【第四章 ピュアフォックスの息抜き!】

 一か月以上あった筈の夏休みが早くも終わり、二学期が始まった。
 夏休みの間、遥は練習とバイトに明け暮れ、なんとか香夏子にコスチュームを作ってもらうことができた。白を基調としたデザインで、ラインを使って狐を描き、色っぽさよりも爽やかさを感じさせるものとなっている。
 早くお披露目したい遥だったが、そんなときほど異種交流戦の申し込みはなかった。

「……ふぅ」
 職員室の自分の席で、こよりは小さくため息をついていた。
 今日は二学期初日ということで、教師全員での職員会議が開かれた。そこで、プロレス同好会が議題に上ったのだ。
 今まで何度か話題にされてきたが、そのたびに異種対抗戦が危険だと主張し、問題視する教師がいた。また来狐遥のコスチューム姿が破廉恥ではないかとの意見が女性教師から出され、所詮はプロレスだろうという偏見で発言する教師もいた。
 最後は校長が「生徒の自主性を重んじる」という結論を出し、完全には納得しない教師はいながらもプロレス同好会の存続は認められた。
 校長の鶴の一声があったとしても、プロレス同好会顧問であるこよりには風当たりが強い。しかもこよりは新米教師であり、数の少ない女性教師だ。学校と言う特殊な閉鎖的空間では、世間よりも人間関係がどろどろとしてこじれやすい。こよりの憂鬱は簡単には晴れなかった。

 昼食も食べ終わった昼休み、教室でお喋りする遥と香夏子の姿があった。
「ねえねえ香夏子、今日の新聞見た!?」
「ああ、サッカー日本代表でしょ? 相変わらずの決定力不足よね」
「違う、そっちじゃない! インターハイのレスリング部門の優勝者!」
「……知らない」
「んもー、テレビでもやってたじゃない! 『今年もインターハイチャンプは美しき女神』って! 日本の女子レスリングってレベルが高いのに、その中で圧倒的な実力で三連覇したんだよ? 顔もアイドル並みだし、強くて綺麗って凄いよね!」
 目を輝かせてまくし立てる遥に、香夏子は冷静な一言を投げる。
「で、その人の名前は?」
「あれ、まだ言ってなかったっけ、『栗原美緒』さん! 私の憧れの人だよ!」
「……そう言えば、去年もそんなこと言ってたっけ」
 そんな二人の前に立つ人影があった。
「おう遥、ボーリング行こうぜ」
 珍しく遥たちのクラスに来て、出し抜けに言うのは浩太だった。今日も頬に傷があるのは喧嘩でもしたのだろうか。
「なに浩太、デートのお誘い? それはできない相談だなぁ」
「違うっつーの。なんで俺がお前とデートしなきゃならないんだよ。同好会のメンバーで行こうって意味だ」
「なになに、川崎くんが他人を誘うって珍しいね。どうしたの?」
 香夏子の問いかけに、浩太はポケットから何かを取り出す。
「実は駅前商店街の福引で、鉄塊ボーリングのチケットが当たったんだよ。十人分だからこより先生入れてもお釣りがくるぜ」
「お、浩太太っ腹! お礼にハグでもしてあげようか?」
 大袈裟に両手を広げる遥から、浩太が一歩下がる。
「……そのまま潰されそうだからやめとくわ。鳥咲なら歓迎だけどな」
「しないわよそんなこと」
「……わかってるよ、冗談を力一杯否定すんな」
 一瞬、浩太の表情が残念そうに見えたのは香夏子だけだろうか。
「じゃあ今度の土曜日、皆で行こうぜ。連絡頼むわ」
「今日の練習に出て自分で言いなよ。皆も喜ぶと思うよ?」
 遥の一言に、浩太は視線を彷徨わせる。
「うーん……練習頭だけでいいか? 今日のバイトは外せないんだ」
「いっつもバイトよね。たまには休めないの?」
「ああ。いろいろとあるんだよ」
 急に真剣になった浩太の表情に、二人はそれ以上追及できなかった。

 ボーリングは土曜日の昼からということになった。一度中央駅前に集合し、全員で鉄塊ボーリングへと移動する。
 中央駅は十年前に駅の高架工事が終わり、駅周辺の再開発も進んだ。主に学生向けの施設が増え、学生の姿も増えた。駅前商店街は学生客の取り込みを目指し、遊戯施設と持ちつ持たれつの関係を築いている。福引の賞品に鉄塊ボーリングのチケットがあったのもそのためだ。
 鉄塊ボーリングは土曜日ということもあり、ほとんどのレーンが埋まっていた。
「ペア組んで勝負しようぜ、なにか賭けてさ」
「川崎くん、賭けはだめよ」
 浩太の提案をこよりが嗜める。
「でもこより先生、こういうのは何か目的があった方が燃えるんだよ」
「学生だから賭けはだめ。でも、そうね……優勝チームは負けたチームから祝ってもらえる、ということならいいでしょう」
 結局は同じことなのだが、こよりの教師としての立場ではこういう言い方になってしまう。
「よっしゃ、それで行こう! 二位と三位のチームは優勝したチームに二次会を奢る、ってことでどうだ?」
「では、ボーリングの後はカラオケなどどうですかな? 定番ではありますが。そこの支払いを負けたチームが持つということで」
「じゃ、勝敗は各ペア一ゲームの合計得点でどう?」
「決まりだな。せっかく男子と女子が三人ずつだから、男女でペア組もうぜ。ちょっと待ってろ、クジつくるから」
 抽選の結果、遥と木ノ上、香夏子と小峯、こよりと浩太がペアとなった。
「ふっふっふ、負っけないよ〜!」「ワタクシ、ボーリングはあまりしたことないのですが……」
「頑張ろうね、小峯くん! 遥たちには絶対勝つわよ!」「う、うん、香夏子さん」
「ボーリングなんて久しぶり。腕が鳴るわね」「お、こより先生自信ありげだな。こいつは優勝間違いないぜ」
 それぞれのペアが牽制し合い、火花を散らした。

 ゲームは序盤から香夏子・小峯ペアと、こより・浩太ペアの一騎打ちとなった。遥・木ノ上ペアは木ノ上が足を引っ張り、遥の頑張りも及ばず早々に脱落した。
 上位二チームは接戦を続け、勝負は最終フレームまでもつれ込んだ。小峯が最終フレームにダブル+九本を倒し、こより・浩太ペアに十八点差をつける。浩太はなんとかスペアを取り、最後の一投で九本以上倒せば優勝というところまで漕ぎつけた。
「川崎くん、ここまで来たら優勝しましょう」
「わかってるよこより先生、まかしとけって!」
 大きく深呼吸した浩太が投球に入る。その一投は見事なカーブを描いてピンを薙ぎ倒す。残ったピンは……0本。
「うっしゃー! 優勝もらったーっ!」
 両手を突き上げて吠えた浩太は、そのままこよりに抱きついた。
「やったぜこより先生! 俺たち優勝だぜ!」
「ちょ、ちょっと川崎くん、離れなさい、皆見てるでしょ!」
「え……こより先生、それって見てないところならいいってこと?」
「ち、違います、それは言葉の綾で……」
 香夏子の追及に、こよりが珍しくあたふたとなった。浩太は遥に首根っこを掴まれ、こよりから引き離される。
「浩太……セクハラだよ?」
「いや、違う、そういうつもりじゃなかったんだ! 嬉しすぎてつい抱きついちまったんだって!」
「ドサクサ紛れとは、川崎君も油断なりませんな」
「浩太くん……わざとじゃないよね?」
「川崎くん、教師と一線越えたら駄目よ」
「……お前ら、後で覚えてろよ」
 他のメンバーからも突っ込まれ、負け惜しみの声も小さかった。

 二次会は駅近くのカラオケボックス「スパイク」ですることになった。浩太は店員を見つけ、気軽に声を掛ける。
「てっさん! 部屋空いてる?」
「お、浩太か。今なら空いてるよ、何人だ?」
 てっさんと呼ばれた店員は親しげな笑みで浩太に応える。幾つかのやりとりの後、他の店員がメンバーを部屋に案内する。
「川崎くん、一緒に行かないの?」
「ああ、後で行くよ、ちょっとてっさんと話があるんだ」
 どう見ても十歳以上は年の離れているてっさんと対等に会話している浩太。その交友関係の広さを香夏子は不思議に思いつつも、遥に急かされ後を追った。

 部屋に落ち着いたメンバーたちは、歌のカタログやメニューを見ながらの雑談となった。そこへ浩太も合流し、本格的に歌う雰囲気となる。
「二時間の飲み放題でいいよな、先に飲み物頼んでくれ」
 浩太が内線で飲み物を注文する。
 しばらくして、店員が持ってきた飲み物にメンバーたちが手を伸ばしたときだった。
「ちょっと待ちなさい、ビールを頼んだのは誰ですか!?」
 泡立つジョッキを見たこよりがメンバーの顔を一人一人見回す。
「あ、俺々」
「川崎くん……貴方は未成年でしょう!」
「ビールなんて水と変わらないって」
 浩太は中ジョッキに手を伸ばしたが、それよりも早くこよりが奪い取る。
「駄目です! まったく……でも、もったいないから私がいただきます。さ、皆さん、ここは私と川崎くんの優勝祝いをしてもらいますね。では、乾杯!」
 ジョッキを掲げたこよりは一人でまくしたて、そのままビールを流し込んだ。
「んんー……久しぶりに飲むとおいしい♪ 木ノ上くん、生中追加して!」
 その後もこよりはかなりのハイペースでビールを飲み続ける。
「あ、あの、こより先生」
「あら、なぁに、香夏子ちゃん?」
 その目が艶っぽく、同性の香夏子もどきりとしてしまう。
「香夏子ちゃんって……いえ、その、ちょっとペース早くないですか?」
「私は大人です。大人だからペースはちゃんとわかってます。でも心配してくれてありがとう♪」
 いきなりこよりは香夏子の頬に音高くキスし、突然のことに香夏子は真っ赤になる。
「ちょっと、こより先生!」
「先生、俺も心配してるぜ!」
「ワ、ワタクシもですぞ!」
 香夏子を押し退け、こよりの隣に座ったのは浩太と木ノ上だった。
「んもう、二人とも下心見え見え! 小峯くんを見習いなさいよ」
「え? そ、そうかな」
 まさか自分も行きたいとは言えず、小峯は下を向いた。
 こよりは自分の隣に座った浩太と木ノ上を交互に酔眼で見る。
「木ノ上くん、君はもうすこし体を鍛えなさい。頭でっかちになって困るのは君ですよ?」
「うむむ、厳しいお言葉」
「あと、川崎くん!」
「は、はい」
 突然強い口調で名前を呼ばれ、浩太が背筋を伸ばす。
「もう少し練習に出てこないとだめよ? 私、寂しいんだから」
 そう言うと、こよりは二人の頭を撫でた。浩太と木ノ上はどう返せばいいのかわからず、他のメンバーに助けを求めて視線を送るが誰も目を合わせようとしない。マイクを握っていた遥も歌うのを忘れていた。
「先生、酔っ払ってないか?」
「私がこれくらいで酔っ払うはずないでしょ! 失礼な教え子ね!」
 こよりは浩太の頭を抱え、ヘッドロックに極める。
「うわ、ギブギブ、こより先生胸が当たってるって!」
 さすがの浩太も顔を赤くし、こよりの拘束から逃げ出す。丁度そのとき、こよりが入力した歌のイントロが流れ始める。
「あ、私の番ですね」
 ふらりと立ち上がったこよりがマイクを握る。ゆったりとしたバラードのイントロが部屋に零れていく。
「皆は私の宝物です。本当に、ありがとう」
 突然のこよりの言葉に、室内が静まり返る。曲のメロディーだけが流れていく。
「教師一年目で大変なことばっかりで、練習もきついけど、皆と一緒にいる時間が私を癒してくれました。手のかかる子ばかりですが、皆とても素直で、優しくて……頼りない顧問ですが、これからも宜しくお願いします」
 頭を下げたこよりに、メンバーたちは自然と拍手していた。その拍手に満足したのか、こよりはソファに腰を下ろす。こよりの歌う姿を待っていたメンバーたちだったが、ソファにもたれたこよりは静かな寝息を立て始めた。

 結局、こよりは終了時間まで目を覚ますことはなかった。遥と浩太に両脇を支えられ、部屋を連れ出される。ボーリングに負けた遥たちがカラオケの料金を支払おうとすると、料金は予想以上に安かった。
「浩太、もしかして」
「ん? ああ、丁度てっさんがいてくれたからな。頼んだら割引してくれた」
 こよりを椅子に座らせた遥に、浩太が自然体で返す。
「しかし、こより先生どうするかな……」
 未だに寝息を立てるこよりにため息をつく。
「もう店出なきゃ駄目なのにね」
「浩太、責任取ってこより先生おんぶしなさい」
 遥は浩太に指を突きつけて命令する。
「な、なんで俺が……」
「元はと言えば川崎くんがビール頼んだからでしょ? 当然よね」
「それに僕らじゃこより先生運べないし……」
「ちっ……わかったよ。ほら、こより先生。行くぜ……っと」
 こよりをおぶり、歩き出した浩太だったが、その歩みがピタリと止まる。
「なあ……誰かこより先生の家知ってるか?」
 交代以外のメンバーもお互いに顔を合わせるだけだった。その表情が誰もこよりの自宅を知らないことを示している。
「しゃあねぇ。とりあえず俺んちに行こう」
「え、浩太この辺なの?」
「ああ、十分ほど歩くがな。こより先生の酔いが醒めるまで休憩してもらおう」
 サラッと言って歩き出した浩太を、香夏子が慌てて引き止める。
「ちょっと、教え子と教師が同じ部屋に二人きりってまずいわよ! 私と遥も行く」
「え、なんで私も……」
 急に振られた遥はごねようとしたが、香夏子の視線に続きを封じられる。
「ワタクシもご一緒したいですが、もうすぐ門限でして。申し訳ないですがこれで帰らせていただきます」
「しょうがないか。小峯くんはどうする?」
「う、うん、行こうかな」
「ったく、野次馬どもめ」
 こよりをおぶり直した浩太が苦笑する。そのまま「スパイク」を出ると、力強い足取りで歩き始めた。

「浩太、疲れたでしょ、そろそろ交代するよ」
 五分ほど歩いたところで、遥が交代を申し出る。
「確かに疲れてきたけど……」
 遥の申し出にも浩太は首を振る。
「だが断る!」
「なんでよ!」
「こより先生の胸が背中に当たる、落ちないために支えている太ももとお尻が柔らかい。こんな役得があるのに交代なんかできるか!」
 堂々とのたまう浩太に、メンバーたちは呆れるしかなかった。
「浩太……ある意味男らしいよ」
「……凄いね浩太くん」
「サイテー……やっぱり抱きついたのもわざとじゃないの?」
「違うって! しつこいぞ鳥咲!」
 凄む浩太だったが、香夏子に軽くあしらわれ、苦い顔で歩き続けた。

「ここだ、このアパート」
 路地裏の奥にある二階建てのアパート。外観は決して綺麗とは言えず、日当たりも良くない。浩太は狭い通路を通り、一階の一室の前で立ち止まった。
「この部屋だよ。汚いのは勘弁してくれよな」
 こよりをおぶったまま鍵を開け、室内へ入る。部屋の中は狭く、玄関から台所、トイレ、居間と寝室が見て取れる。台所には洗い物の皿が散乱し、居間には雑誌類とインスタント食品の容器などが散らばっている。
 浩太に続いてメンバーたちも靴を脱いで上がり、思い思いの場所に腰を下ろす。
「きったないなぁ。少しくらい掃除しなよ……あ」
 裸の女性が載っている本を手に取ってしまった遥が赤くなる。
「あ、こら、あちこち触んなよ!」
 こよりを布団に寝かせた浩太が慌ててエロ本を奪い取る。
「なんか、独り暮らしみたいな部屋だね」
 自然な感想を洩らした小峯を、浩太はじろりと一瞥した。
「みたいなんじゃなくて、独り暮らしなんだよ」
 意外な浩太の告白に、遥、香夏子、小峯は驚く。
「独り暮らしって浩太……うちの学校、禁止されてるでしょ?」
「家庭の事情ってやつだ。俺は特例で認められてるんだよ。その代わり生活費は自分で稼がなきゃならないけどな」
「でも、なんで独り暮らしなんか……」
 小峯の疑問に、浩太は先程よりも鋭い視線で応えた。
「言いたくねぇな」
 その迫力に小峯は黙り込んでしまう。
「浩太……言いたくない事情があるのはわかったけどさ、私たち仲間でしょ? こっちは知らないままモヤモヤを抱えて浩太と付き合っていくのは嫌だよ。その事情、話してくれない?」
「遥……お前ただ知りたいだけだろ?」
「そ、そんなことないよ?」
 遥は思わず目を逸らしていた。その正直な反応に浩太は苦笑してしまう。
「ったく、知りたがりめ……」
 浩太はしばらく腕組みしていたが、やがて口を開いた。
「俺は、親から勘当されたんだよ」
 想像もしない言葉に、遥、香夏子、小峯の動きが止まる。
「兄貴が後見人になってくれたから家は借りることができた。奨学金制度で学費もなんとかなった。でも生活費は稼がなきゃならないから、バイトを掛け持ちでやってかなきゃならない。奨学金打ち切られないために悪い点取れないから、勉強もしなきゃならない。だからなかなか同好会の練習に行けないけど、それは勘弁してくれ」
 浩太の告白は、メンバーの想像を超えていた。
「ごめん浩太。興味本位で聞いちゃいけなかった……ホントに、ごめん」
「らしくないぜ、遥。いつかは話さなきゃって思ってたんだ。いい踏ん切りになったよ、気にするな」
 顔を歪ませて謝る遥の頭を、浩太が優しい手つきで撫でる。その光景を見ていた香夏子は勢い良く立ち上がった。
「それじゃ、謝罪代わりに皿洗いくらいはさせてよ。ほら、遥……は皿割りそうだから、小峯くん手伝って」
「うん、わかった」
「おい、そんなことしなくても……」
「じゃ、私は肩揉んであげる!」
「おいおい、気を使うなよ」
 そう言いながらも、浩太の口には微笑が浮かんでいた。しかし次の瞬間、肩の痛みに悶絶した。

「はい、どうぞ」
 香夏子は皿洗いだけでなく、有り合わせの材料でシチューを作っていた。皿に取り分け机の上に並べていくと、湯気を上げるシチューが食欲を誘う。
「そろそろこより先生も目ぇ覚ましたかな。ちょっと呼んでくるわ」
 肩を回していた浩太は寝室へと向かおうとして、なぜかその場に突っ立ったままになった。
「どうしたの、浩太く、ん……!」
 浩太の視線の先を追った小峯もそのまま固まってしまう。
「どうしたの二人とも……ってこより先生! なんて格好してるんですか!」
 そこには下着姿のこよりが青い顔で立っていた。
「トイレ……どこ?」
 こよりはやっとそれだけ言うと、口を押さえる。
「先生、こっち! 頼むからここで吐かないでくれよ!」
 浩太が大慌てでこよりの背を押し、トイレへと押し込む。
「浩太! こより先生の服脱がせてなにしたの!」
「俺じゃねぇ! 誤解だ! いくら俺でもそんな外道なことするか!」
 香夏子の弾劾に浩太が憤慨する。
「まったく、ひでぇ言い掛かりだな。シチューが不味かったら叩き出すぞ」
 乱暴に腰を下ろした浩太が、香夏子の作ったシチューを口に運ぶ。
「お、うまいな」
「うん、おいしい」
「ふふっ、ありがと」
 小峯の素直な感想に、香夏子が笑顔になる。
「香夏子、昔から料理や裁縫上手いよね、いいお嫁さんになれるよ」
「遥……少しは料理覚えなさいよ。いつまでも私やおばさんに作ってもらえるとは限らないんだからね」
 香夏子の指摘に、遥は黙ってシチューを啜った。

 遥たちがあらかたシチューを食べ終えた頃、こよりがよろめきながらトイレから出てくる。先程よりは顔色は良くなっていたが、それでもまだ青い。
「こより先生、早く服着てください!」
「鳥咲さん、服、って……! きゃぁぁぁっ!」
 自分が生徒の前に下着姿で立っていたことに気づき、こよりは慌てて寝室へ飛び込んだ。
「……ごちそうさまでした」
 手を合わせる浩太の頭をはたいたのは遥だった。
「ってぇな! なにしやがる!」
「親父臭いよ浩太」
 後頭部を押さえて怒鳴る浩太に遥は冷静に返した。
「違うって! これはシチューを食べあげたから言ったんだよ!」
「サイテー……」
「鳥咲、違うって!」
「その割りにはタイミングが良すぎない?」
「小峯、お前まで……これが四面楚歌か……」
 自分の家だというのに、肩身の狭い浩太だった。

「……恥ずかしいところを見せてしまいましたね」
 きちんと服を着たこよりが、皆の前に正座する。
「こより先生、こいつら俺がこより先生の服を脱がしたなんて言うんだよ。ちゃんと言ってやってくれ、俺がやったんじゃないって」
 浩太はメンバーを指差し、こよりのフォローを待つ。
「熱くなって自分で脱いだんでしょうね……多分」
 こよりの声は最後に小さくなった。
「多分って先生!」
「だって、気づいたらこの格好でしたから、自分で脱いだのか、脱がされたのかわからないんですもの……でも、私は川崎くんを信じてますよ?」
「先生……言い方が信じてないぜ……」
 がっくりと肩を落とす浩太に、香夏子の視線が突き刺さった。

「そろそろお暇しましょうか。川崎くん、ありがとうございました。皆も帰りましょう」
 シチューを食べ終えたこよりが、時計を見て帰宅を促す。
「そっか、んじゃ送っていくよ。小峯、遥と鳥咲を頼むな。俺は先生送っていくわ」
「うん、わかった」
「川崎くん、私は大人ですよ」
 浩太の申し出を断ろうとするこよりだったが、浩太は先に立って歩き出す。
「大人でも女の人だろ。襲われたらことだから、送っていくよ」
「でも……」
「先生の体調が悪くなったのも俺が原因だからな。責任は取らなきゃならないだろ」
「先生、浩太もこう言ってるし、ボディガードか召使いだと思って連れて行ってやって」
「なんでお前は上から目線なんだよ!」
 遥と浩太の掛け合いに、こよりがくすりと笑う。
「わかりました。川崎くん、お願いしますね」
「おう、まかしとけ!」
「絶対襲いかかっちゃ駄目だからね」
「鳥咲……そこまで信用ないのか」
 香夏子の一言に、浩太がげんなりとなった。先程からずっとやられっぱなしだ。
「香夏子さん、もう帰ろう。先生、浩太くん、また今度」
「じゃあね!」
「こより先生、気をつけてくださいね!」
 こよりと浩太に手を振り、三人は踵を返した。遥と香夏子が小峯を挟み、何か言い合いながら歩いて行く。
「それじゃボディガード致しますよ、こより先生」
「ふふっ、頼もしいわ、お願いね」

 月明かりの下を歩く二人には特に会話もなく、時間が過ぎていく。
「川崎くん、よかったの?」
 沈黙を破ったのはこよりだった。浩太の顔を見て語りかける。
「何がだい?」
「独り暮らしの理由ですよ。本当は皆に知られたくなかったんでしょう?」
 教師である立場から、こよりは浩太の一人暮らしとその理由を知っていた。それをプロレス同好会のメンバーに伝えなかったのは、浩太の気持ちを慮ったからだ。
「聞いてたのか……あいつらになら、いいさ。俺みたいな奴を仲間だと認めてくれる連中だ」
「特に来狐さんには、ですか?」
 口元に笑みを浮かべるこよりに、浩太は慌てて否定する。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ先生、遥とは気が合うけど、そんな感情はないぜ?」
「そうなんですか? 傍から見ているとそう見えますよ」
「……そうなのか、思ってもみなかった」
 がしがしと後頭部を掻いて照れる姿が、こよりの胸に明かりを灯した。
「ねえ川崎くん……もし良かったら、勘当された理由も話してみませんか? 心に抱えた重しも、人に話すとすっきりすることが多いですよ」
「さすが先生、大人だな。俺とは違うや」
 月を見上げた浩太が無理に笑ってみせる。しばらくの沈黙の後、決心したのか重い口を開いた。
「……俺の父親は、川崎商事の社長なんだ」
「え、川崎商事って……あの川崎商事ですか!?」
 こよりは思わず声を上げていた。川崎商事と言えば県下でも有数の大企業だ。蝶舞市にも多くの支店がある。
「ああ。小さい頃から金が中心の親父とは反りが合わなくてね。それに親父が浮気してたのは知ってたけど、隠し子までいるのは許せなかった。そのことに強く言えないお袋にも腹が立った」
 話すうちに込み上がった怒りが、浩太の表情を強張らせていく。
「受験前の苛々もあって、去年殺し合い寸前の大喧嘩やらかしてさ。兄貴が止めに入ってくれなけりゃ、ホントにどっちかが死んでたかもしれない。親父が『お前なんか俺の子じゃない、勘当だ!』って吠えるのに、売り言葉に買い言葉で『お前みたいな奴が親じゃ俺もやってられねぇよ! 上等だ!』って家飛び出した。兄貴が手を貸してくれなかったら、人並みな学生生活も送れなかったと思う」
 その攻撃性に満ちた光を放つ目は、こよりが初めて見るものだった。
「……今、ご両親に連絡は?」
「ハッ、連絡? 冗談じゃねぇや。親父の声を聞くのも願い下げだね」
 浩太の目は更に荒んだものになっていく。こよりの胸の明かりは揺らぎ、大きく燃え上がった。
「川崎くん」
 意識せぬまま、こよりは浩太を胸の中に抱きしめていた。
「せ、先生!」
 突然のことに驚いた浩太は固まっていた。頭を抱えられているため、顔がこよりの胸に押し付けられている。
「私は両親と仲がいいですから、川崎くんの気持ちはわかりません。でも、ご両親がいたからこそ、貴方はここにいるんです。怒りは怒りとして、許す気持ちは持てませんか? 持てなくても、少し見方を変えてみませんか?」
「……」
 こよりの心音が、胸を通して浩太に伝わってくる。暖かさも伴って。
「血の繋がった家族が憎みあうのは悲しいです。教師として未熟な私が言うのもおこがましいですが、ご両親と少しずつ関係を修復していきませんか」
「こより先生……」
(こうやって人に抱きしめられたのって、いつ以来だろ。覚えてないや)
 自分は、両親と触れ合ったことがあったのだろうか。肉体的にも精神的にも、離れて暮らすのが当たり前だと思ってはいなかっただろうか。自問自答しても答えは出ない。ただ、こよりの鼓動が心地良い。
「それに、あなたは優しいじゃないですか。いつも誰かを守るために一生懸命になっている。入学間もないのに同級生を助けて、海では小峯くんと鳥咲さんを助けたじゃないですか。ね、川崎くん……」
 その先を平静に聞く自信がなく、浩太はこよりの背を軽く叩いた。
「先生……もう放してくれよ。襲いたくなっちまう」
 その言葉にこよりは慌てて抱擁を解いた。
「……冗談だって。本気にされると傷つくぜ」
「ご、ごめんなさい」
 心なしか、こよりの顔が赤い気がする。
「さ、行こうぜ先生。またおんぶしようか?」
 わざと明るく言って背を向ける。
「またおんぶって……私、そんな迷惑までかけてたんですか!?」
「大丈夫だよ、先生重くなかったし、あちこち柔らかかったし」
「川崎くん!」
 浩太が雰囲気を変えようとしているのがわかり、こよりはそれに付き合った。それからは他愛ない会話が続いた。

「ここです」
 こよりの住まいは一階建ての集合住宅だった。
「今日はありがとう。みっともない姿を晒して、教師としては失格ですけどね」
 ため息をついて頭を下げる。例え教え子だろうと、謝罪はしないと気が済まない。
「もうそれはいいってこより先生。じゃあ、おやすみ」
 去りかけた浩太に、こよりが呼びかける。
「川崎くん、私が言ったこと、少し考えてみてくれませんか」
「……少しだけってことなら、考えとくよ」
「約束ですよ。それじゃ、おやすみなさい、川崎くん」
「ああ、おやすみ、こより先生」
 浩太は片手を挙げて挨拶に代え、歩き出す。しばらく歩いてちらりと後ろを見ると、こよりがまだ見送ってくれていた。律儀なこよりらしいとは思いつつ、浩太の胸は温かかった。


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