【第一章 ピュアフォックス誕生!】


 遥たちが住む蝶舞市のほぼ中心には蝶舞中央駅がある。中央駅から東北、東南、西北、西南に延びる四本の鉄道で、蝶舞市は四つに区切られている。
 市のほとんどが平地で川が多いためか、元々は農業で栄えた地域であったが、戦後の経済成長の波に乗って工業化が進み、今では中央駅近辺の官公庁区、南部の工場地区、西部と東部の商業地区、北部の農業地帯、そして各部の住宅地などが揃う地方都市となった。
 蝶舞市立北原高等学校、通称北校は蝶舞市の北部に位置している。その北高の一年生の教室で、来狐遥と鳥咲香夏子が向かい合って座っていた。
「ねえ香夏子、お願いが」
「いや」
 遥の言葉に、香夏子はそっぽを向いた。
「またすぐにそういうことを言うー。まだ私なにも言ってないじゃん」
「どうせコスチューム作れとかそういうことでしょ? 違う?」
「……ちょっと違う。マスク作って♪」
 小首を傾げながら、遥が両手を合わせてウインクする。
「プロレス同好会で試合するとき、覆面レスラーとして闘いたいんだ。私じゃ作れないし、店で頼むと物凄く高いの」
「あのねぇ、マスク作れって簡単に言うけど、デザインはどうすんの? 材料は? 私マスクなんて作ったことなんかないよ」
「う……そこをなんとか」
「ならない」
 香夏子はすっぱりと切り捨てた。手先の器用な香夏子だから、マスクだろうとコスチュームだろうと作ろうと思えば作れるだろうが、こうでも言わないと遥はしつこい。
「実はデザインは描いてきたんだ〜」
 そう言って、遥は鞄から一枚の紙を取り出した。
「じゃーん、苗字の来狐から狐をモチーフにしてみましたー!」
「へぇ、思ったより絵上手いんだね。見直した。材料になにを使うのかまでも書いてるのね」
 香夏子は遥の描いたデザインを見て素直に感心した。どうやら遥には画才があるらしい。
「これならマスク作ってくれる? お願い香夏子、今度『町のドーナツ屋さん』でドーナツ奢るから!」
「……アップルティーもつけて。それで手を打つわよ。でも、材料費はどうするの?」
「へ?」
 目をぱちくりさせる遥に、香夏子はずいと顔を近づける。
「ざ・い・りょ・う・ひ! 多分結構かかるよ、これ。私、材料費までは出さないからね」
「……うああ」
 買い食いなどで小遣いを散財する遥は頭を抱えた。
「そうだ、遥春休みバイトしてたでしょ、それ出しなさい。なるべく安く上げるから」
「えぇーっ、もう少し貯めてバーベルセット買おうと思ってたのにー!」
 香夏子の提案だったが、遥の反応は予想外だった。
(……もうちょっと女の子らしいもの買おうよ)
 遥らしいとは思うが、思わず脱力してしまう。
「んもう、バーベルセット欲しいならそれ買えばいいじゃない。嫌ならいいんだよ、私作らないから」
「い、嫌だなんて言ってないよ! お願い香夏子、ううん香夏子さま、このとおりー!」
 大袈裟に頭を下げる遥に、香夏子は小さくため息をつく。香夏子にしてみれば正直「町のドーナツ屋さん」のドーナツとアップルパイでは釣り合わないが、親友の頼みを断るのも心が痛む。
(結局こうなるのよね)
 ため息混じりに承諾する香夏子に遥が抱きつき、教室には痛みを訴える絶叫が響いた。

 その日の放課後は、プロレス同好会初めての練習だった。遥、香夏子、小峯、木ノ上に加え、顧問のこよりもいる。同好会員は全員体操服姿、こよりはジャージを着ている。出来たばかりの部に練習スペースなどなく、遥たちがいるのはグラウンドの隅っこだった。それでも、遥の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「では、記念すべきプロレス同好会の初練習を始めたいと思います! これから皆で一緒に頑張って行こうね! それでは、こより先生一言お願いします!」
 遥の突然の振りにも慌てず、こよりは一つ咳払いしてから口を開く。
「顧問の更科です。顧問なんて初めてだから要領もわかっていませんが、皆と一緒に一歩ずつ進んで行けたらいいな、と思っています。今日は川崎くんがいないのが寂しいですが、その分皆で一生懸命練習しましょう」
 こよりの挨拶に同好会員から拍手が送られる。その後一人ずつの自己紹介をしてから、遥の音頭で準備体操を始める。
「さあ、まずは手首と足首を回して〜」
 準備運動から嬉しそうな遥は、張り切って手足を動かしていく。上半身を後ろに反らしたときにおへそが見えてしまい、それに気づいた小峯が赤面する。
「それじゃ、準備運動終了! さ、まずは軽くランニング! 学校の周囲を走るよっ!」
「え……」
「し、死ねとおっしゃるか……」
 小峯と木ノ上が情けない声を上げる。学校の周囲とは言っても優に一キロメートル以上はある。運動が苦手な二人にとってはかなりの距離だった。
「ランニングは苦手なんだよね……」
「ワタクシ、虚弱体質だと言ったではありませんか」
「頑張って二人とも。今日は先生も一緒に走ってあげるから」
 優しく微笑むこよりだったが、遥の一言で笑顔が固まる。
「じゃあ男子は五周でいいよ! 先生と香夏子は三周で!」
「は、遥さん! ちょっとタイム!」
「ご、五周ですと!?」
「来狐さん、三周はさすがに・・・」
 慌てる皆にも、遥は笑顔で返す。
「あ、私は十周するけど、すぐに追いつくからねっ」
「ちょっと、遥飛ばしすぎ! 初日で嬉しいのはわかるけど、皆遥みたいな体力バカじゃないんだよ! あと、なんで私まで走らせるのよ! 私マネージャーだって言ったでしょ!」
 香夏子の忠告と文句に、遥は怪訝な表情を浮かべる。
「だって、学校の周りって一周一キロくらいでしょ? そんなんじゃ練習にならないよ? それにマネージャーも体力勝負のところがあるし」
「ああもう! だから、それは遥基準でしょ! 普通の高校生にはきついの! しかもこの二人に平均以下の体力しかないのは見てわかるでしょっ!」
「えっ・・・」
 心底驚いたらしい遥だったが、小峯と木ノ上の顔を見て、香夏子のほうが正しいと理解したようだ。
「……そうだね、ごめん、私浮かれてたみたい。今日は皆で一周しようか。うん、そうしよう!」
 無理にテンションを上げ、一番に駆け出す。その後を残りの面々がゆっくりと追いかける。
「来狐さん、プロレスが絡むと周りが見えなくなるのかしら」
「そうなんです先生。あれがいいところでもあるんだけど、今日は悪い方に出ちゃいました」
 香夏子とこよりは会話しながらランニングを始めたが、話す元気は最初だけだった。途中からは黙り込み、黙々と足を動かす。
 香夏子とこよりは汗だくで、男子二人は死にそうな顔でランニングを終える。結局全員が一周する間に遥は三周していた。
 その後もスクワット、腕立て伏せ、腹筋運動、背筋運動などを行い、最後は座ったまま足を開いた柔軟運動で締める。
「んもー、皆体硬いなぁ。そんなんじゃすぐ怪我しちゃうよ? ほら、小峯くん、もっと前に行かなきゃ!」
 百八十度近い開脚を披露した遥が、立ち上がって小峯の背中を押す。
「む、無理だよ遥さん、痛い痛い!」
「もうちょっと頑張って、ほら、後ちょっと!」
 遥は体を預けるようにして、小峯の背中をぐいぐいと押す。背中に柔らかい感触を感じた小峯は、痛みと恥ずかしさと気持ちよさで顔が真っ赤になってしまう。
(遥さん、いい匂い……それに柔らかくて気持ちよくて……あ!)
 固まってしまった小峯を諦め、遥は他の三人を狙う。小峯と同じように押さえられてはかなわないと、三人はさっと足を閉じた。
「むー……まあいいや。今日はここまでにします! 皆、お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした……」
 遥以外は疲れ切った声で返すとよろよろと立ち上がり、更衣室へと向かう。
「あれ、小峯くん帰らないの?」
「え!? いや、帰るよ、帰るけど、その……つ、疲れてまだ立てないんだ。そう、立てないの」
「そう? それじゃ待ってようか?」
「い、いや、困る・・・じゃない、大丈夫だから! 本当に! 待ってれば動けるから!」
 なぜか慌てて答えた小峯は、体育座りのまま皆を見送る。
(言えないよ、大きくなったから立てないだなんて……)
 自分の正直すぎる器官にため息をつき、夕日を眺める小峯だった。

『遥、でき……』
「すぐ行く!」
 マスクが完成したとの知らせに、休日遥は香夏子の家に押しかけた。突撃する勢いで香夏子の部屋に入るなり、マスクをねだる。
「まったく、ちょっとは落ち着きなさいよ。ほら、これ」
「おおおーっ」
 香夏子お手製のマスクを手にした遥は目を輝かせ、何度も引っくり返したり、繁々と見つめたりと落ち着かない。それを微笑みながら見ていた香夏子が、遥を促す。
「折角だからさ、着けて見せてよ」
 香夏子の求めにいそいそとマスクを被った遥は、見事にフィットするマスクに満面の笑みを浮かべる。狐の耳を思わせる突起をいじったり、鏡の前で何度も顔の向きを変えてアングルの変化を楽しみ、ひとしきり鏡を見終わると、椅子に腰掛ける。
「香夏子ありがとーっ! 想像以上にいい出来だよ! 後は……」
 両足をブラブラさせながら天井を見る。
「一つ問題があってさ、名前が決まらないんだ。覆面レスラーってリングネームがかっこいい人が多いじゃない? 名字が来狐だから『フォックス』はつけたいんだけど、それだけじゃ寂しいし」
「うーん、そうねえ……生粋のプロレスバカだから、ピュア、『ピュアフォックス』っていうのはどうかな?」
 ベッドに腰掛けたまま何気に失礼なことを言う香夏子だったが、それには気づかず遥は真剣に考え込む。
「『ピュアフォックス』……『ピュアフォックス』か。うん、いいねそれ! 『ピュアフォックス』に決定! ありがとう香夏子ー!」
 抱きついてくる遥を予想していた香夏子は素早くかわした。
「やめなさい! この間みたいに馬鹿力で絞められたら堪らないわよ!」
「うー、愛情表現なのに……あ、そうだ、もう一つ頼みがあるんだけど」
「だめ! ぜーーーったいに、だめ! コスチュームは作らないからね!」
「……エスパー香夏子」
 結局、コスチュームはレスリング用のタイツを購入することとなった。ごねる遥に、「夏休みバイトしてお金貯めたら考えてあげる」と言って逃げた香夏子だった。
(でも結局作る羽目になるんだろうな……)
 それが面倒臭くもあり、少しだけ楽しみでもあった。
「さ、それじゃ約束通り『町のドーナツ屋さん』でゴチになろうかな」
「そうだね、行こうか!」
 部屋の扉を開けようとする遥の肩を、香夏子が掴む。
「待ちなさい」
「なに?」
 怪訝な声音で遥が振り向く。
「マスクは脱いで行くの!」
「えぇーっ、いいじゃん、今日はこれ被っていたいの!」
 遥はマスクを押さえ、いやいやと首を振る。
「恥ずかしいでしょ! 脱ぎなさい!」
「私恥ずかしくなんかないよ?」
「私が恥ずかしいの! いいから脱げっ!」
「んもー、脱げだなんて、香夏子のH♪」
(こいつ舞い上がってやがる)
 それに気づいた香夏子は攻め方を変える。
「……ねえ遥。覆面レスラーって正体がばれちゃいけないんだよね?」
「うん、そうだね」
「じゃあさ、そのマスク被って私といたら、知ってる人が見たら遥だってばれちゃうよ?」
「あ、そっか! あの辺北高の生徒も多いもんね。うーん、しょうがないか。家に帰ってから被るよ」
 遥はこの言葉に納得してマスクを脱ぎ、丁寧に鞄に入れる。それを見た香夏子は、遥に気づかれないように安堵の息を吐いた。

 二人は「町のドーナツ屋さん」に移動し、お茶とお喋りを楽しんだ。しかし遥の食べ過ぎで、香夏子は代金の一部を払う羽目になった。
「遥! 自分の食べる分くらいはお金持っときなさいよ!」
「ギリギリ足りると思ったんだけどなぁ。嬉しくて食べ過ぎちゃったかも」
「『かも』じゃなくて実際食べ過ぎたんでしょうが! これじゃおごりでもなんでもないじゃない!」
「……ごめん、また今度おごるから」
「約束だからね!」
 何のために自分の時間を削ってまでマスク作りをしたのやら。怒りが込み上げてきた香夏子だったが、遥の本気でしょげた顔を見ると強く言えなくなった。
(私ってば遥に甘いのよね……損な性格)
 ため息が、自然と出ていた。


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