「ふぅ……」
小さくため息をつき、教室を見渡すのは小峯だった。
今日は二月十四日、バレンタインデー。
お菓子会社の謀略で女性から意中の男性にチョコを送る日とされ、今では本命チョコ、義理チョコ、友チョコ、自分用など様々な形態が生まれている。逆に言えばモテない男にはクリスマス同様、身の置き場がない日である。
クラスの雰囲気もどこか浮つき、朝からチョコレートを配る女子もいる。小峯も中学時代までに義理チョコをもらったことはあるが、数は少ない。
なんとなく居たたまれない気分になり、教室を出た。
「あ、小峯くん」
丁度教室を出たところで香夏子に呼び止められる。
「はい、これ」
差し出されたのは、包装紙に包まれた両手に乗るくらいの箱。ということは……
「え、もしかしてチョコ?」
「うん、そう……」
「うわぁ、ありがとう。義理チョコでも嬉しいよ。プロレス同好会入ってよかった〜」
「……帰ってから食べてね、学校の中だと怒られるよ」
それだけ言い残し、香夏子は足早に去っていく。チョコをもらったことに感動している小峯は、その表情に気づかなかった。
その日の練習の終わり、男子の前に女性陣が並ぶ。
「えー、今日は全員揃ってるね。では、バレンタインということで」
女性陣三人が進み出て、遥は鼻の頭に絆創膏を貼った浩太に、こよりは木ノ上に、香夏子は小峯にそれぞれチョコを渡す。
(あれ、さっきくれたのに、また?)
疑問のままに小峯が香夏子の顔を見ると、香夏子ははにかんで後ろに下がる。
「はい浩太、私たちの心のこもった義理チョコ♪」
「はっきり義理チョコとか言うな! 男心のわからない奴だな」
遥と浩太はいつものやりとりで周りの笑いを誘っている。
「浩太、今年はこれ一個とか? 寂しいバレンタインだね〜」
「いやいや、川崎君はクラスの女子からいろいろともらっていましたぞ。上級生らしき女性からも呼び出されていましたな」
「てめ、木ノ上! なにバラしてんだ!」
焦る浩太を遥が冷たい目を向ける。
「ほっほ〜、モテモテですなぁ浩太先輩。じゃあもうこんな義理チョコなんていらないでしょ?」
「い、いるって。ください遥さん、これでいいか?」
ジト目でチョコを取り上げる遥に、浩太も大袈裟に頭を下げる。
「まあいっか。お返しも楽しみにしてるからね♪」
「お返しか……気持ちだけじゃ駄目か?」
「駄目に決まってるでしょ。嫌ならいいよ、このチョコは没収」
「冗談だって! 返せ!」
遥と浩太のやり取りも、香夏子から貰った二つのチョコの意味に悩む小峯の目には入らなかった。香夏子を見ても、香夏子は小峯から視線を逸らし、遥を嗜めている。それがどこかわざとらしく感じたのは、小峯の思い過ごしだろうか。
「それじゃ、今日はこれで解散! チョコは家でおいしく食べてね♪」
「香夏子さん、あの……」
「それじゃ、私もう着替えるから」
小峯の呼び掛けに、香夏子はなぜか顔を赤らめ、足早に去っていった。
夜、自分の部屋で難しい顔をしている小峯の姿があった。小峯の前には包装された二つの小さな箱。一つは休み時間に香夏子からもらったもので、もう一つは練習の後にもらったもの。
「練習の後のはプロレス同好会の義理チョコってことだよね。じゃあもう一個は……」
淡い期待と、それが裏切られたときのショックを思うと無難な答えになってしまう。
「友チョコってこと、だよね」
いつまでも悩んでいても仕方がないと、両方の包みを開けてみる。練習後のものには普通のチョコが、もう一つには手作りと思しきチョコレートケーキと……
「手紙?」
可愛らしい封筒にハートマークのシールで封がされている。胸が高鳴るのを感じながら、丁寧に開けてみる。
「Dear 小峯くん
この手紙が入ってるのを見て、びっくりしたんじゃないかな?
私の気持ちを知ってもらいたくて、手紙を書きます。
あの夏の日の事件から、私の中で小峯くんへの気持ちが大きくなっていきました。
それに、最近小峯くん、表情が引き締まってきたし……
今付き合ってる人はいますか?
もし付き合ってる人がいないのなら、私と付き合ってもらえませんか。
From 香夏子」
「え、え、えええっ!?」
(これって、こ、告白? 香夏子さんが? ぼ、僕に!?)
自分が女の子から告白されるなど考えたこともなく、文面だけがグルグルと頭の中を回る。「付き合ってもらえませんか」との一文は、誤解のしようがない。
「でも、香夏子さんあんなに可愛いのに、どうして僕なんか」
もしかしてドッキリかも。そうも考えてしまう自分が情けない。ちらりと時計に目をやると、八時を回っていた。
「……電話、してみようかな」
プロレス同好会のメンバーの携帯番号は全員分知っている。当然香夏子のも。
メモリーから香夏子の番号を呼び出し、また消すということを何度か繰り返し、覚悟を決めてコールボタンを押す。コールが鳴っている間、胸の鼓動が激しくなっていく。
『……はい』
「あ、か、香夏子さん?」
『うん』
「小峯だけど……手紙、読んだよ」
『……そう』
「あの、それで、その……なんで、僕なんか」
『手紙に書いた通りだよ。小峯くんは、私のヒーローなの』
「ヒーロー……」
背中がむず痒い。
『あのね、返事……教えてくれないかな?』
「返事、って……あ!」
「付き合ってもらえませんか」の一文のことだろう。思わず唾を飲み込んでいた。
「でも、香夏子さん、僕のクラスでも評判なくらい可愛いのに、ホントに僕でいいの?」
『私の気持ちは、手紙に書いたままだよ。小峯くんは、私のことどう思ってるの?』
「僕は……」
ふと、遥の顔が過ぎる。しかしその顔が香夏子の顔へと変わる。
夏の夜、花火をしながら二人で語った思い出。
ボーリングのときにハイタッチを交わしたこと。
皆で行った初詣で見せた香夏子の振袖姿。
チョコをくれたときの、香夏子のはにかんだ笑顔。
そして、海での泣き出しそうな顔が目に浮かぶ。
「……うん。僕で良ければ、お願いします」
『ううん、小峯くんじゃなきゃ駄目なの。こちらこそ、お願いします』
電話越しに頭を下げる。香夏子も頭を下げていることが、なぜか確信できた。
さっそく、日曜日に初デートをしようということになった。
(デートって言っても、どこに行けばいいんだろ……映画? 食事? 遊園地? ううっ、女の子とのデートなんて初めてだからわかんないよ!)
相談相手もおらず、小峯はベッドの上を転げ回る。まさか妹に尋ねるわけにもいかない。結局近所にある文殊書店で蝶舞市のガイドブックを購入し、紙面とのにらめっこをすることになった。
次の日の小峯はまるで集中力がなく、授業内容も頭に入らず、同好会での練習も身が入らなかった。遥からかなり強めに注意をされたが、それすらも小峯には響かなかった。
デート当日、二人は中央駅前で待ち合わせた。香夏子は黄色いトレーナーの上にジージャンを羽織り、マフラーを首に巻き、デニム地のミニスカートにハイソックスで決めている。
「香夏子さん……その、可愛いよ」
「ありがとう。小峯くんもカッコいいよ」
小峯はセーターの上に革ジャンを着、下は黒のスラックス、頭には某球団の帽子を被っていた。お世辞かもしれないがカッコいいと言ってもらえると、服が決まるまで二時間も悩んだ甲斐があったというものだ。
「それじゃどうしようか。香夏子さん、行きたいところとかある?」
「ううん、別にない。小峯くんが決めて」
「そう? じゃあね、映画観に行こうよ。丁度観たいアクション物やってるんだ」
映画館に入った小峯は、香夏子が気になって映画どころではなかった。隣に座った香夏子からは女の子特有の甘い香りがし、スクリーンを見つめる横顔は淡い光を浴びて神秘的な雰囲気を漂わせている。
「? なに、小峯くん」
「い、いや、なんでもないよ」
まさか香夏子に見惚れていたとも言えず、首を振ってごまかす。
結局映画の内容もよくわからないまま上映が終わってしまった。
「もうお昼か。香夏子さん、お腹空かない?」
「そうね、空いたかも」
「じゃ、お昼にしようよ。この近くに美味しいパスタ屋さんがあるんだって」
小峯は予定通り、ガイドブックで予習した店に誘う。香夏子とどこかぎこちない会話を交わしながら、パスタ店「Parotto」へと到着した。
「お客様、ご注文はお決まりですか?」
ウェイターの言葉にも顔を上げず、小峯はメニューとにらめっこをしていた。なにかに気づいた香夏子が小声で小峯を呼ぶが、どのメニューを選べば香夏子に軽蔑されないかと考えていた小峯はそれに気づかなかった。
「お客様……おい小峯」
「な、なに?……ええっ!?」
突然名前で呼ばれて顔を上げると、そこにはウェイター服を着た浩太が立っていた。注文用の入力装置を片手にニヤニヤとしている。
「な、なんで浩太くんがここに!?」
「バイト中ですよお客様。……小峯、隅に置けないなお前も。二人っきりでデートとはやるじゃねぇか。いつから鳥咲と付き合ってるんだ?」
後半は小峯に顔を寄せ、小声で話しかけてくる。
「聞こえてるわよ川崎くん。プライバシーの侵害よ、それ」
「まあいつからでもいいんだけどよ、他の皆には言ったのか? どうせすぐバレるんだから、先に報告しといたほうがいいんじゃないか」
「う……それはおいおい……ね」
取り合えずナポリタンを注文し、浩太に下がってもらう。食事の間ずっと浩太が気になり、落ち着いた雰囲気での昼食とはいかなかった。
食事も終わり、浩太の挨拶と視線に送られて「Parotto」を後にした。
「まさかこんなとこで浩太くんと会うなんて……」
「でも、サービスもしてくれたし、別に隠すことでもないし」
口ではそう言いつつも、香夏子は少し恥ずかしそうだった。しかし浩太と会ったからか、二人の間にはリラックスした雰囲気ができていた。デート当初のような固さはなくなり、言葉がスムーズに交わされる。
「おい香夏子? 香夏子じゃないか」
突然香夏子の名を呼ぶ男がいた。二人が振り向くと、髪を茶髪に染めた軽薄そうなイケメンが香夏子を見ている。
「……! 九条、先輩……」
その男を見た香夏子の顔が強張る。
「香夏子さん、知り合い?」
「うん……ちょっと、ね」
小峯の問いに、香夏子は歯切れの悪い答えを返す。
「久しぶりだな。せっかく会ったんだ、ちょっといいか?」
「私、今デート中ですから、これで失礼します。行こう、小峯くん」
香夏子は小峯を急かし、九条から離れようとする。
「元カレの頼みなんだ、少しくらい聞いてくれてもいいだろう」
九条が強引に香夏子を引っ張ったことで、香夏子がバランスを崩す。
「痛っ!」
そのまま地面に崩れ、足首を押さえる。
「香夏子さん!」
「……足首ひねったみたい」
「それは悪かったな、お詫びにおごるよ」
九条は香夏子の腕を持って立たせようとするが、香夏子はその手を振り払った。
「放してください! 私と先輩はもうなんの関係もないでしょう!?」
「……人が大人しくしてればつけあがるじゃんよ」
九条の声が低くなる。
「俺を本気で怒らせたらどうなるか、教えてやろうか? たっぷりと、な」
なまじ整った顔つきのため、冷たさが余計際立つ。
「……香夏子さん、ごめん!」
「きゃっ!」
突然だった。小峯は香夏子をお姫様だっこし、ダッシュで駆け出す。
「こ、小峯くん……!」
「お、おい……」
あまりの逃げっぷりの良さに九条も機を外され、そのまま小峯と香夏子を見送ってしまった。
小峯はそれから五分ほど走って土手まで逃げると香夏子を降ろし、仰向けに倒れ込んだ。
「小峯くん、大丈夫?」
香夏子はしゃがみ込み、荒い息を吐く小峯の顔を見つめる。
「うん、大丈、ぶ……っ!?」
小峯は何かに気づき、顔を赤らめて視線を逸らす。
「ど、どうしたの? やっぱりどこか痛めたの?」
「ち、違うよ、その……」
「はっきり言わないとわからないわよ、どこが痛いの?」
心配顔で小峯を見る香夏子に、顔を逸らしたまま小峯が答える。
「そうじゃなくて……香夏子さん、パンツが……」
小峯の指摘に、香夏子は慌ててスカートを押さえる。
「……見た?」
香夏子はスカートを押さえたまま、赤らんだ顔で小峯を見る。
「いや、見てないよ! 少ししか見てない!」
「エッチ……」
「そんなぁ……僕が覗いたわけじゃないのに」
「そうなんだけど……そうよね、私のガードが甘かったからだもんね。ごめん、八つ当たりだった」
ため息をつき、香夏子が謝罪する。
「と、とにかく、全力疾走したから疲れただけだよ。もうちょっと休ませて……香夏子さんこそ、足首ひねったんでしょ、一緒に休もう」
香夏子はしばらく小峯を眺めていたが、ハンカチを地面に敷いてその上に膝を崩して座ると、小峯の頭を自分の太ももの上に乗せる。
「!」
「私はもう大丈夫だから。さっきはありがとう。私、重くなかった?」
「ううん! 全然! 柔らかくっていい匂いで、全然気にならなかったよ!」
「それだと重いの我慢してたみたいに聞こえるんだけど」
「ホントに重かったら僕じゃ抱えきれないよ。僕の方こそ頭、重くない?」
「ちょっとだけ」
しばらく沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは小峯だった。
「あの九条って人、元カレって言ってたね」
「うん……でも、一ヶ月しか付き合ってないんだけどね」
九条は香夏子の中学時代の一年先輩だった。学校でも評判のイケメンで、企業の御曹司でもある九条に告白された香夏子は喜んでOKしたものの、九条はあまりに身勝手な行為が多く、すぐに喧嘩別れしてしまった。
「ホントに嫌な先輩だった。二人きりになったらすぐに厭らしいことしようとしてくるし」
「そうなんだ……」
「でも小峯くんすごいね、私を抱えてここまで運ぶなんて」
「うん、自分でも驚いてる。香夏子さんが軽かったのもあると思うけど、ここまで連れて来られるとは思わなかった。練習の成果かな」
「今度は、守ってくれたね」
香夏子の一言が、夏の日を思い出させる。そのまま見つめ合う二人。風の音が耳に届く。
(なんだろう、ドキドキしてきた……)
香夏子の瞳を見つめていると、胸の鼓動が高鳴る。
「も、もう大丈夫だから」
慌てて体を起こすが、香夏子の瞳から目が離せない。胸の鼓動はますます高まっていく。どちらからともなく距離が縮まり、唇が触れ合っていた。
示し合わせたように、そっと顔を離す。
「……キス、しちゃったね」
香夏子の微笑みが、小峯の鼓動を跳ね上げる。
「……うん。香夏子さん、もう一回したい」
小峯は香夏子の背中に手を回し、自分の胸の中に抱き寄せ、もう一度唇を重ねる。甘く柔らかな感触に胸が震える。
「……んもう、強引だね」
口ではそう言うものの、香夏子の口調は怒ったものではなかった。頬を染め、はにかんだ表情で小峯を見つめる。
「香夏子さん……僕、香夏子さんが、好きだ。恋人になって欲しい」
自分でも驚くような言葉がするりと口から出る。それでも、後悔はしない。
「……ありがとう。私も、小峯くんが好き……大好き」
夕日が、口づけする二人を照らしていた。