【第三章 ピュアフォックス、海へ!】


「蒸し暑ぅ……」
 香夏子は手で風を送って少しでも湿気を逃そうとするが、雨の日の体育館では焼け石に水だった。
 梅雨の時期はグラウンドでの練習はできず、プロレス同好会の面々は体育館の片隅にマットを敷き、受身や投げ技の練習を交代でしていく。
「ほら小峯くん、受身のときは顎引いて、そうそう、上手い上手い!」
 受身の練習で気絶したことがあるという小峯には遥がつき、基礎から教えることで小峯も受身を取れるようになっていく。
 体育館の中はバスケ部やバレー部、卓球部などの練習の熱気がこもり、梅雨特有の湿気が併さると不快なことこの上ない。じっとしていても汗が吹き出し、練習することで更に掻いた汗が服を肌に張りつかせる。その感触がまた気持ち悪い。
「はい、次はブリッジの練習!」
 遥は蒸し暑い環境を物ともせず、仰向けになって体を反らせ、頭部と足の指先だけで体を支える。プロレスは素人の香夏子が見ても、遥のブリッジは綺麗な曲線を描いている。その姿を他の部の男子部員がチラチラと盗み見しているのに気づき、さり気なく視線を遮る位置に立つ。
「み、見た目以上にきついねこれ……」
「いたたた、く、首が!」
 小峯と木ノ上のブリッジはどこか歪だ。
「ブリッジって、首と腹筋背筋が強くないと駄目なんだな。確かにきついわ」
 木ノ上と交代した浩太が感想を洩らす。こちらはそこそこ様になっているが、遥には及ばない。
「これだけじゃあれだなぁ……香夏子、乗って」
「……は?」
 ブリッジしたまま発した遥の言葉の意味がわからず、間抜けな答えを返してしまう。
「だから、私のお腹の上に乗って」
「い、いやよ、なんか怖い」
「そう? じゃあ木ノ上くんに」
「わかった、乗るわよ」
 まさか男子を乗せるわけにはいかないだろう。乗るとは言ったものの、香夏子は恐る恐るといった態度で遥のお腹に跨る。
「これでいい?」
「うーん、香夏子じゃ軽すぎるかも」
 遥はお腹に香夏子を乗せてもケロリとしている。
「こより先生も乗ってください!」
「え、私も?」
 遥の頼みとは言え、香夏子を乗せた上にもう一人乗っても大丈夫だろうか。こよりはその疑問を伝えてみたが、
「大丈夫ですよ、鍛えてますから!」
 遥から再三急かされ、こよりも香夏子の後ろに座る。それでも遥のブリッジは崩れない。
「凄いわね来狐さん」
「これくらい、プロレスラーなら朝飯前ですよ!」
「遥はまだプロじゃないでしょ」
 香夏子のツッコミも気にせず、遥はブリッジをし続ける。
「もういいでしょ、降りるわよ?」
「そうだね、ありがと。こより先生もありがとうございます」
 二人が降りると遥もブリッジをやめ、首を回す。
「プロレスラーって、こんなに鍛えるものなのね。驚いたわ」
「そりゃそうですよ! 年間二百試合もこなすんですから!」
 プロレスラーの年間の試合数は平均百五十試合を超える。全国の会場を回りながら試合をし、トップレスラーを目指して自由時間を削って練習する。そんなプロレスラーの肉体が柔なわけがない。
「けっ、やらせのくせに」
 たまたま近くを通ったバスケ部の一人が、遥たちを見て嘲り混じりの言葉を投げつける。
「……もう一度言ってみなよ!」
 次の瞬間、遥はその部員のユニフォームを両手で掴み、吊り上げていた。遥よりも背の高い部員が、地についていない足をバタつかせる。
「遥、やめなさい! 川崎くん、皆、遥を止めて!」
「来狐さん、下ろしなさい! どんなに腹が立っても、暴力は駄目です!」
 こよりの制止に、遥は口を引き結んだまま突き飛ばすようにしてバスケ部員を放す。何か言い返してやろうとした部員だが、遥の眼光を受けると口をパクパクさせるだけで終わってしまう。
「確かお前、一組の中星だよな。世の中には言って悪いこと、言って悪い相手がいるんだよ。文句があるなら、俺が聞くぜ」
 浩太は中星だけでなく、集まってきた他のバスケ部員も見渡して静かに告げる。この浩太の言葉に気色ばむバスケ部員もいたが、バスケ部の監督が制止したことで衝突までは至らなかった。
 結局バスケ部の監督とこよりの間で話し合いがもたれ、中星の謝罪で(渋々なのは明らかだったが)この場は治まった。

 雨の中、練習を終えた遥と香夏子はレインコートを着て自転車置き場に向かう。フードから覗く遥の顔はまだ険しい。
「遥。ほら、そんな怖い顔してたら可愛い顔が台無しだよ」
「香夏子……私、悔しいよ。プロレスはやらせじゃないよ。そりゃそう見られるのは仕方ないけど、でもプロレスラーは自分の体を張って観客を沸かせてるのに……」
 プロレスのリングの上には様々な決まりがある。ロープに振られたら必ず戻ってくる、相手が出した技は受ける、凶器を使ってもファイブカウント以内にやめるなど、プロレスを知らない者が見たら「やらせ」と断定しかねないものもある。
 しかし年間に百を超える試合数をこなすプロレスラーにとって、このリングの上での決まりは必要なものだ。プロレスとはリングの上でどれだけ輝きを放つかを競い合う格闘技であり、スポーツである。決して壊し合いではない。ボクシングやK―1の試合が何ヶ月かに一度しか組まれないのは、真剣勝負故に身体がもたないせいだ。だからこそ、プロレスでは対戦相手を壊さずにダメージを与える技が開発され、洗練されていった。そのことが伝わらず、やらせだと言われることが遥には悔しい。
「それを、遥が北校の皆に教えてあげればいいじゃない。折角創ったプロレス同好会だもん、異種交流戦で遥が皆を沸かせて、プロレスの面白さを伝えるのよ!」
 親友の励ましが嬉しかった。大きく頷いた遥は、香夏子に体ごと向き直った。そのまま大きく手を広げる。
「香夏子、私頑張るよ!」
「だから、力一杯抱きしめるなーっ!」
 香夏子の儚い抵抗など気にも留めず、遥は親友を思い切り抱擁した。

 ようやく梅雨も上がり、夏休みまで一ヶ月を切ったある日。蒸し暑い体育館から校庭の隅に場所を移し、プロレス同好会は練習を行っていた。鋭さを増した日差しの下、遥の掛け声になんとか食らいついていく。
 練習終了後、プロレス同好会の面々は木陰で火照った体を冷ましていた。そんな中突然遥が立ち上がり、メンバーを見回す。
「もう夏本番間近! 夏と言えば何!? はい、香夏子」
「え? えっと……夏休み?」
「違う! じゃあ小峯くん!」
「……海?」
「勉強しかないでしょうに」
 小峯は自信なさげに答え、木ノ上は勝手に答えを出した。
「二人とも違う! こより先生、答えを言ってあげて!」
「わ、私? そうね……日射病に注意、かな」
 こよりの答えは正論だったが、遥は大きく首を振る。
「んもー、皆わかってない! 夏と言えば合宿でしょ?」
 人差し指をびしっと突きつけ、遥が高らかに宣言する。
「ようするに、プロレス同好会で夏合宿がしたい、ってことね」
「さすが香夏子! 正解です!」
「そう言うからには、場所とか日程とか全部決まってるんでしょうね」
 香夏子の追及に、遥はすっと目を逸らした。
「呆れた。合宿がしたいって駄々こねてるのと一緒じゃない」
「でも、親睦を深めるにはいいと思うんだ。折角集まった仲間だしさ、もっと皆のこと知りたいよ」
 遥の言葉に、虚を突かれたように皆黙り込む。沈黙を破ったのはこよりだった。
「じゃあ、二、三日時間をちょうだい。知り合いに当たってみるから。上手くすれば交通費と食費だけで済むかも」
「こより先生……お願いします!」
「お願いします!」
 こよりの提案に遥が頭を下げると、他のメンバーもそれに習って頭を下げた。
「ふふっ、過度の期待はしないでね。結果はどうあれきちんと報告するから」
 微笑を返したこよりだったが、どこか自信あり気だった。

 後日の放課後、こよりは学習指導室にメンバーを集めた。浩太以外のメンバーたちは期待の表情でこよりの報告を待つ。
「夏合宿の場所が決まりました」
 この発表だけで拍手が起こる。それを微笑みで抑え、こよりが続ける。
「S県に私の実家があるんだけど、使っていない小屋があるの。そこなら寝泊りしてもいいと許可をもらったので、S県までの旅費を準備してください。食事は両親が準備してくれるそうだから、心配しなくていいわよ」
 想像以上の好条件に、メンバーから歓声が起こる。
「でも、一つ条件があります。両親曰く、『働かざるもの食うべからず』。一日の内、何時間か農作業を手伝ってもらいます。それくらいはいいわよね?」
「もちろんです!」
 遥の力強い挙手に、こよりが苦笑する。
「こより先生、逆にそこまで甘えてもいいんですか? ご両親も大変なんじゃ・・・」
 香夏子の心配に、こよりは笑顔で答える。
「心配しなくてもいいわよ鳥咲さん。教え子を連れて行くって言ったら二人とも張り切ってたから、大変どころか嬉しいんだと思うわ」
「じゃあ、後は日程を決めるだけですね!」
 遥の弾んだ声に、こよりの眼鏡が光る。
「それと、私からも条件があります」
 一度眼鏡の位置を直したこよりの視線が一人を向く。
「もうすぐ期末テストですね。誰とは言いませんが、中間テストのときには酷い点を取った人がいます」
 何故か遥一人が視線を逸らす。
「期末で悪い点を取った人は合宿に参加させませんので、そのつもりで」
 こよりの宣告に、遥の顔色が変わる。
「そうそう、海が近いから、水着も持って行くといいわよ」
 それだけ言い残し、こよりは職員室へと戻って行った。
「場所が決まったら、合宿も現実味を帯びてくるよね」
「うむ、ワタクシもワクワクしてきましたぞ。練習はきつそうですが、海水浴は楽しそうです」
「水着かぁ・・・今年は新しいのを買っちゃおうかな?」
 わいわいと言い合いながら、香夏子たちも学習指導室を後にした。
「べ、勉強・・・」
 学習指導室には、一人固まる遥が残された。

 次の日の休憩時間、遥は浩太の教室に飛び込んだ。何故か香夏子も引きずってきている。
「あ、浩太また怪我してる! 喧嘩好きだね」
 浩太の頬にある絆創膏を遥が冷やかす。
「うるせぇな、絡むほうに言えよ」
 いきなり冷やかされ、浩太がじろりと睨む。しかし遥は平気な顔だ。
「まあそれはどうでもいいんだけどさ、浩太、夏合宿に行くよ! 夏休みの初日から三日間。準備しといてね」
 勢い込む遥に、浩太は手をひらひらと振って返す。
「夏休みはバイトで忙しいんだよ」
「三日だけ空けてよ。お願い!」
「だから、夏休みこそバイトの稼ぎ時なんだよ!」
 声を荒げる浩太だったが、遥は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ふーん・・・こより先生が、海が近いから水着持ってこいって言ってたのに」
「行く」
 即答だった。
「浩太・・・スケベ」
「川崎くん・・・サイテー」
 女子二人の非難の声に、浩太は真面目な表情で言い返す。
「男ってのはスケベなもんなんだよ。男がスケベじゃなかったら、赤ちゃんなんて生まれてこなくなっちまうんだぞ。そのことをよく考えろ」
「う、それはそうかもしれないけど」
「だから、女の子の水着姿が見たいっていうのは、健全な男子の証拠なんだよ」
「ようするに、私たちの水着姿が見たいから合宿に参加する、ってことね」
 香夏子の冷ややかな視線にも、浩太が動じた様子はない。
「同好会の女性陣は皆魅力的だからな、そりゃ見たくもなるさ。小峯と木ノ上も同じだと思うぜ?」
 浩太の切り返しに、香夏子が赤面する。遥も前髪をいじりながら照れる。
「ま、それはそれとして、詳しいこと教えてくれよ」
 香夏子は浩太に、合宿の日程や必要なものなどを手早く説明していく。
「今度のテストで点数悪かったら行けないそうだから、勉強もしといてね」
「その心配はないでしょう」
 そこへトイレから戻った木ノ上が割り込む。
「木ノ上くん。そういえば川崎くんと同じクラスだったっけ。でも心配ないって、なんで?」
「川崎君は成績が良いですからな。学年でも十番台に入るんではないですかな? ワタクシは十番以内ですが」
 さり気なく自慢する木ノ上だったが、それには気づかず女子二人は浩太を見やる。
「浩太、頭いいんだ・・・」
「人は見かけによらないってホントだったのね・・・」
「失礼だなお前ら! そういうお前らはどうなんだよ」
「私は大丈夫だと思うけど、遥が・・・」
 浩太のツッコミに、香夏子は横目で遥を見る。
「おいおい、会長が行けないんじゃ締まらないぜ」
「・・・香夏子、勉強教えて!」
 その叫びには、悲痛なものがあった。

 香夏子の特訓を受けた遥は予想以上の点を取ることができ、こよりから合宿参加のお許しを頂くことができた。
「香夏子ありがとう! お蔭で合宿に行けるよ!」
「よかったわね、言いだしっぺがお留守番なんてことにならなくて。まったく、普段から勉強してれば怒られないですむのに」
 勉強を教えてみてわかったが、決して遥は頭が悪いわけではない。頭の回転は速いし、理解も早い。勉強するくらいなら練習するという姿勢が点数に出ているのだろう。
「今度からこより先生に怒られないように、テスト前くらいは勉強するのよ?」
「・・・了解です、香夏子先生」
 素直に頷く遥だったが、その目が急に輝く。
「でも、これで合宿まで練習に集中できるよ! テストで遅れを取った分、メニューもきつめにしなきゃ!」
 今まででも充分きつかったのに、まだきつくなるのか。香夏子は眩暈を起こしそうになった。

 雲もほとんどなく、強い日差しが照りつける夏休み初日。昼も近くなった頃、中央駅前に集合したプロレス同好会メンバーたちの姿があった。女性陣と男性陣の荷物の量がかなり違うことに突っ込む者、返答を拒む者が居る。そんなじゃれ合いも長くは続かなかった。
「皆揃ったわね? では、行きましょうか」
 おしゃれな麦わら帽子をかぶったこよりが先頭に立ち、駅に入る。メンバーたちは中央駅から南西部行きの電車に乗り、車中で昼食を広げる。
「そういや遥、前から聞きたかったんだけどさ」
「ん、なに?」
 浩太の突然の問い掛けに、おにぎりをほおばっていた遥が小首を傾げる。
「なんでお前、そんなにプロレス好きなんだ?」
「プロレス愛、かな?」
 おにぎりにかぶりつきながら、遥がニヒルな笑みを浮かべる。
「いや、そんな曖昧な答えじゃなくて、なんかあるだろ。テレビで見たとか、親戚にプロレスラーがいるとか」
 浩太のアクションつきのツッコミに、遥が真面目な顔で考え込む。
「そう聞かれるとね・・・やっぱりあれ、って答えるしかないね」

 遥がまだ小学校にも通っていなかったくらい幼い頃、父親が女子プロレス観戦に連れて行ってくれた。おそらく蝶舞市に巡業で来た団体があったのだろうが、詳しいことは覚えていない。暗い会場、横断幕、熱気、そしてリングを照らすスポットライト。

「そのとき、凄いレスラーが居たんだ。華がある、っていうのかな。今でもそのときの試合を思い出せるよ」
 女子レスラーの名前はぼんやりとしているが、その動きははっきりと脳裏に焼きついている。流麗なロープワーク、切れのある技、華麗なフィニッシュ。子どもながらに、スポットライトを浴びたその人が眩しく見えた。
「多分、あれが私のプロレスストーリーの始まりだったんだね」
「そのおかげで私は大迷惑だったけどね」
 遥の遠い目を、香夏子がじと目で迎撃する。
 香夏子をはじめ、幼馴染は全員遥のプロレス技の餌食となった。小さい頃は力の加減など知らず、泣かされたのは一人や二人ではない。
「まったく、おじさんももうちょっと女の子らしいスポーツ観戦に連れて行ってくれればよかったのに」
「そう言うなよ鳥咲。遥がプロレス好きだったから、こうして皆一緒になれたんだからさ」
 浩太の言葉にこよりの言葉も重なる。
「そうですよ鳥咲さん。プロレス同好会ができたからこそこの場があるんです。鳥咲さんも合宿楽しみにしてたじゃないですか」
「う・・・それはそうなんですけど」
 香夏子は被害者としての立場も訴えようかと思ったが、言い訳にしかなりそうにないのでやめた。
「ごちそうさまでしたー! それじゃ、トランプでもしようよ!」
 もうおにぎりを食べ上げた遥がバッグからトランプを出し、早速シャッフルし始める。その脇腹をつねっておいて、香夏子は残りの弁当を食べ始めた。

 わいわいと騒ぎながら二時間ほど揺られると、電車はその町に到着した。
 駅から出ると、風が微かな潮の香りを鼻孔へと運んでくる。
「さ、こっちよ」
 こよりの先導で、一同はバスの停留所へと移動する。
 駅前からバスに乗り、十五分ほどで降りる。
「・・・海が近いのかな?」
 駅前よりも強く潮の香りが届く。さっそく蝉の声が歓迎してくれるが、鼓膜に突き刺さる程の大音量だ。
 防風林を右手に見ながら畑に挟まれた道を進む。途中道端に植えられたブナの木陰で息を入れ、更に足を進めた。

「ただいま!」
 引き戸の玄関を開けたこよりの幾分弾んだ声に、家の奥から人が出てくる。
「おお、帰ったか。そっちが教え子だな」
「お帰りなさいこより。少し痩せたんじゃない?」
 おそらくこよりの両親だろう。初老の男女が出迎えてくれる。プロレス同好会メンバーたちは玄関先から声を揃えて挨拶する。
「こより、女の子もいるじゃないか!」
 メンバーを見た父親が驚いた声を上げる。
「いるけど、なに?」
「プロレス同好会なんて言うから、てっきり男所帯で来ると思ってたんだぞ。女の子がいるんなら部屋を分けないと駄目だろ」
「あ・・・そうね、配慮が足りなかったわ」
 こよりが素直に謝ると、こよりの父はうんうんと頷く。
「わかればいい。じゃあ、女の子は予定通り客間で寝泊りしてもらう。男どもは小屋だ。片付けも自分たちでやってもらうぞ」
「了解! 任せてくれよ!」
 浩太が腕を叩き、慌てて他の男子メンバーも返事を返す。
「じゃあ私たちは客間の片付けをしましょうか」
 こよりは遥と香夏子に声を掛けるが、遥は男子と一緒に小屋に向かう。
「力仕事なら私に任せてよ。香夏子、部屋の掃除は頼むね!」
「はいはい」

 結局その日は小屋の片付けで日が暮れ、夕食となった。献立はご飯と味噌汁、イサキの味噌煮に夏野菜の煮物と素朴なものだったが、新鮮な魚と野菜がふんだんに使われており、あっさりとした味付けが素材のよさを引き出している。メンバーたちの箸も進み、次々とおかずが無くなっていく。
「おいしかったーっ! ごちそうさまでした!」
「はい、お世話様」
 こよりの母は嬉しそうに微笑み、空いた皿を片付ける。香夏子とこよりがそれを手伝い、遥は香夏子に急かされて手伝う。
「よし、どれだけ鍛えているのか見てやろう。腹ごなしにほれ、来い」
 こよりの父は片付けられたテーブルに手をつき、腕相撲へと誘う。農作業で鍛えたと思しきその腕は随所に力瘤が盛り上がり、ぴくぴくと動く。
「い、いや僕は・・・」
「ワタクシも遠慮しておきますぞ。川崎君、行きなさい」
「二人とも度胸がねぇなぁ。じゃあ親父さん、本気で行くぜ!」
 腕まくりをした浩太が右手を組ませる。組んだ瞬間その表情が変わる。
(このおっさん、強ぇ・・・!)
「じゃあ僕が合図しますね」
 部活でもレフェリーを務める小峯が申し出る。
「レディー・・・ゴー!」
「ふんっ・・・!」
 小峯の合図と同時に全力で押す浩太だったが、びくともしない。
「くっ・・・」
「どうした、そんなもんか?」
 こよりの父はまるで余裕だ。
「ぐぬぬ・・・っ!」
 力を込めた浩太の顔が赤くなるが、それでもびくともしない。
「ほいさっ」
 軽くテーブルにつけられ、あっさりと負けてしまう。
「はっはっは、まだまだ鍛え方が足りんな」
「・・・ちっくしょぉ。おい遥、お前もやってみろ!」
 浩太は台所から追い出された遥を呼び止める。
「なになに、腕相撲? おじさんと? ふっふっふ、強そうだねおじさん!」
「はっはっは、遥ちゃんが相手なら手加減せんと悪いな」
 軽く受けたこよりの父だったが、遥と腕を組んだ瞬間固まる。そして、小峯の合図と同時に右手をテーブルにつけられていた。
「ちょ、ちょっと手加減しすぎたかな。遥ちゃん、もう一回やらんか」
「いいですよ、今度は本気で来てくださいね」
「それでは、改めて。レディー・・・ゴーッ!」
 小峯の合図と同時に、こよりの父も遥も全力で倒しに行く。手にこもった力が筋肉を震わせ、額にはじわりと汗が浮く。
 しかし、何故かこよりの父の視線が下がり、突然力が抜ける。
「ぅぅぅ・・・だーーーっ!」
 雄叫びと共に、遥が一気に寄り切る。こよりの父は踏ん張れず、テーブルへと叩きつけられる。
「あたたた・・・まさか女の子に負けるとは」
「来狐さん、父さん負かすなんて凄いわね」
 その光景にこよりが驚く。父の力自慢はこの辺りでは有名だ。
「日頃の練習の成果ですね!」
 そう言うと遥は力瘤を作って見せる。この男らしい行為に、香夏子がため息をつく。
「遥・・・女の子が力瘤見せて喜ばないでよ」
 遥は一見すると細身に見えるが、それはパワーとスピードを求めて筋肉を絞り込んでいくトレーニングを積んでいるからだった。静止運動と負荷トレーニングで筋肉を作り、瞬発運動と柔軟運動で筋肉を絞り込む。そうしてできた筋肉は、力を込めたときだけ太さを現す。細く絞り込まれた筋肉の上を薄っすらと脂肪が多い、女性らしい体型となっている。
「なあ親父さん」
 何故か浩太が小声で話し掛ける。
「まさかとは思うけど・・・遥の胸の谷間に気を取られてないよな?」
「なっ、ばっ、そ、そんなわけなかろう!」
「そっか・・・よし、遥、俺ともやろうぜ!」
「ふふーん、浩太相手だと不足ありありだけど、かかってきなさい!」
「日本語の使い方間違ってるわよ」
 香夏子のツッコミもまるで気にせず、遥は右腕をテーブルの上に置く。
「よっしゃ!」
 浩太も遥の手に自分の手を絡ませ、視線を下げる。
「おおっ!」
 そこからだと、Tシャツの胸元から遥の豊かな胸の谷間がばっちりと見えるではないか。
「くぉら川崎くん!」
 こよりが丸めた新聞紙で浩太の頭をはたく。
「なんていう厭らしい顔をしてるんですか! 女の子の胸を覗き込むなんて、恥を知りなさい!」
「ええっ!? 浩太のエッチ!」
「変態!」
 遥が胸元を隠し、香夏子が険しい顔で人差し指を突きつける。
「いいじゃねぇか、減るもんじゃなし!」
 とは言いながらも、プロレス同好会の女性陣から責め立てられ、浩太が堪らず逃げ出す。
「・・・さて、そろそろ風呂に・・・」
「あなた」
 そろりと部屋から出ようとしたこよりの父だったが、こよりの母に呼び止められる。
「ちょっとお話があります。こちらにどうぞ」
「・・・はい」
 こよりの母の静かな迫力に、こよりの父はすごすごと夫婦の部屋へと向かった。

 夕食後に食休みを取り、一時間ほど技の練習をした後交代で入浴して一日目が終わった。男子は香夏子に追い立てられ、小屋の中に蚊帳を吊っての就寝となった。
 何故かこよりの父も一緒に布団を並べていたのが不思議だった。

 合宿二日目は、早朝の砂浜ランニングから始まった。砂に足を取られながらのランニングは想像以上に体力を奪う。
「ううっ、少しは体力ついてきたと思ったのに・・・きついー」
「ワ、ワタクシも同感です。しかし、マネージャーにまで負けるわけにはいきません」
 ビリ争いを繰り広げる香夏子と木ノ上の二人。その少し前を小峯とこより、先頭を遥と浩太が争う。
「腕っ節じゃ勝てなくても、脚力では負けん!」
「なんの、抜かれてたまるかーっ!」
 最早ランニングと言うよりダッシュで張り合う二人は他のメンバーを置き去りにし、砂浜を駆けて行く。
「・・・元気いいわね、あの二人」
「僕らとは基礎体力が違うんですかね。遥さんも凄いけど、それに張り合ってる浩太くんも凄いですね」
 先頭の二人は砂浜の端まで走り、こちらへと駆け戻ってくる。
「よっし、私の勝ちーっ!」
「バカ言ってんじゃねぇ、俺の勝ちだ!」
 お互い譲らず、ぎゃあぎゃあと言い合う遥と浩太だったが、結局こよりに引き分けだと宣告され、渋々それを受け入れた。

 ランニングの次は、砂浜の上で投げと受身の練習。受身を取ると衝撃はそれなりなものの、砂塗れとなってしまう。
「水も滴るいい男とは言うけど、砂も滴るいい男とは言わねえよな」
「浩太、いい男のつもりだったの?」
 遥に素で返され、浩太が黙り込む。珍しい光景に、メンバーとこよりは思わず笑っていた。
「・・・お前のせいだ遥、砂塗れになれ!」
「なにするの! 頭を冷やせっ!」
 遥に飛び掛った浩太だったが、逆に巴投げでぶん投げられ、海へと没する。立ち上がり、頭を振って海水を飛ばす浩太に、
「川崎くん、水も滴るいい男、ね」
 香夏子の皮肉が飛び、他の面々が爆笑する。
「くっそぉ・・・お前らも濡れやがれ!」
 海水をかけてくる浩太から、メンバーたちは笑いながら逃げ出した。

 朝食の後は休憩してから約束した農作業の手伝いとなった。こよりと香夏子は新鮮な夏野菜を収穫し、男子メンバーと遥は慣れない手つきで鍬を振り、畑を耕す。
「農作業って、普段使わない筋肉を使うんだね……結構きついよ〜」
「そうかもなぁ。でも、慣れたらそこまで力はいらないんだぞ」
 その言葉どおり、こよりの父が振るう鍬は、さほど力を込めているとも見えないのに土に深々と突き刺さる。遥も負けじと鍬を振るうが、力を込めれば込めるほど大地に跳ね返される。
「遥ちゃん、力任せにやっても疲れるだけだぞ」
「むきーっ!」
 こよりの父の忠告も耳に入らない遥は大地に挑み続け、尽く敗北した。

 夏の日差しの中での農作業で汗だくになった男子メンバーは、交互に井戸水を組んで頭からかぶる。一番に水を浴びたこよりの父は、道具の片付けをすると言って納屋に行っている。
「うっひょー、つめてぇーっ!」
 頭を振って水気を飛ばした浩太は何か思いついたのか、にやりと笑うと桶に水を汲んだ。
「小峯!」
「え?」
「そらよっ!」
「うわわっ」
 浩太が勢い良く水をぶちまけるが、小峯は上手くかわし、標的を逃がした水は小峯の後ろで見守っていた女性陣にかかってしまう。
「ぷわっ、冷たい!」
 水をかぶった遥と香夏子のTシャツは素肌に張りつき、ブラを浮かび上がらせる。
「は、遥! ブラが透けてる! 男ども、こっちを見ない!」
 香夏子は遥を屋内へと追い立て、自分も建物の陰から顔だけ出して男子メンバーを一睨みする。
「川崎くん……今のはわざとじゃないでしょうね!」
「違うって。それにブラが透けたくらいで目くじら立てなくて、も……」
 香夏子の形相に、最後は尻すぼみになってしまう。
「……すまん、ホントにわざとじゃないんだ」
「わかったわよ。私たちはシャワー借りるけど、覗いたりしたら死刑だからね!」
 香夏子は男子メンバーを牽制しておいてから顔を引っ込めた。浩太はやれやれと顔を振ると、もう一度水を汲み、突っ立っている小峯の頭からかける。
「! つ、冷たっ!」
「ったく、ブラくらいで真っ赤になってんなよ。頭も冷えたろ?」
「う……浩太くん酷いよ」
 女性に不慣れなことを指摘され、小峯が恨むような目つきで浩太を見る。
「それはさて置き。どうだ、今から風呂場に行ってみないか?」
「え、そ、それって、の、覗き……」
 あたふたとする小峯だったが、浩太は悪びれるでもなく平然としている。
「男子たるもの、当然の欲求だ。昨日の夜は親父さんもいたから難しかったしな。木ノ上も行くだろ?」
「む……鳥咲さんに死刑にされそうですが、それでも行くのですか?」
「ああ、行く! 男には死を賭してもやらねばならないことが」
「それが覗きとは、感心できませんね」
 その声にびくりと肩を竦ませ、三人とも恐る恐る振り返った。そこには腕組みをして男子を見つめるこよりがいた。眼鏡が陽光をはね返し、男性陣の目を射る。
「当然、覗きは立派な犯罪です。罰として、昼食まで筋トレをすること。いいですね?」
「こより先生、未遂でそこまで……」
「いいですね!?」
「はい……」
 こよりの視線と口調に負け、浩太は渋々スクワットを始めた。
「じゃ、じゃあ僕らはこれで」
 浩太を残して去ろうとした小峯と木ノ上だったが、こよりの声が引き留める。
「なにを言ってるんですか? 男子全員でするに決まっているでしょう」
「ええっ!」
「恨みますぞ川崎君」
 結局筋トレする光景を香夏子に見られ、その理由まで知られた三人は、冷たい視線に晒されたまま筋トレを続けるしかなかった。

 お昼はおにぎりと漬物、それにスイカだった。井戸水で冷やされたスイカはほどよい冷たさと甘さで、体の中から涼しくしてくれる。食べている途中からスイカの種を庭に飛ばし、誰が遠くまで飛ぶかを競い合う。それにこよりの父親まで参加し、こよりと母親から呆れられた。

 昼食後は自然と昼寝の時間になった。メンバーは思い思いの格好で横になり、寝息を立てている。
「なぁこより。先生は楽しいか」
 こよりの父は団扇を使いながら、優しい眼差しでメンバーを眺める。
「そうね。大変なことばっかりだけど、やりがいもある。特にこの子たちには教えられることばかり」
 こよりは父と同じようにメンバーを見ながら微笑んだ。
「そう……教え子から教わることもあるって学んだのね」
 こよりの母も小さく頷く。
「最近、教師は偉いものと勘違いしてたり、親に尻尾を振ることだけしか考えていない教師が増えてるから、心配だったの」
 こよりの母は口元を綻ばせ、穏やかに毒舌を吐く。
「いい教え子は、教師を育てるもんだ。この子たちはお前の宝物だぞ」
「うん……ありがとう」
 両親との会話で、少しだけ成長を実感できた気がするこよりだった。

 昼寝から目覚めたメンバーたちは水着に着替え、海へと走った。メンバーの他には人も少なく、存分に楽しめそうだ。
「よーっし、遊ぶぞーっ!」
 遥の水着はグレーのチューブトップブラのビキニだった。コスチュームを着けたとき日焼けあとが見えるのが嫌で、面積の少ない水着にしたそうだ。盛り上がったバストとヒップ、引き締まったウエストが男性陣の目を奪う。
「相変わらずテンション高いわね。ブラがずれないようにしなさいよ」
 香夏子の水着はパレオつきのグリーンのビキニだった。スレンダーながら、出るところは出ている肢体が日差しに映える。
「ふふっ、怪我だけはしないようにね」
 こよりは紺色のワンピースタイプだった。背中が大きく開き、股間部の角度も際どい。膨らんだ胸、曲線を描くヒップから太もものライン、おろした髪が大人の色香を感じさせる。
「なんと言うか、やっぱり海はいいな」
 体育座りした浩太の正直な一言に、同じように体育座りした他の二人も頷く。
「いやー、夏休み前から続いた地獄の特訓に耐えた甲斐がありましたよ」
 木ノ上も眼鏡をいじりながら女性陣を眺める。
「……」
 小峯の顔は遥たちの水着姿に真っ赤になっていた。
「皆早くおいでよ! 一緒に遊ぼーっ!」
「ああ! 今行く!」
 遥の呼びかけに手を上げた浩太が、小峯と木ノ上を促す。木ノ上は立ち上がったものの、小峯は体育座りになったまま動こうとしない。
「どうした小峯。行こうぜ」
「う、うん、後で行くよ」
 どこか歯切れの悪い小峯に、浩太が何かに気づく。
「あぁ、そういうことか。健康な男子ならしょうがないけど、水着姿くらいで大きくしてるなよ」
「気持ちはわからんでもないですが、川崎君の言う通りですぞ。あれくらいの刺激、今の世の中にはゴロゴロしていますからな」
「ま、落ち着いたら来いよ」
 口々に声を掛け、二人は女性陣の方へ駆けて行く。そのまま女性陣と一緒にビーチボールを使ってラリーを始めた。小峯はそれを見ながら、必死に自分を静めようとしていた。
(なにか別のことを考えよう。えっと、えっと……)
 焦れば焦るほど、他のことが考えられない。そのため、自分の目の前に影ができるまで人が近づいていることに気がつかなかった。
「小峯くん、大丈夫? 浩太は気分が悪いからそっとしとけって言ってたけど」
「は、遥さん! 大丈夫、ちょっとだけだから!」
 顔を赤らめる小峯を見て、遥は小峯の額に手を当てる。
「うーん……ちょっと熱があるのかなぁ」
 心配そうに小峯の顔を覗きこむ遥だったが、小峯はそれどころではなかった。額に当てられた遥の手の感触、遥の匂い、そして目の前には胸の谷間。
「ほ、ほんとに大丈夫だから! もう少ししたら行けると思うから心配しないで。ほら、香夏子さんがこっち見てる。行ってあげて」
 小峯は上気したままで捲くし立てる。
「うん……無理しちゃ駄目だよ、日射病かもしれないから」
 そう言うと、遥は何度か振り返りながら皆のところに戻って行く。
(遥さんの、大きかったな……まずい、治まるどころじゃないよ)
 目には先程の遥の胸の谷間がしっかりと焼きついている。それを消そうと頭を強く振る小峯は、こちらを見ていた浩太と視線が合った。浩太は他のメンバーからはわからないように親指を立て、ニヤリと笑った。
(後でまた何か言われそうだな……ホント、情けない)
 結局、小峯が動けるようになったのはそれから十分が経過してからだった。

 夕方、砂浜を一人で歩くワンピース姿の香夏子の姿があった。
 夕食の準備までの時間は自由行動ということになり、遥と浩太はもう少し練習すると言い出したため、付き合わされては堪らないと先程まで遊んでいた海岸へと散歩に出たのだ。夕暮れの日差しは昼間とは違い刺すような鋭さはなく、海からの風が優しく髪を撫でていく。繰り返す波の音が耳に心地良い。
「よぉ彼女、一人?」
 折角のいい気分をぶち壊してくれたのは、頭にバンダナを巻き、黒いタンクトップと短パンを身につけた色黒の男だった。無視して来た道を戻ろうとすると、素早く回り込んで香夏子の前を塞ぐ。
「つれねぇなぁ。ちょっとお話するくらいいいだろ?」
「私、急いでますから、これで」
 すり抜けようとした香夏子の腕が男に掴まれる。
「さっきまでそこをゆっくり歩いてたじゃねぇか。嘘はいけないぜ、ペナルティとしてちょっと付き合ってくれよ」
「なんでそんなことで! 放して!」
 嫌がる香夏子だったが、男はその腕どころか肩にまで手を回してくる。見知らぬ土地で、見知らぬ男に捕まった。女性としての本能的な恐怖が香夏子を襲う。
「嫌だ、誰か!」
 そこに走り寄り、男を突き飛ばす者がいた。突然のことに男の手が香夏子から放れると、香夏子を自分の背後に庇う。
「い、嫌がってるじゃないですか、やめてください」
「小峯くん……」
 香夏子を庇ったのは小峯だった。香夏子がそっと触れたその背は震えていた。
「なんだぁ? お前この子の彼氏か?」
「彼氏じゃないけど……仲間です」
「なんでもいいけど退けよ、俺はこっちの可愛い子に用があるんだよ」
 男は小峯を横に押し退け、香夏子の前に立つ。
「なぁ彼女、ちょっと食事に付き合ってくれよ。別に変なことはしないからさ」
「い、嫌よ、放して、嫌っ!」
 男は香夏子の手首を掴み、強引に引っ張る。その力は強く、踏ん張っても引きずられてしまう。
「香夏子さんを放せっ!」
 小峯は男の腰にしがみつくが、簡単に蹴飛ばされ、地に転がる。
「香夏子っていうのか。それじゃ香夏子ちゃん、行こうか」
「嫌だって言ってるでしょ!」
「香夏子さん!」
 何度倒されても小峯は諦めず、そのたびに立ち上がって男を阻止する。
「……しつこいぞ、クソ餓鬼」
 男の表情が変わった。空いた手で小峯のTシャツを掴み、鳩尾に膝蹴りを入れる。
「げぁっ!」
 内臓を直接揺さぶる打撃に、小峯は倒れ込んで悶絶する。男は砂の上で呻く小峯を何度も踏みつけると、鼻を一つ鳴らして強引に香夏子の肩を抱き、無理やり引きずっていく。
「小峯くん! 誰か、誰か来てっ!」
「無駄だよ、誰が来ても俺を止められないって……ん?」
 足首に違和感を感じ、男が下を向く。小峯だった。地に這い蹲りながらも、右手で男の足首を掴んでいる。
「香夏子さんを……放せ……!」
「うぜぇな……いいかげん寝てろ!」
 男が掴まれたのとは逆の足を上げる。男の足の下には小峯の頭があった。一瞬先に訪れる光景に、香夏子は悲鳴を上げた。
「待てコラァッ!」
 突然の背後からの蹴りにバランスを失った男の足は、小峯の頭のすぐ横を踏み、思わず香夏子を放していた。
「誰だっ!」
「川崎くん!」
 浩太は香夏子を後ろに庇い、男を睨みつける。
「お前、うちのマネージャーに手を出しただけじゃなく、レフェリーにまで怪我させやがったな。ただじゃ済まねぇぞ」
 浩太は指の関節を鳴らし、臨戦体勢に入る。
「わけわかんねぇこと言いやがって。まあいい、お前も倒して香夏子ちゃんとデートだ」
「だから嫌だって言ってるでしょ! 川崎くん、やっちゃって!」
 男からかなり距離を取った香夏子が浩太に声援を送る。男は無造作に近づいて浩太の胸倉を掴もうとしたが、逆に両手首を掴まれる。
「放せコラッ!」
「お前だって、さっき鳥咲の手を放さなかったじゃねぇか。勝手な奴だな」
「るせぇっ!」
 男の頭突きを浩太は身を沈めてかわし、男の勢いを利用して後方に投げ飛ばす。
「そんなもんか? ほら、立てよ」
「くそっ!」
 男は鼻息荒く大振りのパンチを振り回すが、浩太にはかすりもしない。
「くそがはっ!?」
 男のパンチを掻い潜った浩太の右アッパーが男の顎を捕らえ、打ち倒した。
「まだやるかい?」
 浩太は砂浜に倒れた男を覗き込み、静かに威圧する。
「……やるに決まってんだろうが!」
 突然、浩太の視界が塞がった。両目をざらつく痛みが襲い、涙が零れる。いきなり腹部に衝撃が来た。
「おぐぅ……」
「舐めた真似しやがって、半殺しじゃ済まねぇぞ!」
 砂で目潰しした男が、浩太の腹部に何度も膝蹴りを入れる。
「もうやめて! 川崎くんが死んじゃう!」
「なら、デートでいいな?」
 息を荒げた男の確認に、香夏子は頷きを返そうとした。
「……鳥咲、こんな奴とデートなんかしなくていいぞ!」
 叫ぶと同時に男の胴を抱え、浩太はそのまま後方に投げを放った。綺麗に決まった投げに、男の頭が砂に突き刺さる。浩太が抱えていた胴を放すと、大の字になって倒れ込む。
「あー、ようやく見えてきやがった。さて、まだやるかい?」
 何度も目を瞬いていた浩太が、油断なく男を見据える。男は定まらない視線で浩太を睨んでいたが、やがて立ち上がり、背中を向けて去って行った。
「大丈夫か小峯」
 浩太が声を掛けると、うつ伏せになっていた小峯ものろのろと立ち上がる。
「う、うん、なんとか。これも練習の成果かな……いてて」
「大丈夫!?」
 香夏子は半泣きで小峯の怪我の状態を調べる。小さい頃から遥の手当てをしてきたため、おおよその程度はわかる。たいした怪我はないとわかると、安堵の息をついた。
「小峯くん、ごめんね、私を庇って……」
「香夏子さんが謝ることないよ。悪いのはさっきの男だし」
「木ノ上が近くにいてよかったな。俺を呼んだのはあいつなんだ」
「……見てたのなら助けてくれればよかったのに」
 香夏子の非難に浩太が苦笑する。
「そう言うなよ。木ノ上はさっきの奴に敵わないと思ったから、俺を呼んだんじゃないか。最善の判断だったと思うぜ。それに全力で走ってきたみたいで、伝えること伝えたらひっくり返っちまったからな」
「そうなんだ……」
 一生懸命頑張ってくれていた木ノ上を非難したことに、香夏子は自分自身に嫌悪感を感じていた。
「そうだ、遥は? 遥は来てないの?」
「ああ、先生の親父さんと野菜を運んでる。あいつが来るとさっきの奴を半殺しにしかねないから、何も言わずに俺だけ飛んで来た」
「……それ、やりそう」
 中学生のとき、香夏子にしつこく付きまとう男子がいた。香夏子がはっきり断ると逆上し、香夏子の頬を叩いて逃げた。丁度その場面を目撃していた遥が男子を捕まえ、馬乗りになって殴りつけるのを香夏子は必死になって止めた。
 顔を腫らし、鼻血を流すその男子に、
「二度と香夏子に近づくなっ! 香夏子は私の親友なんだからねっ!」
と言ってくれた遥の姿と声が今も忘れられない。
「と、取り合えず、こより先生の家に戻りましょ。心配させても悪いし!」
 香夏子は小峯と浩太の背中を押し、努めて明るい声を出す。
「その前に、川崎くんは真水で目を洗う! 傷口からばい菌が入ったら失明するわよ! あと……」
 なぜか小峯の顔を見ることができない。
「小峯くんは、後で消毒してあげる」
 潮騒が、胸に響いた。

 こよりの家に戻った三人は交代でシャワーを浴び、夕食の準備を手伝った。
 夕食の後は庭で、こよりの父親が用意してくれた花火を楽しんだ。
「小峯くん……」
 遠慮がちな声に、小峯が振り返る。
「あ、香夏子さん。さっきのこと、遥さんには?」
「うん、小峯くんと川崎くんの怪我もあったから、遥とこより先生にも伝えておいた。その……ありがとう、あのときお礼も言わずにごめんなさい」
 赤い顔で頭を下げる香夏子に、小峯が慌てて手を振る。
「い、いいよお礼なんて。結局香夏子さんを助けたのは浩太くんだし、僕なんの役にも立たなかった。僕がもっと強ければ、香夏子さんに怖い思いもさせなかったのに……」
「ううん、小峯くんがいなかったら川崎くんも間に合わなかったと思う。もしそうなってたら……」
 今更ながら込み上げた恐怖に、香夏子の身体が震える。
「それに、必死に守ってくれた小峯くんの気持ちが嬉しかった……」
「……」
 遥と浩太はロケット花火を手に持ったまま発射し、こよりから怒られている。
「……僕、中学まで逃げてばっかりだったんだ」
 小峯がポツリと呟く。香夏子は黙って耳を傾ける。
「北高に入学したのも近いからって理由だけ。これじゃ駄目だって柔道部に体験入部したら、受身の練習で気絶。やっぱり僕は駄目な男なんだって思ったとき、遥さんの闘いを見ることができた」
 そのときのことを思い出そうとするように、小峯は夜空を見上げた。普段見る夜空より、星が近くに見える。
「自分でも信じられなかったけど、僕からプロレス同好会に入れて欲しいって頼んでた。もし同好会に入らなくて練習もしてなかったら、さっき香夏子さんが危なかったとき、助けに行かずに震えてたかもしれない。少しでも変われたのかなって、今では思う……でも、練習しても自分じゃ助けられなかったけど」
 はにかむ小峯の横顔を、香夏子は黙って見つめていた。
「次は、小峯くんが助けてね」
「うん、頑張って練習して、女の子を守れるくらいには強くなりたい。でも、守らなくてもよさそうな子もいるけど」
 小峯の視線の先には、こよりの目を盗み、ロケット花火を持つ遥がいた。香夏子も思わずくすりと笑ってしまう。
「……がんばろうね」
 ロケット花火が、夜空に舞った。

 翌日、昼食までご馳走になったメンバーは、こよりの両親に別れの挨拶をしていた。
「こより先生のお父さん、お母さん、お世話になりました!」
「またおいで。遥ちゃん、次は負けんからな」
 こよりの父は右腕を叩き、にかっと笑う。
「短い間だったけど、こっちも楽しかったわ。帰るとなると寂しいわね……」
 こよりの母は目頭をハンカチで押さえながら微笑む。
「父さん、母さん、本当にありがとう。また帰省するから」
「そんときゃ婿の一人でも連れて来い。孫つきは許さんぞ」
「と、父さん!」
 父の冗談にこよりが赤くなる。メンバーたちの笑い声が耳に痛い。
「ほ、ほら、帰るわよ皆」
 手を振ったり、頭を下げたりと思い思いのやり方で別れを告げ、メンバーたちは背を向けた。その背にこよりの両親の暖かい視線を感じながら。

「いいご両親ですね、こより先生」
「ふふっ、ありがとう、来狐さん」
「ホントに。お世話になりっぱなしで申し訳なかったです」
「そうですよね、寝るところから食事まで用意してもらっちゃって」
「ありがたくて涙が出る寸前でしたぞ」
「それは嘘でしょ!」
 帰りの電車の中、和やかに笑いあうメンバーたちの中、ただ一人、浩太だけが窓の外を眺めていた。
「両親、か」
 その呟きは、誰の耳にも届くことはなかった。


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