取って楽しむのやめてよー」
 むくれた遥は長めの前髪をいじる。
 遥は前髪を二房に分けて垂らし、残りの髪はおかっぱくらいの長さに切っている。整った可愛らしい顔は、黙っていればナンパしてくる男も多い。プロレスラーを目指して体を鍛えているせいか、プロポーションも抜群だ。
「まあどっちでもいいけど、人集めたいんだったら男子に当たったら? 遥がウインクでもして誘えばほいほい入ってくれると思うよ」
「それを言うなら、香夏子がしてくれたほうが男子が集まるよ。香夏子可愛いもん」
 香夏子は髪を伸ばし、よくポニーテールにしている。目は大きめで、少し上がり気味の目尻が猫を思わせ、見る角度によって綺麗にも可愛くも見える。
(こういうことさらっと言うもんなー。男の子だったらどんなにモテてたことやら)
 香夏子はなぜか頬が赤らむのを感じ、意味もなく咳払いをする。
「でもさ、本気でプロレスが好きな人が入ってくれないと、プロレス同好会もすぐに潰れちゃうと思うんだ」
 そんな香夏子の様子には気づかず、遥は一人熱弁をふるう。
「へぇ、ちゃんと考えてたんだね」
「どうせ創るなら、ずっと続いて欲しいからね! ってことで、早速勧誘に行ってきます!」
 そう言うや否や勢いよく立ち上がり、クラスの男子に声を掛けまくる。その一生懸命な遥の姿に、香夏子は微笑を誘われていた。

 遥の誘いに乗り気な男子もいたが、全て遥の顔と胸を見てにやけた者だった。そんな相手には笑顔で握手を求め、下心と右手を握り潰していく。とうとう男子は全滅し、女子にも声を掛ける遥だったが、香夏子の予想通り話すら聞いてもらえなかった。
 とうとうクラス全員に声を掛け終わり、敗北感を漂わせた遥が香夏子の元に戻って来る。
「まあ、そうなるよね」
「うぅー……無念、バタッ」
 苦笑混じりの香夏子に、遥は机に突っ伏し、手足を投げ出す。しかしすぐに立ち上がり、拳を握る。
「まだまだ、他にもクラスはあるもん! 明日も頑張るぞ! ってことで帰ろう、香夏子」
「はいはい」
 この明るさにいつも引っ張られてしまう。遥のお喋りに付き合いながら、香夏子も家路についた。

「こんにちはーっ!」
 翌日の放課後、柔道場に遥の姿があった。手には柔道着がある。(北原高校では体育の授業で柔道がある)
「なんだ? うちの学校に女子部はないぞ」
 近くにいたごつい体型の上級生が、遥をじろじろと見る。
「違うんです、今日は勧誘させてもらおうと思って!」
「勧誘ぅ? 宗教なら他当たれ」
 上級生はうるさげにしっしっと手を振り、あからさまに遥を追い払おうとする。
「むー、違いますよ。私、プロレス同好会を創ろうと思って!」
「なら尚更他に行け。ここは柔道部だぞ」
「最後まで話を聞いてください! 私と誰かで試合してもらって、それに感動した人を引き抜こうって魂胆です!」
「引き抜きってお前……」
 呆れた表情で遥を見る上級生だったが、その肩に手を置く者がいた。
「まぁまぁ、いいじゃないスか主将。俺が相手します。さっさと終わらせて帰ってもらえばいいんスよ」
「そう言うがな、ヤス……」
「それじゃあ、お願いします! あ、更衣室借りますね!」
 遥はさっさと柔道場に上がると、素早く更衣室へと入って扉を閉めた。

 柔道着に着替えた遥が柔道場へ戻ると、ヤスと呼ばれた男子と主将が中央に立ち、他の者は壁際へと避けてスペースを作っている。
「それじゃあこのヤスが相手で、俺が審判をする。それでいいか?」
「いいですよ、じゃ、始めましょう!」
「やめるなら今だぞ」
「やめません!」
 苦い顔になった主将の合図でお互いに礼をし、構える。ヤスは遥より頭一つ高く、体重は二倍近くありそうだった。
「それじゃ、行くぜ」
 唇を舐めたヤスが一歩前に出る。
 素早い組手争いから、ヤスの右手が遥の柔道着を掴む、そう見えたが、
「わきゃ!?」
 ヤスが掴んだのは遥の胸だった。遥は慌てて振り払ったが、ヤスは謝るでもなくにやにやと笑っている。
「……ふーん、そういうことするんだ」
 遥の眼に危険な光が宿った。しつこく胸に伸ばされるヤスの手を払いながら、機を窺う。
 胸に向かって伸びてきたヤスの左手を逆に手繰りこみ、一瞬で脇固めに捕らえていた。
「ぐぁぁっ!」
 痛みに声をあげながらも、ヤスは前転で脇固めから逃れる。立ち上がった瞬間、遥のタックルでうつ伏せに倒された。
「効果!」
 主将のポイントを告げる声にも動きを止めず、遥はそのままヤスの足を持ち、アンクルホールドで足首を極める。
「んぎゃーっ!」
「おい待て! 反則だ!」
「あ、そっか。柔道じゃ足への関節技は反則だったっけ。ごめんごめん、忘れてた」
 舌を出して謝る遥に、主将の顔が恐くなる。
「女、警告だ! 二人とも戻れ!」
 主将の言葉に両者とも開始線に戻る。遥は楽しげに、ヤスは驚きの表情でお互いを見る。
(こいつ、素人じゃねぇ!)
 関節技やタックルは鋭く、二年生では五指に入るヤスでも反応が遅れた。と、遥がまたもタックルに来る。
「そう何度も喰うか!」
 タックルを切ろうと構えたヤスだったが、遥の動きは止まらず、ヤスの脇を抜け、背後をとる。
「しまっ……!」
「遅い!」
 遥はヤスの腰をクラッチすると、そのまま後方に投げ捨てる。プロレスで言うバックドロップだった。
「いっぽ……いや、技あり!」
 主将は真上に上げかけた手を止め、真横に伸ばす。その判定に、部員の中から不満の声が漏れる。
「ちぇー、一本じゃなかったか。でも、あと技あり一つで勝ちだよ!」
「ぬぐぉ……」
 後頭部をしたたかに打ったヤスが、よろよろと立ち上がる。
「これで決めるよ!」
 ヤスに走り寄った遥はその勢いで高く跳び、ヤスの顔を太ももで挟む。そのまま自分の後方へと上半身を回転させ、遠心力でヤスの頭を畳に叩きつける。高度なプロレス技、<フランケンシュタイナー>だった。頭から落とされたヤスはぴくぴくと震え、立ち上がる気配がなかった。
「……一本!」
「すげぇ……!」
 その光景に、誰からともなく拍手が起こり、柔道場が拍手で包まれる。
「どうですか! プロレスって凄いでしょ? 私と一緒にプロレスをしたいって人、手を上げてください!」
 しかし、その呼び掛けには視線を逸らしたり、わざとらしく隣の者と話したりと応える者はいなかった。
「プロレス同好会に入りませんか? 私と一緒に……」
「これだけ暴れて勧誘も終わったんだ。もういいだろう、帰りな」
 自分の勧誘に応える者もおらず、主将の言葉に追い出されるように、遥はしょんぼりと柔道場を出た。

「あの……」
 その小さい呼びかけに気づかず、遥はとぼとぼと歩く。
「あの……!」
 精一杯張ったと思われる細い声が、微かに遥の耳に届く。
「? なに?」
 振り返った遥の前に、ブレザー姿の華奢な男子がいた。
「えっと、その……」
 その言葉の続きを待つ遥だったが、男子の口はただ開け閉めを繰り返すだけだった。
「あのね、人を呼び止めといてその態度はないでしょ! はっきり言うこと言って!」
 遥の喝に驚き、男子は慌てて話し出す。
「ご、ごめん、僕、小峯。小峯(こみね)忠秋(ただあき)です」
「私、来狐遥。で、用はなに?」
「実は、プロレス同好会に入れてもらえないかと思って……」
「え、ホント!? でも、どうして?」
 遥の言葉に、小峯は下を向いて頬を掻く。決心がついたのか、力のこもった目線で遥の目を見る。
「僕、体弱くて。少しでも鍛えようと思って柔道部に体験入部したんだけど、最初の受身の練習で頭打って気絶しちゃって……やっぱり向いてないんだな、って思ったんだ」
 まだ痛むのか、小峯は後頭部を擦った。
「着替えて外でぼんやりしてたら、遥さんが来て凄い闘いをした。僕、遥さんの闘いに見入っちゃって。でも、あんな闘いをする自信はないから、それで、もし良かったら選手じゃなくて審判ってことで入れてくれないかな、プロレス同好会」
 一気に喋って息が切れたのか、小峯は何度か深呼吸する。
「うーん……」
 望んだ申し出の筈なのに、遥は首を傾げる。
「駄目、かな」
「じゃあ、一つだけ条件つけるね」
 遥は人差し指を立て、小峯を見る。
「なるべく練習に参加して体力つけること。審判も体力無いとできないからね。どう? それでもいいなら歓迎するよ!」
「……うん、そうだね、遥さんの言う通りだよ。これから宜しくね」
「こちらこそ! 宜しくね小峯くん! ようこそ、プロレス同好会へ! 私が第一号だから、君が二人目の会員だよ!」
 遥は右手を差し出し、小峯と柔らかく握手する。
「それじゃまた明日!」
 頬を染める小峯を残し、遥は走って駐輪場へと向かった。新しい同好会員ができたことを、少しでも早く直接香夏子に報告するために。
「あ、遥さん、ちょっと待って……」
 もう小峯の声も届かなかった。
「遥さん、柔道着のまま……ああ、行っちゃった」
 小峯のさし伸ばされた手が、夕日に虚しく映えていた。

「プロレス同好会とやらの募集をしているのは、こちらですか?」
 一時限目が終わった休み時間、そう言って教室に入ってくる男子がいた。眼鏡をかけ、痩せて猫背気味の長身をブレザーに包み、教室の中を見回す。なんの躊躇もなく他のクラスに踏み込んできた男子に、あちこちから好奇の視線が飛ばされる。
「あ、それ私。来狐遥。君は?」
 遥の問いかけに、長身の男子はぽん、と手を叩く。
「申し遅れました、ワタクシ木ノ上(きのうえ)大助(だいすけ)、と言います」
「木の上大好き? 変わった名前だね。お猿さんみたい」
「大好き、ではなく大助です。そうですか、貴方がプロレス同好会を立ち上げようとしているのですね」
 木ノ上は何度も頷き、忙しなく眼鏡をいじる。
「ところで、何の用?」
「おお、申し訳ない、肝心の内容を話していませんでしたね。ワタクシをプロレス同好会に入れてもらいたいのですよ」
「……へ?」
 目の前の男とプロレスが結びつかず、遥が目を白黒させる。
「ワタクシ、プロレスが大好きでしてね。近代日本プロレス開拓者の力道山から始まり、その弟子のジャイアント馬場、アントニオ猪木、彼らにヨーロビアンプロレスの血を注いだカール・ゴッチ、鉄人ルー・テーズ……」
「君、詳しいね! 凄いよ!」
 遥は目を輝かせ、興奮した口調で応じる。そのまま、木ノ上とプロレスについて熱く語り出してしまった。
「……プロレスバカとプロレスオタクが出会っちゃった」
 それを見た香夏子は頭を抱えていた。どれだけ面倒なことになるか、今からわかったからだ。
 遥と話し込んでいた木ノ上が、ふと壁掛け時計を見る。
「おっと、そろそろ休憩時間も終わりですね。で、どうですか? ワタクシを入れてもらえますか? ワタクシ虚弱体質なので、解説くらいしかできませんが」
「うーん……その体型じゃ確かに選手は無理っぽいね。でも、プロレスへの情熱は本物! 歓迎するよ! プロレス同好会へようこそ! これで三人目だ!」
「ふふふ、宜しくお願いしますよ。これからもプロレスについて語り合って行きましょう」
 木ノ上は眼鏡をいじりながら教室を出て行った。その猫背の後ろ姿を、遥は手を振って見送った。
「遥……いいの? あんなの入れて」
「あんなにプロレスについて詳しい人って中々いないよ! プロレス同好会にぴったりの人間じゃない!」
「それはそうかもしれないけど……」
 香夏子は生理的にあの手の男子が苦手だった。そのことが無意識のうちに言葉となっていた。
「よぉーっし、あと二人だよっ! 待ってろよコンチクショー!」
 でも、こんなに頑張っている遥を見ていると、遥には木ノ上が必要なんだと思い直す。
「……ファイト、遥」
 遥には聞こえないように呟き、香夏子は拳を握った。

 その日の昼食は屋上でとることになった。「天気もいいし、たまには良いじゃん!」という遥に引っ張られ、香夏子もお弁当を手に階段を昇る。
「相変わらずでっかい弁当箱ね。何人分入ってるの?」
「これくらい食べないとトレーニングに耐えられないんだよ。香夏子ももっと食べなきゃ!」
「いやよ、豚になっちゃう」
「それ、遠まわしに私が豚だって言ってない?」
 口を尖らせて屋上へ続く扉を開く遥だったが、屋上には先客がいた。スポーツ刈りの男子を、制服をだらしなく着崩した三人が取り囲んでいる。真上から照りつける太陽が、彼らの足元に濃い影をつくる。
「うわ、ヤバげな雰囲気……遥、戻ろ」
 小声で囁き、香夏子は遥の袖を引く。
「むー、一対三は卑怯だよ」
 しかし、遥は屋上の光景をじっと見つめて動かない。香夏子が全力で引っ張ったところで動くような遥でもない。仕方なく香夏子も成り行きを見ていると、三人組の一人が口を開けた。
「おい浩太、なんでここに呼び出されたかはわかってるよな!?」
「入学早々上級生に手を出すたぁやってくれるじゃねぇの!」
 浩太と呼ばれた男子は上級生三人に囲まれても怯えたような様子は見せず、垂らした手を軽く握り、堂々と立っている。
「ふん、下級生をカツアゲするような馬鹿をぶん殴っただけだよ」
「けっ、正義漢気取りかよ。なんにせよ、このまま帰れると思うなよ」
 浩太と上級生たちの間に緊張感が張り詰めていく。
 動いたのは同時だった。
「しっ!」
 浩太が目の前の上級生の顔面に拳を叩き込み、すぐに右側の上級生を蹴り飛ばす。
「てめぇっ!」
 しかし背中を蹴飛ばされ、体勢を崩したところを他の連中にも攻撃される。浩太の動きは悪くなかったが、相手が三人では分が悪い。囲まれて殴られ、蹴りを入れられる。
「待った! 下級生相手に三人がかりは卑怯だぞ!」
 その光景に遥は非難の声を上げていた。上級生たちに向かい、指を突きつける。
「は、遥……」
 香夏子が制止する間もなかった。既に喧嘩へと首を突っ込んだ遥の背中を見つめるだけだ。
「なんだ女、引っ込んでろ!」
 興奮に目を吊り上げた上級生の一人が近づいてくる。遥を突き飛ばそうとした瞬間、遥は弁当を持ったまま、自分の右手の指を相手の指に絡ませていた。そのまま右手だけで手首を極め、上から押さえつけるようにして潰していく。
「おっ……がぁぁぁっ!」
 膝をつかされた上級生が手首の痛みに吠える。
「たった一人を袋叩きだなんて……恥を知れっての!
 言うと同時に、スカートの翻りを気にも留めない膝蹴りを上級生の顎に叩き込む。たった一発で、上級生は戦闘不能になった。
「てめぇ、なにしやがる!」
「ふざけてんじゃねぇぞコラァッ!」
 突然乱入して仲間を倒した遥へと矛先を変えた残りの二人だったが、片方が浩太の肘打ちに倒れ込む。
「まだ終わってないのに余所見してるなよ、先輩」
 浩太は残りの一人に視線を突き刺し、不敵な笑みを浮かべて見せる。
「これで一対一だね、やっちゃえ!」
「ぐっ、クソがぁっ!」
 一人では浩太の敵ではなかった。殴り合いの末、浩太のアッパーが上級生の顎を捉えて決着がついた。

「ありがとよ、お前が注意を逸らしてくれたお陰でなんとかなったぜ」
 遥に眼を合わせ、浩太が礼を言う。顔中に怪我をしているが、気にした様子もない。
「いいんだよ、私ああいう連中嫌いだから。えっと……コータでよかったっけ? 私、来狐遥」
「浩太だ。川崎浩太」
 スポーツ刈りの浩太もフルネームを名乗る。
「じゃあ浩太、プロレス同好会に入って!」
 遥の突然の申し出に、浩太はまじまじと遥を見る。
「そうか……お前か、噂のプロレス女って」
「プロレス女って言われても……えへへ」
 なぜか遥は照れていた。
「そうだ、な。今回の借りもあるし、入ってもいいぜ」
 その答えに満面の笑みを浮かべた遥に、浩太は言葉を続ける。
「俺は見ての通り上級生から目をつけられてる。それに、バイトがあるから週に一回くらいしか練習に参加できない。それでも良ければ、いいぜ」
「ちょっと遥、止めときなさいよ。遥まで目をつけられるわよ」
 香夏子の小声の忠告も、遥には届かなかった。
「そういう事情ならしょうがないよね、でも絶対週一では来てよ?」
「……善処する」
 差し出された遥の右手を、浩太は軽く叩いて屋上から出て行った。
「んもー、握手って意味だったのに。浩太ってば照れ屋? まあいいや、香夏子、お弁当食べよっ!」
 遥は弁当箱を持ち上げて香夏子を誘う。
「こ、こんな状況で食べられるわけないでしょ! 教室戻るわよ、ほらっ!」
「ちょっと香夏子、引っ張らないでよ、お弁当が落ちちゃう……!」
 伸びた上級生を残し、遥と香夏子は教室へと逆戻りする羽目になった。

「ううっ、あと一人なのに……」
 あの屋上での一件から一週間が過ぎた。プロレス同好会の勧誘に走り回った遥だったが、柔道部や屋上での大暴れが(悪い意味で)評判となり、プロレス同好会に入ろうという人間は現れなかった。折角四人まで集まったというのに、最後の一人が集まらない。廊下の窓枠に顎を乗せ、遥はぼんやりと雲を眺めていた。
「……遥」
「香夏子!?」
 突然背後から親友に声を掛けられ、驚いて振り向く。
「そうだ、聞いてよ香夏子! あと一人がいないの、ここまで来たのに、後一歩なのに……!」
 遥の顔が歪む。悔しさと悲しさがないまぜになった、子供のような表情だ。
(こういう子なんだよね)
 最初に香夏子を誘い、断られたことでもう香夏子を誘ってくることはない。熱い気持ちを持ちながら、人の気持ちも大事にする遥らしい。
「……マネージャーってことなら、入ってもいいよ」
「え?」
 折角の決意の言葉だと言うのに、遥がきょとんとする。
「んもぅ、二度も言わせないでよ、恥ずかしい。プロレス同好会に入ってもいいよ、遥」
「だって、だって香夏子いやだって言ってたのに……」
「遥、ほんとに一生懸命だったからね。私、それに感動しちゃった。だから、ね」
 じわりと目に涙を溜め、遥は親友を見遣る。
「香夏子ぉーーーっ!」
「ちょっと遥、恥ずかしいから離れて……って痛いーーーっ! 馬鹿力で抱き締めるなプロレスバカーっ!」
 プロレス同好会に入ったことを早くも後悔した香夏子だった。

「……で、顧問の先生は誰になったの?」
 ようやく抱擁から逃れた香夏子は荒い息を吐く。
「こもん……?」
「遥、まさか顧問になってくれる先生探してないの?」
「……忘れてた」
 遥は頭を抱えた。プロレス同好会に入ってくれる人間を探すことに精一杯で、顧問にまで頭が回らなかったのだろう。
「しょうがないわね。とりあえず職員室行ってみようよ」
 香夏子はため息をつき、遥を引っ張って職員室へと向かう。内心、なぜ自分はここまでしているんだろうと疑問に思いながら。

「あら、来狐さんに鳥咲さん、どうしたの?」
 二人を呼び止めたのは担任の更科こよりだった。眼鏡をかけた優しげな顔つきで、肩まである髪をひっつめにしている。今年教師になったばかりだが、年齢以上の落ち着きでクラスを取りまとめている。
「探し物です、こより先生」
「あら、何を探してるの?」
「顧問です……」
「顧問?」
 二人の言うことがピンと来ないのか、こよりは人差し指を頬に当てる。
「あの、私プロレス同好会を創ろうと思って。それで人数は集まったんですけど、顧問の先生がいるってことコロッと忘れてたんです……」
「それで顧問を探してる、ってことね」
「はい、そうです。こより先生、顧問になってください」
「ちょ、ちょっと遥!」
 あまりの不躾なお願いに香夏子のほうが青くなる。しかし、こよりの反応は意外なものだった。
「私で良ければ顧問になってもいいですよ。でも、私プロレスってまったく知らないけど、それでもいい?」
「うーん、それは残念ですけど、背に腹は代えられません。宜しくお願いします!」
「遥、物には言い方ってものが……」
「ええ、宜しく来狐さん」
「こより先生もそんなあっさりと……」
 絶句する香夏子をよそに、こよりは机から書類を取り出して遥に渡す。
「じゃあ手続きは私がしてあげるから、必要書類に記入しておいて。ここにプロレス同好会って書いて、ここに活動内容、ここにメンバー全員のクラスとサイン。明日までにできる?」
「明日と言わず今日にでも! じゃあ早速行って来まーす!」
 書類を掴むや否や、遥は職員室を飛び出していった。香夏子は唖然としたままその後姿を見送った。
「……こより先生、なんでそんなあっさり顧問引き受けちゃったんですか? それに書類の準備とか随分手回しがいいし」
「ふふっ、鳥咲さんは鋭いわね」
 香夏子の目を見てこよりが微笑む。
「来狐さんがプロレス同好会を立ち上げるために頑張ってることは、職員室でも話題になってたの。私の受け持ちの生徒だし、もし顧問をお願いされたら受けようって、最初から考えてたのよ」
「だから書類も用意できてたんですね」
「そういうこと。でも、鳥咲さんも大変ね。来狐さんに振り回されてるように見えるわよ」
「小学校からこんな感じです」
 香夏子の答えに、こよりが笑う。
「素敵な友達ね。あそこまで一生懸命になれる子って最近少ないから尚更。鳥咲さんも、危なっかしくて見ていられなくて、つい手を貸してしまうのかしら」
「……お見通しですね」
「貴女たちより、少しだけ長生きしているからかな。と言っても、私も教師一年生だから大きなこと言えないんだけど」
 そう言ってこよりが舌を出す。この飾らない担任に、香夏子は改めて好意を抱いた。
「先生、サイン集めてきました! あとは香夏子だけだよ! ほら、早く書いて書いて!」
 戻ってきた遥の勢いの良さに、二人は顔を合わせて笑う。なぜ二人が笑っているのかわからず、遥は一人きょとんとしていた。


  目次へ   【第一章 ピュアフォックス誕生!】 へ

TOPへ
inserted by FC2 system