【第百五話 ピュアフォックス:プロレス 其の四】
犠牲者の名は「ピュアフォックス」。本名来狐(らいこ)遥(はるか)。17歳。身長165cm、B88(Eカップ)・W64・H90。長めの前髪を二房に分けて垂らし、残りの髪はおかっぱくらいの長さに切っている。目に強い光を灯し、整った可愛らしい顔に加え、面倒見が良く明るい性格で両性から人気がある。普段は自らが立ち上げたプロレス同好会で活動している。
過去に何度も<地下闘艶場>のリングに上がり、観客を沸かせてきた。今回の参戦要求も喜んで受け入れた遥だったが、待ち受けていたのは全てを呑み込むような闇だった。
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花道に姿を現したピュアフォックスに、観客席から拍手と指笛が起こる。たまに卑猥な野次が飛ぶが、<地下闘艶場>の他の試合に比べれば遥かに少ない。それだけピュアフォックスが<地下闘艶場>の観客に好かれている証拠だろう。
観客の声援を背に受けたまま花道を走り抜けたピュアフォックスは、その勢いのままリングの四方に立つコーナーポストの一つに飛び乗り、前方宙返りをしながらリングへと舞い降りた。
対角線上に立つのは、闇を纏ったかのような男だった。
「赤コーナー、『闇王』、影波(かげなみ)士羅彦(しらひこ)!」
ピュアフォックスの対戦相手は、初登場となる影波士羅彦だった。漆黒のコスチューム、ズボンタイプの漆黒のレスリングタイツ、漆黒のレスリングシューズ。全身を漆黒で染め上げた影波は、その暗黒を宿した瞳でピュアフォックスを見据える。
「青コーナー、『天翔ける白狐』、ピュアフォックス!」
ガウンを脱いだピュアフォックスは、青いブルマと体操服を身に着けていた。このマニアックなコスチュームに、喜びの声を上げる観客も居る。
「それじゃあ、次はピュアフォックス選手の番だ」
影波のボディチェックを終えたレフェリーがピュアフォックスに近寄るが、ピュアフォックスは笑顔で指を鳴らす。
「触ってもいいけど、厭らしいのはやめてくださいねレフェリー♪」
「・・・も、勿論じゃないか」
汗を一筋垂らしたレフェリーは、軽いボディチェックだけでピュアフォックスから離れ、ゴングを要請した。
<カーン!>
(・・・)
影波と対峙したピュアフォックスは、知らず固い唾を飲み込んでいた。今までの対戦相手は、まず厭らしい視線でピュアフォックスを眺めてきた。影波の視線にも欲望はある。しかし、それ以上に冷酷なものが宿っている。
影波がまるで肉食獣のように、体重を感じさせずに間合いを詰める。あまりに自然な体移動に、ピュアフォックスの警戒反応が遅れた。いきなり抱え上げられ、ボディスラムで叩きつけられる。
「っ!」
否、ボディスラムのような生易しいものではなかった。頭部からリングに落とそうという危険極まりない投げだ。危険への警報に体が動き、顎を引いて背中を丸め、リングの上を転がる。
「合格だ」
影波が追い打ちも掛けず、うっそりと笑う。その笑みが、背中に戦慄を走らせた。
(この人、プロレスを知ってる・・・知ってるけど、違う! プロレスじゃない!)
ピュアフォックスの矛盾する思いは事実だった。
影波は「裏プロレス」の使い手だった。
プロレスの技とは、相手の体を壊さずにダメージを与えるものだ。年間に何百回も興行を行う以上、壊し合いをしていては試合が成り立たない。
しかし逆を言えば、壊し方も良く知っているのがプロレスラーだ。普段掛けているリミッターを外せば、プロレス技はたちまち破壊技へと姿を変える。
影波がじわりと間合いを詰める。先程の入り込みを警戒したピュアフォックスは影波の動きを注視する。
ぱぁん、と破裂音が響いた。影波の猫だましだった。集中していたピュアフォックスはまともに反応してしまい、一瞬棒立ちとなる。
次の瞬間には、影波の巨体が信じられないスピードでピュアフォックスの背後を取っていた。ピュアフォックスが背後を振り返る前に、その胴をフックする。
「くっ!」
投げさせまいと、ピュアフォックスは影波の頭部を抱える。
「ふん」
影波は胴に手を回しながら、ピュアフォックスの胸を鷲掴みにしていた。
「このっ・・・!?」
意識がバストに行った瞬間、宙を舞わされていた。
「くっ」
両腕で後頭部を庇い、ダメージの減少を狙う。
「はぐっ!」
それでも影波の投げの威力は半端ではなかった。後頭部を抱え、両足をばたつかせることで痛みを逃がそうとする。
「やはりいい反応だ」
影波は追い打ちも掛けず、ゆっくりと立ち上がろうとする。その瞬間、ピュアフォックスの瞳が光った。
水面蹴りのようなカニバサミでダウンを奪い、流れるように<STF>へと繋ぐ。影波の左脚と顔をフックし、絞め上げる。
(これで決めなきゃ! この人相手に、そうそうチャンスはない!)
プロでないとは言え、まがりなりにもプロレス同好会、<地下闘艶場>と経験を積んできたピュアフォックスだ。影波の実力が、今までの試合相手とは比べ物にならないことを肌で感じている。
「このぉおおおっ!」
吼えたピュアフォックスが、影波の顔をフックした右腕を更に絞り上げる。
だが。影波の両手がピュアフォックスの腕に掛かり、力任せに引き剥がされた。
「くっ!」
右腕を引き抜きながら、ならばと影波の左足をアンクルホールドに極めようとする。しかし影波は体を回転させて未然に防ぐと同時に、回転の勢いを乗せた蹴りを放つ。
(うまい!)
感嘆しながらも自分も転がって蹴りを避け、一度距離を取る。立ち上がったピュアフォックスは、ブルマの食い込みを直した。この自然な行動に観客の視線が引き寄せられる。
「・・・やるな」
こきりと首を鳴らした影波も、ゆっくりと立ち上がる。STFのダメージなど微塵も感じ取れない。
「だが、まだ甘い。一瞬で仕留める技量が足りない」
油断などしていなかった。なのに、いきなり腹部で激痛が弾けた。
「えぐぅっ!」
影波の爪先がピュアフォックスの腹部を抉っていた。影波は動きの止まったピュアフォックスの左右の手首を纏めて左手で掴み、両方の足首を右手で掴むと、自らの背中を支点にして思い切り引き絞る。
「あああああっ!」
ピュアフォックスの口から苦鳴が迸る。
「今ギブアップすれば、大怪我は免れるぞ」
それは忠告だったのか。それともただの脅しだったのか。
「ギブアップは・・・しない!」
恐怖を感じながらも、ピュアフォックスの望みは試合の続行だった。
「そうか」
ピュアフォックスの返答を聞いた影波が、巨体を揺るがしロープへと走る。勿論ピュアフォックスを背中に磔にしたままで。
(ま、まさか・・・)
影波の狙いに気づいたピュアフォックスが、マスクの下の顔を蒼ざめさせる。尚一層暴れるが、影波に掴まれた手足が外れない。
セカンドロープを蹴った影波の巨体が、ピュアフォックスを担いだまま後方へと落ちていく。
(あっ、あああっ!)
急速に迫るキャンパスに、ピュアフォックスは紛れもない恐怖を感じていた。受け身を取るべき腕も、足も、びくともしない。
肉がひしゃげる不快な音がリングに響いた。影波が技を解いても、ピュアフォックスはぴくりとも動かない。
<カンカンカン!>
余りの危険な技に、レフェリーは試合を止めていた。
「お、おい、ピュアフォックス選手・・・」
思わず呼びかけるレフェリーなど一顧だにせず、影波は横たわり、ぴくりとも動かないピュアフォックスのマスクに手を掛ける。滑らかに紐を解いて剥ぐと、目を閉じた素顔が露わとなった。
「思ったよりも可愛い顔をしている」
ピュフォックス、否、来狐遥の顔を繁々と眺めた影波は、顎を掴み、顔を寄せていく。唇と唇が重なる寸前、何故か影波はピュアフォックスを横たえ、鋭い視線を右側に向けた。
「おっ、俺の殺気に反応してくれた? 良かった良かった、間に合わなかったらどうしようかと思ったぜ」
影波の視線の先に、右目を眼帯で覆った男が立っていた。
「その娘、ここじゃかなりの人気者なんだ。キッスは勘弁してやってくれよ。お前さん、命を狙われちまうぜ?」
「お前もその一人、ということか?」
「いやいや、俺はもっと大人の女が好み。だが、その娘のファイトは好きでね」
何かを値踏みするように、影波は眼帯の男をじっと見据える。影波の両目と眼帯の男の視線がぶつかり、殺気を撒き散らす。それは、離れた観客が身を竦ませるほどの濃密な殺気だった。
やがて、影波が口を開く。視線を外さず、殺気を収めないまま。
「お前とやり合うのも面白そうだが、今日は止めておこう」
「そうかい? 俺は構わないけどな」
眼帯の男の挑発に、影波は小さく肩を竦めた。
「ここにはまだ他にも、強く、美しい女が居るんだろう?」
自分の足元にひれ伏している覆面少女以外にも。
「暫く、女と遊ばせて貰うさ」
影波の唇が、獣の笑みを形作った。