【第百九話 斬林真緒里:裏ボクシング】
犠牲者の名は「斬林(きりばやし)真緒里(まおり)」。21歳。身長162cm、B86(Eカップ)・W58・H82。色を抜いた髪を後頭部で纏め、前髪で右目を隠すようにしている。目つきは鋭いが、仕事のときにはなるべく客と目を合わさないようにしている。高い整った鼻と形の良い唇という美貌の持ち主だが、人を拒絶するような雰囲気を纏っている。
あるバーのバーテンダー兼バウンサーで、実はかなり口が悪い。自覚しているのでなるべく抑えるようにしているが、絡んだり暴れたりするような人間は徹底的に叩き潰し、罵詈雑言を浴びせて精神的にも叩きのめす。
客の一人から受けた逆恨みが、真緒里を<地下闘艶場>へと堕とした。
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リングの上には、既に真緒里の姿があった。ガウン姿の硬質的な美貌に、観客からの視線が集中する。
「赤コーナー、『ビッグマウス』、蒲生漣次!」
真緒里の対戦相手は蒲生(がもう)漣次(れんじ)だった。体中の筋肉が盛り上がっているが、首の筋肉が特に太い。
「青コーナー、『ダークエッジ』、斬林真緒里!」
自らの名前が呼ばれ、真緒里は振り払うようにガウンを脱いだ。その下には、普段真緒里が仕事で身に付けるような衣装が隠されていた。
白い襟付きのカッターシャツの上に黒いベスト、下半身はタイトなミニスカートに黒のパンスト、足元は黒のローファー。ただ一つ違う点が、両手に装着されたオープンフィンガーグローブだった。慣れないオープンフィンガーグローブの装着具合を確かめる真緒里に、リング内外から欲望混じりの視線が飛ばされていた。
「よし、斬林選手、ボディチェックだ」
蒲生のボディチェックをさっさと終えたレフェリーが、真緒里にもボディチェックを受けるように言ってくる。
「断るよ」
「なにぃ? ボディチェックを拒むと言うのか? だったら・・・」
「なにがボディチェックだよ! ただ私の体を弄繰り回したい変態だろうが! 自分の顔鏡で見たことあるか?」
「な、何を・・・」
「あー臭い! 溝(どぶ)臭い口開けるんじゃないよ! 鼻が詰まる!」
マシンガンのように繰り出される悪口雑言に、レフェリーが半泣きになる。
「そ、そこまで臭くは・・・」
「口が臭い自覚はあるんだろうが! 黙って審判だけしときな!」
真緒里の口撃に打ちのめされたレフェリーは、黙ってただ合図を出した。
<カーン!>
「威勢のいい姉ちゃんだな」
「いいのは威勢だけじゃないけどね」
オーソドックススタイルに構えた真緒里は、ローファーのままリズムを取り始める。ローファーの裏地がキャンパスに擦れるたび、耳障りな音が鳴る。
顎を拳で隠した蒲生が、じりじりと距離を詰める。真緒里のパンチ力を警戒しての構えだった。
(だが、一発耐えればこっちのもんだ)
ボクサーは捕まえてさえしまえばどうとでもなる。捕まえてからのことを想像して頬を緩めた瞬間、強烈な衝撃が頬で弾けた。顎を隠すことで狭くしてしまった視界、それを見逃さなかった真緒里がガードの上から右ストレートを叩き込んだのだ。
反射的に顔面をガードした蒲生だったが、今度は下腹部に痛みが襲った。真緒里が筋肉の薄い下腹部を打ち抜いた衝撃だった。
堪らずダウンした蒲生を見て、レフェリーがカウントを始める。
「ワーン・・・ツーゥ・・・」
「へぇ、さすが口が臭いとやることも汚いね。そこまであからさまにスローカウントを取るんだ。普段何を食ったらそこまで汚くなれるのかねぇ。○○○か?」
真緒里の悪口にレフェリーの動きが止まる。しかし反論はせず、心なしか速くなったカウントを続ける。
「セブン・・・エイト・・・おっ」
このとき、腹部を押さえながら蒲生が立ち上がった。痛みに顔を歪めながらも真緒里を睨む。
「蒲生、いけるか?」
「ああ・・・あの姉ちゃんをいたぶらねぇと気持ちが収まらねぇ」
ぐっと唇を結んだ蒲生は、低く姿勢を取る。タックルに行くことを隠そうともしない構えだった。
「ふうん・・・」
唇の端を上げた真緒里は、またもオーソドックススタイルに構える。
(多少の痛みは気にしねぇ! 絶対に捕まえてやるぜ!)
蒲生がキャンパスを蹴った。真緒里の足元目掛け、一直線に突進する。
(もらった!)
真緒里の膝を抱えた、その想いを最後に蒲生の意識は途絶えた。
<カンカンカン!>
リングの上でうつ伏せに倒れ込み、時折痙攣する蒲生の姿にレフェリーは即座にゴングを要請した。
真緒里はボクシングなら反則になるラピッドパンチ(後頭部へのパンチ)を放ったのだ。強烈な右の打ち下ろしが蒲生の左耳の後ろを打ち抜き、蒲生の意識を奪っていた。
「・・・あっけないね」
もう少し歯応えのある相手だと思ったのだが、ボクサーに慣れていなかったのだろう。パンチへの対応が甘すぎた。
「うぇへへ、強いなぁお姉ちゃん」
その背後から声を掛ける者が居た。油断なく視線を投げた真緒里の先に、とんでもなく太った男が立っていた。
「グレッグ、間に合ったか」
「いきなり呼ばれるから焦ったぞぉ。大急ぎで来たから汗だくだぁ」
その言葉通り、グレッグと呼ばれた脂肪男は既に大汗を掻いている。
「斬林選手、ボディチェックを受けなかったペナルティとしてもう一試合してもらう」
「ペナルティねぇ。最初っからそのつもりだったんだろ? でなきゃこのデブが試合終了直後の今、ここに居るわけがない」
「と、とにかく、もう一試合してもらうからな!」
レフェリーの逃げ腰での強気な態度という矛盾した言動に、真緒里は苦笑した。
「わかったわかった。サラリーマンは大変だねぇ」
世の中のサラリーマンに失礼な物言いだったが、レフェリーは黙り込んで何も返さなかった。
「赤コーナー、『ミスターメタボ』、グレッグ"ジャンク"カッパー!」
真緒里の新たな対戦相手はグレッグ"ジャンク"カッパーだった。未だにだらだらと汗を掻き続け、リングの上にも広がっていく。
「青コーナー、『ダークエッジ』、斬林真緒里!」
真緒里はコールされても応えるようなことはせず、オープンフィンガーグローブの装着具合を再確認している。
レフェリーは真緒里に声を掛けようとしたが、結局は何も言わず、二戦目のゴングを要請した。
<カーン!>
真緒里は疲れも見せず、先程同様オーソドックススタイルでリズムを刻む。
「シッ」
鋭い呼気と共に、ジャブの二連打。グレッグの胸元を捉えたのにも関わらず、グレッグは平気な顔で真緒里を抱え込んでくる。
「ちっ!」
離れ際に顔面へジャブの置き土産をくれてやる。
「あででぇ」
さすがにこの一撃は効いたようで、グレッグが鼻を押さえる。
「もう一丁・・・っ!?」
攻撃に転じようとした瞬間、いきなり足が滑った。
「いでぇぞぉ、よくもやったなぁ!」
グレッグが脂肪で膨れた腕を使って顔面をガードし、真緒里に近づいてくる。
(ピーカーブースタイルかよ)
かつて最強と呼ばれた世界チャンピオンが使った構え。グレッグがそれに似た構えを取ったことで、真緒里は内心舌打ちする。それでも前に出ようとした瞬間、またも足元が滑る。
(なんだこの滑り具合!)
真緒里は知らなかった。グレッグの掻く汗は普通の人間と違い、極端に摩擦係数を減らす。そのため踏ん張りが利かず、しかもグレッグの脂肪はショックアブソーバーとなり、打撃の衝撃を通さないのだ。
「うぇへへ、隙ありだぁ」
体勢を崩した真緒里に、グレッグの右手が伸ばされる。
「ちっ」
払おうとした真緒里の左手が、グレッグの体表を滑って逸れる。
「うぇへへ」
グレッグの右手が真緒里の胸元へと伸びる。グレッグの手が掛かったことで、ベストの前が開き、カッターシャツのボタンが吹き飛び、前が大きく開く。そのため、凝った装飾の入ったブラが露わとなる。
「おっ、ブラが丸見えになったぞ。随分と・・・」
「なんだ、ブラくらいで喜ぶのかい? 餓鬼だね、経験が少ないのが丸わかりだよ」
そうレフェリーを斬って捨て、真緒里はグレッグを睨みつける。
(さあ、どうしてくれようか)
フィンガーグローブを嵌めた両手を打ちつけ、その一瞬で決断する。
真緒里は両足を大きく前後に広げ、思い切り身体を捻じり、右拳を背後まで引き絞る。そのためタイトスカートが捲れあがり、ブラとお揃いのショーツが丸出しとなる。しかし真緒里は微動だにせず、グレッグを睨みつけたままだ。
「うぇへへ、無駄だってのが、わかんないのかぁ」
両手で顔を隠したまま、グレッグが突進する。間合いに入った瞬間だった。
「シィィィッ!」
鋭い呼気と共に、真緒里の右拳が下弦の弧を描く。
グレッグの視界の外から襲い掛かった拳が、グレッグの顎を捉えていた。
「・・・うぇへっ」
一息漏らしたグレッグの膝が崩れ、自らの汗溜りへと突っ伏す。これにはレフェリーも慌ててゴングを要請する。
<カンカンカン!>
「・・・ふっ」
さすがに小さく息を吐き、真緒里はタイトスカートの裾を元に戻す。
真緒里は大きく足を広げた状態で両脚の筋肉を固め、滑ることのない発射台と化した。そこから放たれた右拳はグレッグの顎を打ち抜き、脳を揺らしたのだ。
普通の試合に使われることのないフィニッシュブローは、裏ボクシングの真骨頂とも言えるものだった。
「もう次の駒はないようだね」
真緒里の冷たい笑みに、レフェリーは強張った笑顔を返す。
「それじゃ、ま」
真緒里はレフェリーの右肩を掴む。
「意趣返しはしないとね!」
真緒里の右拳が、レフェリーの腹部を抉っていた。
「ぐべっ・・・」
潰れた声を漏らしたレフェリーが、腹を押さえた状態で崩れ落ちる。
「ま、一発だけで勘弁してやるよ」
しゃがんだ真緒里は優しいとも言える手つきでレフェリーの背を叩き、タイトスカートの裾を直しながらゆっくりと立ち上がる。
「滑る汗のデブ、か。面白い奴も居るもんだ」
一度グレッグへと向けられた視線はすぐに離れ、自らの進む先へと向けられる。
(さっさとシャワーでも浴びますか)
観客からの野次も視線も気にすることなく、真緒里は自然な歩調で花道を下がっていった。