「来狐さん、異種交流戦の申し込みがあったんですが……」
珍しく歯切れの悪い口調のこよりだったが、それに遥が気づく筈もない。
「久しぶりの申し込みですね! どの部からですか?」
「部ではなく個人の申し込みなんです。二年生でラグビー部の大嶋くんです」
大嶋次郎。ラグビー部に所属している二年生だが、女生徒への振る舞いが下心丸出しで、職員室でも悪い意味で有名な男子だ。こよりの心配もそこにあった。
「ラグビー部なら耐久力あるし、少しくらい強めに技かけても大丈夫かな。こより先生、それ受けます!」
こよりの態度に最後まで気づかず、遥は大嶋の挑戦を受諾した。
異種交流戦は十日後の日曜日に決まった。
ボクシング部の部室には大勢の生徒が詰め掛け、部室の窓にも多くの生徒が張りついている。
まずラガーシャツを着た大嶋がリングに上がり、続けて香夏子お手製のコスチュームを身につけたピュアフォックスが上がる。最後にマイクを持った木ノ上が上がり、リングコールを行う。
「赤コーナー、ラグビー部……大嶋、次郎ぉーっ!」
対戦相手である大嶋の身長は百七十五cm、体重は百kgを超える巨漢だった。大嶋の目はピュアフォックスの全身を舐めるように見回し、特に胸元への視線が粘っこい。
「青コーナー、プロレス同好会……ピュアァ、フォックスゥーっ!」
新コスチュームのお披露目となった試合に、ピュアフォックスは普段以上に気合が入っていた。軽いストレッチで体をほぐし、それでも足りずに何度もジャンプする。そのたびにコスチュームに包まれた大きな胸が揺れ、大嶋と男子の視線が集中する。
レフェリーの小峯はリング中央に二人を呼び寄せ、注意事項と反則を伝える。さすがに三度目ともなると落ち着きが出て、一端のレフェリーのようだ。
「いいですね? では、ゴング!」
『カーン!』
ゴングと同時に、薄ら笑いを浮かべた大嶋が低い体勢で突進する。さすがラグビー部だけあってスピードが尋常ではなく、太ももを抱え込まれたピュアフォックスはリングに倒される。大嶋はフォールに入ると見せかけ、ピュアフォックスの胸に顔を埋めた。
「わきゃぁぁぁっ!」
これにはピュアフォックスも悲鳴を上げ、大嶋の頭をぽかぽかと殴る。しかし大嶋は鼻息を荒げてピュアフォックスをしっかりと抱きしめ、弾力あるバストの感触を味わう。
「ああもう、この変態!」
嫌悪感から素早い海老の動きで下がり、ロープまで逃れる。ピュアフォックスがロープを掴んだことで小峯がロープブレイクを命じるが、大嶋はまったく離れようとしない。
「反則ですよ! ワン! ツー! スリー! フォー!」
フォーカウントを数えられると、大嶋は渋々といった様子でピュアフォックスから離れた。
「これがしたくて申し込んできたんだね……」
怒りの表情で大嶋を睨むピュアフォックスだったが、空手部の幹田との試合で、頭に血が上った状態で闘ってもロクなことにならないと学んだ。
(冷静に、そして観客の皆を沸かせる「プロレス」をするんだ!)
プロレスとは、観客の心を掴んだ者が勝ちだ。例え試合に負けても、観客が沸けばレスラーとしては本望なのだ。
構え直したピュアフォックスに、大嶋がまたもタックルに来る。ピュアフォックスは跳び箱を跳ぶように、大嶋の背中に手を付いて飛び越す。
「ほら、それで終わりじゃないよね?」
大嶋を振り返り、挑戦的に笑う。わざと大嶋の間合いに入ると、大嶋はピュアフォックスを捕まえようと手を振り回す。
「ほら、惜しい惜しい!」
わざとぎりぎりでかわし、手招きして挑発すると、それを見た観客から笑いが起きる。
「くっそ、もうちょっと、なのに……!」
一旦息を入れた大嶋から、ピュアフォックスは一旦距離を取る。
「もう終わりにする? 今なら引き分けでもいいけど?」
人差し指を立て、軽く振ってやる。
「うがぁーーーっ!」
頭に血が上った大嶋がまたも突進してくる。ピュアフォックスの体が沈み、カニバサミでうつ伏せにダウンを奪う。素早く右足で大嶋の左足首を固め、右腕で大嶋の顔を引き絞るという「STO」に極める。
「あいててて! 痛いけど気持ちいい……いてーーーっ!」
首と足首を極めるSTOだが、大嶋の背中にはピュアフォックスの胸が押し付けられている。それに気づいたピュアフォックスは、さっさと終わらせようと思い切り締め上げる。大嶋は痛みを堪えて腕の力だけでロープまで這い、なんとかロープを掴む。
「ロープブレイク!」
小峯から指摘されたピュアフォックスは素直に技を外す。
「さ、これからどうするの? タックルはもう効かないよ?」
そう言われても、ラグビー部の大嶋としてはタックルくらいしか攻撃方法がない。雄叫びと共に両腕を広げ、猛然とダッシュする。
(どっちだ、飛ぶのか、下か!)
反射神経を研ぎ澄ませ、ピュアフォックスの動きを注視する。
(上か!)
伸び上がったピュアフォックスの肢体を捕まえたと思った瞬間、体が宙を浮いた。
「え? なんで?」
ピュアフォックスは飛ぶと見せかけて大嶋の下に潜り込み、首と太ももを持って自分の肩に抱え上げていた。
「でいやぁっ!」
そのまま大嶋の頭部をリングに叩きつける「デスバレーボム」を放つ。しかし曲がりなりにもラグビー部で鍛え、太い首を持つ大嶋は頭を押さえながら立ち上がった。
「も、もう一回あの柔らかさを……」
ブツブツと呟きながらピュアフォックスへと歩み寄る大嶋だったが、途中で膝をついてしまう。
「この、乙女の敵! 天誅ぅっ!」
その瞬間、大嶋の膝を踏み台にしたピュアフォックスの膝蹴りが大嶋の顎を捕らえる。「シャイニングウィザード」を食らった大嶋の頭部が跳ね上がり、仰向けに崩れ落ちた。ピュアフォックスは素早くその肩を押さえつけ、密着しないようにフォールに入る。
「ワン、ツー、スリー!」
『カンカンカン!』
スリーカウントを奪った瞬間、ピュアフォックスはコーナーポストへと駆け上がっていた。
「……だーっ!」
そのまま右手を突き上げたピュアフォックスに、観客から拍手が送られる。特に大嶋の行状を知っている女子生徒から大きな拍手が送られる。
コーナーポストから降りたピュアフォックスは、大嶋を睨みつける。
「起きろーっ!」
言うと同時に厚い胸板へ張り手をお見舞いしてやる。その衝撃に大嶋が跳ね起きた。
「な、なんだ!? ミサイル!?」
「大嶋先輩。今度こんなふざけた真似を私だけじゃなく、他の女の子にもしたら……お仕置きですよ?」
ピュアフォックスに睨まれると、大嶋は痛みを思い出したのか顎を押さえて後ずさる。
「わかりましたかっ!?」
「わかった、もうしない、絶対しない!」
「約束ですよ?」
「うん、約束する。だからもう勘弁してくれぇ!」
余程痛かったのか、大嶋は顎を押さえたままリングから逃げ出した。その逃げっぷりにはプロレス同好会のメンバーも、観客も思わず笑いを誘われていた。ピュアフォックスだけが、腰に手をやって大嶋の後ろ姿を睨みつけていた。
着替えを済ませた遥が控え室から出ると、香夏子、こよりが続く。部室の掃除を終えた男性陣は一足先に打ち上げ会場を確保しに行っている。戸締りを終え、ボクシング部の部室から出た遥たちの前に、一人の男子生徒がいた。
「あのさ……」
「あ、確か君バスケ部の!」
梅雨の体育館で、遥に「プロレスはやらせだ」と言って吊り上げられた中星だった。
「今日初めてプロレス同好会の試合見たんだ。正直、最初は冷やかし気分だったけど、凄かった。だから……」
「だから?」
「ごめん。やらせだなんて言って悪かった。何ヶ月も前のことだけど、謝るよ」
ちょこんと頭を下げる中星に、遥が慌てて駆け寄る。
「もういいよ、私もあの言葉があったから発奮できたってこともあるし。それじゃ、仲直りの握手」
「……っぎゃぁぁぁっ!」
突然中星が悲鳴を上げる。
「ごめーん、力入れすぎちゃった。試合終わったばっかりだからアドレナリンが残ってるのかな?」
「……絶対わざとだろ! ふざけるな!」
痛みに呻く中星を、香夏子とこよりが必死になだめる。
「ったく、折角応援してたのにさ」
右手を振っていた中星は、その手をじっと見つめた。
「でも、これくらいの握力がないとあれだけの試合もできないよな」
「そうなんだけど……ごめん、大人気なかったね。これからも応援よろしくね!」
「調子いいなぁ……まあいいや、それじゃ」
何ヶ月も溜め込んだモヤモヤを吐き出したからか、中星の顔はさっぱりしていた。走っていくその背中を見ながら、香夏子が遥を肘でつつく。
「あれって脈ありじゃないの? 遥、アタックしてみたら?」
「え、なんで? タイプじゃないよ。それに、『プロレスはやらせだ』なんて言った男子と付き合うなんて、ぜっっったいにありえない!」
「あ、そ……」
何ヶ月も前のことをまだ根に持っていたのかと、香夏子もあまりのことに呆れるしかなかった。こよりは、そんな二人のやり取りを微笑みながら見守っていた。